暮暮朝朝


 どこからか電車の音が聞こえた。


「……初めて自分で育てたのは朝顔で」


 夏の、明け方。昨夜には蕾だったのに、起きれば自分より早く花を咲かせていた。いつ咲いているのか知りたくて、夏は毎日早起きをした。

 朝臣はそれを思い出して、少し口元が緩む。そういえばアメリカンブルーも朝顔と同じヒルガオ科だ。


「初めて花が咲く瞬間を見たとき、感動しました」

「へえ、わたし見たこと無いかも」

「俺の周りにも見た人はいないです。次の日、友達に話したら興味なさそうにされました」

「まあ子供は、他にも色々楽しいことがあるからな」

「他にも?」

「絵を描くとか」


 優夜らしい例えに笑う。

 朝臣は東の、日の出る方を見た。


「花はその頃からずっと好きなのか?」


 尋ねられ、頷き返す。


「もう亡くなった祖母が好きで、俺もずっと庭で土触ってました」

「目に浮かぶ」


 幼い朝臣が雅史の庭で土を弄っている。花に水をやる姿、雑草をとる姿、肥料を撒く姿。今とやっていることはさして変わらない。


「好きなものは多いほうが良い。きっとそれに救われる日がくる」


 好きなもの。晴れて乾燥した日。誰かと食べる夕飯。友人と馬鹿笑いする時間。優しく咲く花。そして。

 優夜を見る。首を傾げることなく、じっと見返された。


「優夜さんの好きなものは何ですか?」

「そうだな、夕方歩いてて入浴剤の匂いがするのとか」

「あ、わかります。焼き魚の匂いとかも」

「そうそう。あとはねえ、朝臣の花壇も好き」


 歩みが止まる。優夜は気付かずに進んでいた。


「大家さんに花が見えるとこを探してるって言ったら」


 隣を向くが朝臣がいない。あれ、と思いながら斜め後ろへ顔を向けた。口を結ぶ朝臣がいた。

 怪訝な顔のまま優夜は続ける。


「あの家を紹介してくれた。ボロいし、期限つきだけど、孫が花壇の整備してるって」


 朝臣があの花壇を貰ったのは去年の夏だ。ちょうど今頃で、春と夏の休みにやった短期バイトで稼いだ給料で肥料や苗を少しずつ買って増やした。

 そして、二月の終わりに優夜が越してきた。近くに咲いた桜の樹とその花壇を見て、入居を決めた。

 朝臣が孫だと知っていたから、あの日、初めて会ったのに優夜は「おかえり」と朝臣に言ったのだ。ずっと疑問に思っていたことが腑に落ちた。


「……花を売る仕事がしたいです」


 ぽつりと口から零れる。

 優夜が朝臣の花壇を好きだと言ってくれたように、自分の作った花を誰かに届けることが出来たら。


「できますかね?」


 照れ隠しなのか、自嘲なのか、泣きそうな顔で笑った。優夜は怪訝な顔のまま瞬きをする。


「できない理由、探す意味ある?」


 親の海外赴任。祖父の不動産業。それを知る人からは、なにが不遇だと笑われる。自由すぎることは不自由で、与えられた選択肢は狭すぎた。


 朝臣は握った拳が白いのを見る。小さく震えていた。

 尤もな意見に、緩く首を振る。

 優夜は空いた距離を戻る。光が差し込み、二人を照らした。朝に歓迎されているようだった。

 優夜は肩を組み、抱き寄せる。朝臣は屈んでその肩口に額をつけた。優夜の部屋の匂いがする。


「やろうと思えば出来ないことなんてない。朝臣は根っこが強いからな」


 とんとん、と背中を叩いた。優夜は目を少し細め、嬉しそうに笑った。


「わたしが個展開くときに注文するから花、作ってよ」

「そ、れは、俺が仕事に就くまで個展待ってくれますか」

「交渉条件は?」

「どれよりも綺麗で、大きい花を贈ります」


 優夜の肩から顔を離し、背筋を伸ばしてそう言った。


「よし、乗ろう」


 眩しそうに目を細め、朝日から陰を作るように手を翳した。


「さて、早くパン買いに行こ」

「あと、この前」

「なに」

「失礼なこと言って、すみません」


『今、絵を描いてないんですか』


 優夜は昨日その話をしたばかりだというのに、すっかり忘れていた。その問いに対する答えを探していたのに。


「失礼ではないと思うけど。事実だし」

「でも、デリカシーのないことを……」

「デリカシーって、日本語だとなんて言うの?」

「繊細さ、とかですかね」

「じゃあ無いのはわたしの方だな」


 漏れたのは失笑だった。朝臣はそれに困惑する。話がどこかで入れ替わったのか? いや、逸らされたのか?


