秋の扇


「どうぞ、入って」


 言葉に甘え、中へ入る。事務所のようで机が並べられている。積み重なった資料などの山に、職員室を彷彿とさせる。鎌崎がひとつの椅子を引いて勧めてくれた。そこへ座るとすぐに画集が差し出された。


 白から赤へ、赤から黄色へ、黄色からオレンジへ、オレンジから青へ、青から黒へ。表紙のグラデーションに目が奪われる。


「綺麗ですね」


 携帯の小さい画面で見るのとは違った。紙の質感、色の具合を考えて作られたのだろう。真ん中の黄色の線が、水平線に見えた。朝日が上る前のような、夕日が沈む前のような。


「ね」


 同意と共にコーヒーを出してくれた。ありがとうございます、と頭を下げて画集を捲る。

 鮮やかな色、繊細な線。初めて優夜のスケッチブックを見たときを思い出す。朝臣には絵の良さは全く分からないが、優夜の作品からは強さを感じた。大きな力の強さを。


 モチーフは主に花が多い。たまに人や、動物、無静物。最後の方に、少女が二人向かい合っている作品があった。あの絵だ。


「朝臣くんって、優夜のこと好きなの?」


 自分のデスクに座った鎌崎は、頬杖をつきながら熱心に画集を見る朝臣に尋ねる。ぱっと顔を上げて、朝臣はまた先程のような顔をする。

 なるほど、わかった。これは照れた表情なのか。

 鎌崎は勝手に頷き、そしてその沈黙を肯定と捉える。


「優夜は……やめといたら?」


 それから、善き大人からのアドバイス。

 目を瞬かせた朝臣が口を開く。


「鎌崎さんがそう言うとは思いませんでした」


 落胆の色が声に混じる。朝臣は鎌崎にとっても良い友人ではあるが、それを安易に勧めることはできない。友人だからこそ。


「あたし達今年二十五の歳だから、七歳差になるし」

「日本人の平均寿命の男女差がそれくらいです」

「え……」


 長い。プランが長すぎる。

 つまり、死ぬまで一緒にいる予定ということか。朝臣は本当に十代なのだろうかと鎌崎は口をパクパクさせる。


「約束すぐに忘れるし、口悪いし」

「優夜さんが口悪くなるのは仲の良い人にだけです。俺の知ってる中では、鎌崎さんが一番です」


 朝臣は画集から顔を上げて鎌崎をまっすぐ見た。鎌崎には乱暴な喋り方でも、朝臣に向かってはそう雑な言葉を吐くことは少ない。

 そう言われ、鎌崎は額を抱える。嬉しいような、そうでもないような、否定して良いのか悪いのか。

 気持ちを落ち着かせる為にコーヒーを一口飲む。


「あたしは、優夜に救われた。女っぽいとか、気持ち悪いとか、絶対言わなかった。優夜って他人のこと煽ることは言うけど、絶対に否定することは言わないのよね」


 画集を机に置き、朝臣は頷く。確かに「やらないの?」「しないの?」「どうすんの?」とは言われたが、最初に「公務員になる」と答えたのを否定はされなかった。

 鎌崎はマグカップを置いた。そして決める。

 優夜の話をしよう。蜂永優夜の生きた道の話を。


「この前会ったでしょう。弟の暁」

「はい。似てました、優夜さんに」

「あたしもそう思う。暁と優夜はね、母親を尊敬してたの」


 しかし、優夜の母親は亡くなった。高校三年の頃だ。

 暁は海外留学中、優夜は高校の近くに下宿していた。突然仕事中に倒れ、病院に運ばれ、そのまま亡くなった。双子のどちらも看取ることは出来なかった。

 二人は尊敬した母親を亡くし、生きる指針を無くした。その後、久遠の家へと世話になることになった。暁は高校を卒業して海外に拠点を作り、反対に優夜は卒業した後、久遠の本家のある関西へと行くことになる。


「本家って……」

「久遠薬品工業っていう、風邪薬で有名な会社の本家大元。優夜の父親、久遠朔也はそこの子息で、優夜の母親と駆け落ちして一緒になったの。本家じゃ結構有名みたいよ……破天荒で」

「もしかして優夜さんの性格」

「たぶん、父親譲りね」


 二人して頷く。

 優夜は高校の学費を返すまでは本家にいるつもりだった。その手段として、絵を用いたのが原因だったのだろう。数々の賞を取り、賞金をかっ攫い、名を高くしていく優夜を本家の人間がそう易々と手放すわけが無かった。

 本家を出るという交渉をすれば暁への援助を引き合いに出される。優夜はその頃、携帯を持ってはおらず暁と簡単に連絡が取れなかった。年に一度挨拶として本家に来る暁と、他人の目が無い場所で話せることも無く、結局鎌崎に会うまで本家で絵を描いた。


