夏の小袖(前)
その日、制服の朝臣が雅史の家へ行くと、居間から人の声がした。暑い廊下に、ひんやりとしたクーラーの冷気が流れ込んでいる。
「影はこことここに濃くつけるのが良い。あとこの線を……あ、おかえり」
襖を開けて最初に見えたのが優夜。
そして、何故か香波。奥の部屋のテレビで高校野球を見ている雅史。ここはどこだったか、と逡巡する。
「お邪魔してまーす」
「学校?」
「おかえり。三人とも、冷凍庫にアイスあるぞ」
各々から声をかけられ、とりあえず頷いた。香波は卓袱台に広げた絵と、持参したメモ帳を見比べる。
「ただいまです。今日、面談で」
言ってから、漸く自分が言葉を発したことに気付いた。
「そういえば親帰って来てんだっけ」
「まあ……はい」
優夜は曖昧な返答をする朝臣をじっと見て、香波の絵へと視線を下げた。
「この線の方向、少し下げた方が立体感はでる。以上」
言ったと同時に台所へ。優夜は箱アイスを持って香波と朝臣へ渡した。勿論、自分は既に咥えて。
「ここはいつから絵画教室に」
「優夜さんに美術の課題見てもらってたんだ。夏の課題」
「ああ、土暮の選択、美術か」
広げられた絵を見る。その視線に気付いた香波はさっと腕で隠し、くるくると丸めて仕舞った。
「どうせ下手ですー」
「いや、下手ならそもそも選択しないのでは」
「下手の横好きって言葉があるんだから。大家さん、アイス頂きまーす!」
言いながら袋を剥がして棒アイスを頬張る。朝臣も溶け始めていたアイスを見て、口に含む。ソーダ味が広がり、鼻に抜けた。
鞄をおろし、香波の正面に座る。テレビがよく見えた。同じ高校生たちが、ボールを投げて、バットを振っている。
香波のハードル走の結果は、決勝五位。入賞だった。決勝も良い走りだったが、その上がいた。そして、そのもっと上も。朝臣の隣で声も出さずそれを見る優夜がいた。
「染川って、進路決まってないって本当?」
台所へ箱アイスを戻した優夜が居間に帰ってくる。朝臣は香波の質問にテレビから顔を向けた。
「高梨と白木が言ってるのをちょっと耳にした」
「……まあ」
優夜は何も言わず、高校生二人の間に座る。
しゃくり、と誰のか分からないアイスの咀嚼音が響く。
続かない会話に、香波が質問の矛先を優夜へ向けた。
「優夜さんっていつから絵描いてるんですか?」
「んー、六歳だった気がする。就学前」
「なんで描き始めたんですか?」
「絵画教室。そもそも弟が通ってて、わたしはピアノの方だったんだけど」
ハズレの棒を見て、優夜がゴミ箱へ放る。それから卓袱台に乗っている煎餅へ手を伸ばした。
「優夜さん、ピアノ弾けるんですか」
「まあ楽譜は読める。あとはエーデルワイス」
朝臣はそれに頷いたが、優夜がピアノを弾いている想像は出来なかった。
「弟が絵の課題やりたくないって言ってきて代わりに描いて出したら、絵画教室の先生がうちの親呼び出して、もう二人してドキドキで」
それを聞いて、いつか鎌崎が『課題を代わりにやってくれるかも』と言っていたのを朝臣は思い出した。そういう経緯があったのだ。
「怒られたんですか?」
「反対。すごい褒められて、母親もびっくり。わたしと弟、双子なんだけどさ」
「ばれなかったんですか」
「と思うだろ。筆跡も癖も似てるし、誰も気付かないと思ってわたしも軽い気持ちで出したんだ。でも母親がそれに気付いて、超怒られた」
先生に褒められ、母親に怒られる。その図を想像して、高校生二人は半ば憐れみ笑う。
優夜も懐かしみながら、煎餅を齧った。
「それから、わたしは絵画教室に通い、弟はピアノ教室に行くことになった。弟は、わたしの拙いピアノの音を聴いただけで完璧に弾ける人間なんだよ」
「弟さん、今もピアノやってるんですか?」
「ん、やってる。あれ」
優夜はテレビを指した。高校野球の途中でニュースが入り、アナウンサーがそれを読み上げていた。