「二年前の事件、知ったんだろ。高校生が飛び降りた」


 優夜の言葉に沈黙を返す。沈黙は金の前に、肯定だ。


「鎌崎と出会って、ちょうど軌道に乗り始めた頃だ。画集が出て、個展をしないかって誘いがあった」


 違った。これは、優夜の話だ。

 朝臣が聞くことのできなかった優夜の話。


「ネット記事とか週刊誌にも載ったらしい。わたしのことを遺書に書いていたのも本当だった。その母親から手紙が届いた。すごく……丁寧で、」


 優夜はふと我に返り、肩を竦める。


「線香をあげにきてくれと書いてあった。でも、わたしは行かなかった」


 コンビニに入ろうとした優夜の手首を掴む。朝臣は尋ねた。


「なにか理由が、あったんですか」


 デリカシーのない話で終えることは出来ない。



「え? ただ、面倒だったんだよ」

「きっと鎌崎さんが引っ張っていったはずです」

「鎌崎は知らなかった」

「でも」

「人に影響を与えるものは、必ずしも良いものとは限らない。心に残るものってのは、その心の傷に同調してるんだ」


 優夜は手を離す。


「わたしの作品に、本人の心の傷が同調しただけ。どうしたって人間は生きる内に他人を傷つける。あんたが香波の告白を断ったみたいに」


 自分の例えを使われ、朝臣は動揺した。


「それは……」

「傷つけた自覚があったから、朝臣は香波と普通に接してるんじゃないの?」


 その通りだ。そう香波に言われた。それを断ることは、また大きく彼女を傷つけることに繋がると思った。何より、変にお互い避けて噂されるのも面倒だった。

 沈黙は肯定。

 優夜は続ける。


「死にたい夜を抱えて、生きていけないと思う明日を待って、それでも生きていく人間はたくさんいる。その中で、死んで終わらせようなんて甘いんだよ」


 痛い、悲鳴。

 朝臣にはそう聞こえた。



 行きより早い帰り道を辿り、それでも朝臣は優夜のアパートまで着いてきた。階段前で立ち止まる優夜にぶつかりそうになり、朝臣は顔を上げる。


「やあ」


 優夜と同じ髪と、瞳の色。似ているのではなく、同じだ。先程、優夜が同じ格好で、同じ煙草を吸っていた。同じ遺伝子を感じる。


「もしかしてその子がトモオミくん? 仲直りしたの?」

「暁、煙草の火消して、立って」

「はーい」


 素直に煙草の火を灰皿で消し、暁は立ち上がった。階段から下りて、朝臣と同じ地上に立つ。

 朝臣より背が高い。ヒールを履いた鎌崎と同じか少し低いくらいだ。優夜と並ぶ姿をまじまじとみてしまった。


「弟の暁。説明は略す」

「暁です、おはよう、よろしく」

「染川朝臣です、初めまして」

「え、普通に、真面目な子じゃない。あ、もしかして。一本吸う?」

「それわたしのだし、未成年に勧めるな」


 朝臣に差し出された煙草ケースは取り上げられた。溜息を吐いて、階段を上がろうとする優夜。それを「優夜」と暁が呼び止める。


「マネージャーさんが何でホテルにいないのかって鬼怒ってるから帰るね」

「今日仕事?」

「リハという名の仕事。姉さん、携帯持っていかないから、帰るの待ってたんだよ」

「携帯持ってながら連絡しない暁に言われたくない」

「今姉さんも言ったから同じだよ。またお墓参り行く日決まったら連絡するね」


 蜂永双子は一度携帯の使い方を誰かに教わった方が良い。何故持っているのに使わないのか。鎌崎や暁のマネージャーの苦労が目に見える。


「ん。メロンパン買ってきた」


 優夜は朝臣のレジ袋を示す。わーい! と子供のように喜んで、レジ袋からメロンパンを取り出した。


「ばいばい、朝臣。姉さんのことよろしくね」

「はい。仕事頑張ってください」


 ひらひらと手を振っていく暁がアパートを離れていく。道に出た所で呼んだタクシーへ乗った。

 優夜は挨拶しなくて良かったのかと見上げれば、既に階段を上り始めている。


「似てますね」

「今の数分でわかる?」

「煙草吸う格好が同じでした」

「まあ、双子だから」


 当たり前のことのように優夜は返した。朝臣も階段に足をかける。ギシギシと音を鳴らしながら、上がった。



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