暑さも寒さも彼岸まで


 夏休みが明けた。

 長かった予備校や高校の夏期講習も終え、三年生の殆どは白い肌のまま二学期を迎えた。大会のあった運動部は別だが。

 朝臣は職員室の担任の机の前で椅子に座っていた。一年から回収したノートが山積みになり、雪崩が起きそうになっている。こちらに雪崩れてきませんように、と願いながら朝臣は進路希望調査の紙を提出した。祖父の名前と印鑑も入っている。


「経営学科……会社でも立ち上げるのか?」

「花を売る仕事がしたいんです。園芸とか農学の方も考えたんですけど、大学入ってから経営学びつつそっちの勉強は独学でやっていきます」


 夏の面談で一言二言しか話さなかったのとは大違いだ。どこか決意めいたものを感じる。迷っていた答えが出たのだろう。

 担任教師は大学一覧を捲る。書かれた大学の偏差値なら妥当なところだ。それも考慮して書いたのだ。朝臣は抜かりない。


「分かった、また何かあったらいつでも来い」


 そう言われ、苦笑いを返す。


「先生、疲れてます?」

「まあ、進路決まってなかったのお前だけじゃないからな。他のクラスには浪人したい生徒とさせたくない保護者で対立してるのもいるし」

「それは大変ですね」

「染川は聞き分けが良いように見えて、根はすごい頑固だろ」


 見抜かれ、更に苦笑い。教師は生徒をよく見ているのだなと感じる。いや、この担任が朝臣を見てくれていたのか。


「植物と同じだな。根が変わらない」


 冗談のつもりだったのだろう。担任は言いながら進路希望調査をしまった。朝臣は立ち上がらずにいると、担任がそちらへ顔を向ける。


「どうした?」

「根っこが強いってこの前、知り合いに言われて……。そういう意味だったのかなと」

「強いだと、また違うんじゃないか。頑固ってよりは負けないって意味だろう」


 負けない。ということは、勝てるということか。

 そもそも何に勝って、負けるのか。

 職員室を出て暫く考えていると、ポケットの携帯が鳴っていたのに気付く。画面をみると鎌崎から。


『もしもし、朝臣くん。今、大丈夫?』

「はい。昼休みです」


 鎌崎も昼休みだと考えて電話をかけてきたのだろう。

 廊下を抜けて、美術室のある旧校舎へと足を向ける。生徒の声が遠くなり、しんと静まった。ここならば鎌崎の声が聞きやすい。


『優夜の作品、見たいの?』


 『優夜さんの絵はどこで見られますか?』とメッセージを送ったのは今朝のこと。それに対してメッセージではなく電話を返すのが鎌崎らしい。


「はい。近くの本屋に問い合わせてみたんですけど置いてなくて、鎌崎さんなら画集持ってるかなと」

『画集ならあるけど……。今度の祝日、空いてる?』


 見せてあげる。

 その言葉に朝臣は頷き、返答した。



 人を構成するものは何だろうか。鎌崎は副都心駅の雑踏の中でふと考える。これだけ多くの人の中で、自分が自分だと言えるものとは。それを証明するには何が必要か。

 目の前のビルの壁面に飾られたアート。そこにあるのが当たり前で、わざわざ皆目を向けることはしないが、それも誰かの作品だ。


 鎌崎が女性らしい格好をするようになったのは大学からだ。高校の時は中性的な服装で誤魔化していたが、大学に入って初めてレディースの服を買った。店員の女性は開口一番に『プレゼントですか?』と尋ね、鎌崎は曖昧に笑い、結局自分が着るのだと白状した。

 少し驚いた顔をした後、店員は『それでしたら』とその場を離れて戻ってくる。


『お客様はスラッとされてますので、ふわっとしたトップスで、下はタックスの入ったパンツとかもお似合いです』


 鎌崎より十センチ程背の低い彼女は手を伸ばして鎌崎へ洋服を当ててくれた。

 正直、試着室で少し泣いた。自分が許された気がした。「誰に許されなくても在るだろ」と優夜ならば言うかもしれないが、鎌崎はやはり許されたかった。ずっと優夜以外に自分を許してくれる人間がいなかったから。

