夏は日向を行け
会場は暑かった。色んな場所から聞こえてくる声援に、驚き顔を上げる。自分の中にこういう日常は無かったと、鎌崎は日陰の席からトラックの方を見た。
隣に座る優夜はキャップを被り、動く高校生たちをじっくり目で追っていた。再会して三年ばかりの付き合いだが、鎌崎にはそれが観察だと分かった。香波を捜しているわけではない。
描く意思はあるということだろうか。観察はどこかで発揮されるのか。いつ描くの? それは見せてくれる?
尋ねたい気持ちを抑えて、鎌崎も同じように走る高校生たちへ目を向ける。優夜によると朝臣も高校の友人たちと来ているらしいが、態々邪魔するのもどうかと思い、連絡はしていなかった。
「あ、いた」
「え」
前言撤回だ。もしかしたら香波を捜していただけなのかもしれない。
あれ、と優夜が指差すが鎌崎に分かるわけもない。優夜は視力が良い、二階から花壇の花弁の数を数えられるくらいには。
「どれ?」
「髪長い、ポニーテールの」
「いっぱいいるんだけど」
「香波!」
いきなり大きな声を出すので、鎌崎は目を丸くした。呼ばれた当人だって恥ずかしいだろう、相手は思春期真っ盛りの高校生だ。しかし大きく手を振る優夜に、数名の若人が視線を送り、そしてその内の一人が振り返す。
心なしか顔を輝かせている。優夜が来たのが嬉しいらしい。同じようなジャージを着ている集団から抜け出したところまでは見えた。
「良い子ね」
「今度、香波の絵を見る約束した。美術選択らしい」
「え、優夜が?」
「……駄洒落か?」
「真面目に聞いてんのよ」
鎌崎が目を細めると、優夜は肩を震わせて笑っている。
「この前、朝臣に将来のことに関して詰問してさ」
ふとその笑顔が抜け落ちて、スニーカーの先を見ていた。優夜の自嘲する表情に、鎌崎は口を開いて、閉じる。
「嫌な大人になったもんだ」
「あたし達、まだ子供じゃない」
「そうだな」
顔を見合わせて笑った。
「優夜さん! 来てくれたんですね!」
後ろから聞こえた溌剌とした声に、二人が弾かれたように振り向いた。同じタイミングと同じ動作に驚き、香波の方も目をぱちくりとさせる。
「この子が香波さん?」
「そうそう、ハードル選手」
「土暮香波です。もしかしてこの方が優夜さんの……」
高校と陸上部の名が入ったジャージを纏った香波が、優夜の隣に座る鎌崎へ顔を向けた。ふわりとした紺のトップスにグレーのテーパードパンツ、耳元にぶら下がるレースのピアス。優夜よりも女性らしいその格好、だが。
「彼氏さん? ん、旦那さん? あれ、親友さん?」
「お、鋭いな」
「この格好で男って言われたの初めて」
「あ、ごめんなさい。彼女さん?」
いや、そこじゃない。
二人の声が揃った。笑い声も重なり、一人置いていかれる香波。
「ごめん、こちら鎌崎。親のような友と書いて親友」
「初めまして、鎌崎です。ハードル頑張ってね」
「はい、ありがとうございます! 来てくださって嬉しいです」
にこにこと笑う香波を見て、鎌崎もつられて笑う。仲間の応援があるので香波は元の席へと戻っていった。その背中を見送り、鎌崎は「なんか」と口を開く。
「主人公枠って感じの子ね」
「なんだそれ」
せせら笑う優夜が後ろに手をついて脚を組んだ。青いシャツに黒のスキニーとスニーカーを履いている。いつも大体この格好をしている優夜は、ファッションに頓着がない。
香波や鎌崎を馬鹿にしたわけではなく、その言葉が可笑しかったのだ。
「部活やってて、仲間がいて、好きなひとがいて、明るくて素直で積極的で堂々としてる」
「ヒノウチドコロがない?」
「でも振られて傷心中」
「香波の痛みも気持ちも香波のものだけだと思うけど」
冷たささえ感じさせる声色に、鎌崎が隣を向く。
ただぼんやりとトラックの方を見る優夜がいた。