「殆ど、幽閉状態」


 鎌崎は視線を下にして吐いた。その言葉に、朝臣はぴくりと眉を動かす。


「狭くて、暗くて、画材の匂いで参っちゃうんじゃないのって、小さい窓がひとつあるだけで。引っ越しの時に画材運ぶのに一度見ただけなんだけど、こんな所で何枚絵を描いたのってくらい」

「優夜さんはそこで、賞を取る絵を描いてたんですか」

「うん。一人で、ずっと」


 鎌崎に再会し、本家を出た優夜は公募に出すものは描かず、書籍の表紙や広告、あとは好きに描いていた。その一部がこの画集にまとめられている。朝臣はじっと表紙を見た。

 前に香波と優夜が話しているのを思い出す。ハードルをやっているという話になった時だ。


『走ってる時ってさ』

『はい』

『すごく孤独じゃない?』


 その質問に香波が目を瞬く。朝臣も同じようにしていた。優夜はどちらの方も見ていない。


『すごく、孤独ですね』


 隣のレーンに他の選手もいる。後ろで声援を送ってくれる仲間もいる。前にはゴールテープも待っている。それでも。

 圧倒的な孤独を前にする。白い壁を前に。白いキャンバスを前に。

 優夜は一人、立っている。

 朝臣はそれを想像して、鳥肌が立った。


「原画、見てみたくない?」

「ここにあるんですか?」


 鎌崎が少し笑って首を振る。


「アトリエがあるのよ、近くに。優夜の作業場」

「行きたいです」

「即答ね。愛は偉大だ」


 その言い方は少し、優夜に似ていた。

 ギャラリーを出て、一駅ほど歩いた場所にそれはあった。普通のマンションで、今優夜の住むアパートより断然綺麗で新しく、オートロック付き。

 鎌崎はそこの鍵も持っており、扉を開けた。


「今も来てるんですか?」

「優夜は描かなくなってから一度も来てないし、あたしも久しぶりに来る」


 中は普通の間取りだった。アパートよりは狭いが、作業場として使うのなら十分な広さ。カーテンが閉まっていて、暗く、埃っぽい。


 鎌崎が先に入って窓を開ける。中に差し込む日差しが柔らかくなっており、夏が去ったことを感じた。そしてそこに立てかけられたキャンバスに朝臣は目を見張る。

 狭いと感じたのはキャンバスがあるからだ。通路の壁にも立てかけられている。大きくて斜めにしか入らなかったのであろう作品もある。


「掃除しないと、埃すごいね」

「全部、優夜さんの」

「そうそう。捨てたり売ったのもあるけど、お風呂場にもあるよ」


 近くの扉を開けばユニットバスがあった。バスタブに突っ込まれた作品たち。その乱雑さに、優夜の性格を見る。


「これ」


 朝臣は廊下にあった作品を見つけた。画材に積もる埃を払っていた鎌崎が顔を覗かせる。それはあの、少女が二人向き合っているもの。

 その作品に反応したということは、朝臣もあの事件を知ったのだと悟る。鎌崎は近くの椅子に座った。


「優夜さん、死んで終わらせるなんて甘いって言ってました」

「うん。聞いたことある」

「……線香をあげに行かなかったって、言ってました」


 言って良いのか迷い、結局言った。朝臣の判断は間違っているのか、いないのか。


「そうよ」


 鎌崎からの答えに、きょとんとした顔を見せる。鎌崎は知らないと、優夜は言っていなかったか。

 それに気付かず鎌崎は続ける。


「行かなかったっていうより、行けなかったの。あの頃ずっと記者がマンションの前張ってて、そのまま連れて行くのは憚られた。それは相手の方にも伝わってる」

「記者……」

「その記者たちの所為で前のマンション引っ越さないといけなくなったの」


 そして、あのアパートへやってきた。

 朝臣は鎌崎のいる作業場へと行く。


「優夜さんは、その事件がきっかけで描いてないんですか」


 行かなかった、と答えた優夜。行けなかったとは言わなかった。それは、行っていない自分を赦せていないからでは。

 鎌崎は朝臣を見て、微笑む。どこか哀しさを隠すような顔だった。


「そういうわけじゃないと思う。優夜は、母親が亡くなってからちょっとずつ苦しくなっていたのよ。それを、誰も気付かずに、本人さえも気付かずに放っておいたから」


 続く言葉は失われた。


「暗い話になっちゃったね。なんていうか、あたしが言いたかったのは、朝臣くんが思ってるよりずっとあたし達って重いのよ。重いもの背負ってるひと見ると、代わりに背負ってあげたくなるでしょう? でもずっとは苦しいし、その重いものって結局他人のものだから返さないといけない。一緒に持てるものってね、案外少ないの」


 朝臣は鎌崎の言葉に圧倒されていた。


「だから、優夜はやめといた方が良いと思う」




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