 自分すら。

 鏡に映る自分を見る。

 自分すら、自分を許せないときがある。

 性別を間違えて生まれたことか、親の期待に添えないことか、自分を愛せないことか。


『お客様、どうですか……? サイズなどは……』

『あ、はい!』


 涙を拭い、鎌崎はカーテンを開ける。店員は鎌崎を見てふわりと笑った。


『とてもお似合いです』


 他人に許されて、自分を愛するなんて。傲慢な生き方に優夜は一蹴するだろうか。それでも、少しずつそうして愛していく。


『死にたい夜をいくつも越えて、それでも生きる選択を続ける』


 あの日、優夜と暁とイタリアンに行った夜。アップライトのピアノを見て即興演奏した暁が拍手を貰うなか、優夜は酔って眠そうに話した。


『それは時折、とても幸福なことにも幸運なことにも思える』

『そうね』


 死にたい夜をいくつも越えたことを、否定はしなかった。実際、鎌崎も暁も優夜も、いくつも越えたのだ。


『鎌崎さ』

『うん?』

『もう待たなくて良いよ、描くの』

『え?』

『わたし、たぶん、もう』


 聞きたくない。

 あの時、その言葉の続きを遮ってくれたのは朝臣だった。しかしこの言葉の続きをまた促したのも朝臣だ。

 どうして描かないのか、なんて。そんな酷な質問は無いだろう。子供は時にとても残酷だ。


『姉さん! 一緒に連弾しよう!』


 暁の言葉に、そちらを向いた。

 地獄の底を見下ろしていたような顔から、遊園地で迷子が家族を見つけた時のような安堵の顔へと変わる。

 ピアノの椅子の横をぽんぽんと叩く暁に、鎌崎はまたもや救われた。優夜は腰を上げてその隣に座る。


『あれ、姉さんが弾けるのってなんだっけ。アラベスク? メヌエット?』

『いや、エーデルワイス』

『おっけーおっけー』


 ゆっくりと演奏が始まった。鎌崎の心臓は嫌な高鳴り方をしていた。

 鎌崎にも死にたい夜は片手では数えられない程にはあった。しかし、今はそうでもない。それは少しは自分を愛せたり、周りから受け入れられたりしているからか。昔よりずっとずっと生きやすくはなったのだ。

 優夜はどうだろうか。

 もし、今も死にたい夜が続いていたとしたら。


「鎌崎さん、すみません」


 呼ばれた方へ顔を向ける。前に会った時より目線が高くなっている気がした。朝臣は鎌崎を見る。


「お待たせしました」

「ううん。時間ぴったり、これが普通よね」

「今、優夜さんと比べました?」

「あの子、時間と約束にルーズ過ぎて。社会に放り出されたら絶対生きてけないと思わない?」

「少し……分かる気が」


 優夜のバイトする姿を想像するが、うまく描けない。飲食も販売も接客もデータ入力も任されて、放置し勝手に帰りそうだ。いや、もしかしたら器用にやってのけるのかもしれないが。

 鎌崎は笑い、ギャラリーへと足を向ける。


「勉強は順調?」

「そこそこです」

「優夜から、進路決まったって聞いたよ」

「優夜さん、俺の話するんですか?」

「するよ、普通に。どんな花植えてるとか、どんな話したとか」


 ちらと視線を向ければ、朝臣は形容しがたい表情。

 どういう思考なのか気にはなるが、先に言葉を発したのは朝臣だった。


「ここ、鎌崎さんの職場ですか?」

「あ、うん」

「祝日ですけど……」


 優夜にギャラリーのことを聞いて調べたのだろう。祝日は定休になっている。


「今日は特別」


 ふふ、と笑って鎌崎は足を止めた。ギャラリーの前についたが、正面玄関はもちろん閉まっている。白いその壁に沿って歩き、裏口へと行く。

 朝臣は静かにそれに着いていき、鎌崎の開いた扉を通り歩いた。中は灰色の壁だ。

 スタッフオンリーの部屋に入った鎌崎を追って良いのか考え立ち止まっていると、再度扉が開いた。

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