「昨日、日本人ピアニスト、
え、と声が揃う。
「あれって」
「大晦日の歌番組のトリでピアノ弾いてましたよね」
「でも苗字……」
「久遠は父方の苗字」
優夜はそれだけ言って、終えた。兄弟で苗字が違う理由は色々とある。高校生でもそれは理解できた。
「優夜さん家ってすごい」
「すごくない。わたし今無職だし」
「前は絵描いてたんですか?」
香波の質問にぴたりと止まり、それから時計へと視線を移した。
「予備校の時間、良いの?」
「え、あ! 行かなきゃ! すみません、ありがとうございます!」
「ん、気をつけて」
「大家さん、染川、お邪魔しました!」
再び始まった高校野球に夢中な雅史は「おう」と手を上げたきり。優夜はひらひらと手を振り、朝臣も同じく手を上げた。
どたばたと家を出ていった香波を見送り、優夜は煎餅の袋をゴミ箱に捨てた。朝臣もハズレだった棒を捨て、立ち上がる。
「大家さん、場所貸してくれてありがとう」
「絵画教室は終わったのか」
「終わりました。どっち勝ってる?」
「大阪だ」
「やっぱ強いなー」
優夜も同じようにテレビの方を向いた。朝臣が香波に出した麦茶のグラスを片付けながら尋ねる。
「昼飯、軽く作ります?」
「うちに贈答品で素麺が死ぬほど届いたんだよね。持ってくるわ」
「冷蔵庫にお中元で貰ったハムと枝豆があるぞ」
「豪華な素麺になりそう。朝臣、母上呼んだら?」
立ち上がりながら、優夜が言う。朝臣は台所に行ったまま答えない。雅史がテレビからそちらへ視線を動かした。聞こえなかったのかと、優夜が台所へ顔を出す。
「朝臣」
「はい」
グラスを洗い流す水音。振り向くこともない姿勢に、優夜は首を傾げる。
「面談で何かあったの?」
「……何も、ないですよ」
「公務員になりたいって言ってきた?」
きゅ、と水が止められる。
「大学の話だけですよ、したのは」
『絞れたか? 行きたい学部は』
担任が色んな大学の資料を並べる。朝臣の母はきょとんとして、それから朝臣へ視線を向けた。
『決まってないの?』
『まだ言ってなかったのか? 進路希望で、バラバラの学部学科を出していたので三者面談にお越し頂いたんです。前回は、理系の学部も入っていたので』
『え、朝臣、理系に行きたいの?』
驚いた声。それなら何故、三年で文系クラスへ来たのか、という疑問。
『そういう、わけでは』
ぐらぐらと、足元が覚束ない。
隣に座る母親も、正面に座る担任も、全てが他人で、境界線が曖昧になる。
本当の気持ちを口にするのは、難しい。優夜の言った通りだ。見えないんじゃなくて、見たくないだけ。
ふと、自分に告白してきた香波のことを考える。よく伝えることが出来たなと思う。恐ろしくはなかったのか、怖くはなかったのか。
――怖いの?
優夜の言葉が、反響する。
「誰も彼もが、優夜さんみたいに、なりたくてなりたいものになれるわけじゃないんです。そういうのと、同等に、聞かないでください」
「同等って」
「恵まれた才能と環境にあった人とは違って、俺は凡人なので」
自嘲げに笑って朝臣が振り向けば、優夜は白い顔をしてそれを見ていた。
「恵まれてるとか、凡人だとかは、関係ない」
暴力的すぎる正論だ。鎌崎がここにいたなら、それを止めただろう。
優夜は確固たる自我を持っている。それ故に、自分の信念や考え方を簡単に曲げることはない。折れないということは、つまり、相手を折ることでもある。
相手が鎌崎ならばまだ理解があるので、折れてくれるだろう。しかし、相手は高校三年生だ。
「じゃあどうして、優夜さんは今、絵を描いてないんですか」
折るはずが、折られた。ぱきん、と。
その言葉の意味を理解するのに二秒は要した。それから優夜は一歩後退した。
言ってしまった言葉の重大さに気付き、朝臣の顔も白くなった。
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