「……ごめん、確かに周りが決めつけるのは違うわよね」
「そうそう。鎌崎だって自分の人生の主人公枠だろ」
「その枠じゃなかったら何だって言うのよ」
「さあ? わたし飲み物買ってくる」
「あたし緑茶。苦いやつ」
「大家さんにでも淹れてもらえ」
要望を言う鎌崎を置いて優夜は立ち上がった。
自販機の前で佇む姿に、一瞬足が止まる。それから足早にそれに近づいた。
「優夜さん」
「あ、朝臣。苦いお茶ってどれ?」
「え? これ、ですかね」
自分の姿を見ても驚かない優夜に、朝臣がここへ来ていることを知っていたのだと悟る。
なんとなくデザインとロゴで苦そうな緑茶を示すと、優夜は躊躇わずそのボタンを押す。がこん、とペットボトルが落ちる音がした。
「どうしてここに」
「香波が走るの見に来た。休みだろ? なんで制服?」
「学校で席が設けられていて、そこを出入りするには制服じゃないといけないんです。優夜さん、一人ですか?」
「いや、鎌崎と」
自分の分の水と、鎌崎のお茶を見せた。朝臣は小さく頷き、自分もお茶のボタンを押す。
それを待ち、優夜は歩き出した。
「さっき香波とも話してさ、鎌崎はわたしの彼氏かって訊いてきて面白かった」
「土暮は教室でもそんな感じです。でも、物事の本質はきちんと解ってます」
また高校生らしからぬ発言を。優夜は朝臣を見上げるが、本人はきょとんとした顔をしていた。
「あれ、朝臣くんと会ったの?」
「自販機で。はい、苦そうなお茶」
「ありがとう。久しぶり」
「お久しぶりです。あっちにいました」
優夜が座った隣に腰掛け、朝臣は反対側の席を指した。
「久しぶり。美術館以来?」
「そうですね、チケットありがとうございました」
「美術の勉強にはなった?」
「……少し、は」
その間に、優夜が笑う。そういう所は素直で、正直な男だ。
「知らなくても良いんじゃない。公務員の試験には出ないと思うし」
ミネラルウォーターを開けながら言う。その言葉に朝臣は何も言えず、鎌崎もまたそれに気づいた。地雷を踏み抜いている自覚はないのか。
香波の告白を断った理由といい、朝臣には将来への不安が大きく生きることに関わっているのだろう。鎌崎が自分の在り方の不安が大きかったように。
優夜にそれが無いとは思わないが、そこまで繊細ではない。相手に対する配慮が欠けている。それが心地良い人間も居れば、嫌な人間もいるのだ。
鎌崎は先に口を開く。
「分かんないじゃない。学芸員でも公務員はいるのよ」
「へえ、知らなかった」
「色んな道があるの」
「だって、朝臣。未来は無数に広がってるな」
朝臣は優夜を見た。その瞳の燦めきに、星が零れ落ちる想像をして、思わず瞬きをする。
この人の傍にいると、不安になる。その星の動きに、巻き込まれるような気がして。同時に、とても居心地が良い。その星の優しさと美しさに包まれる気がして。
「……はい」
そんなことに、何故か泣きそうになる。
『六レーン、土暮香波選手』
途端に聞こえたアナウンスに優夜と鎌崎が背筋を伸ばした。トラックに注目する。
オンユアマーク、の言葉に選手たちが動き、香波は二度跳ねた後にスターティングブロックへ足をかけた。涙も引っ込み、朝臣もそれを見る。
この準決勝を突破すれば、次は決勝だ。
香波は努力を積み重ねた。
ピ、と電子音が聞こえ、一斉に走り出す。
どの選手にも声援が飛ぶ。鎌崎が香波の名前を呼ぶ。優夜はただ黙って、ひとつもハードルを倒さず走り抜ける香波を見ていた。
最初にゴールを切ったのが二レーン、次が三レーン、その次が。
香波が腰に手を当てて、ゆっくり歩く。電光掲示板に映った順位を見上げ、まだ荒い息を整えていく。
「土暮ー!」
呼ばれた名前に、自分の高校の陸上部のある席へと顔を向けた。皆が手を振ってくれている。それに手を振り返した。次に、先程行った一般席の方へ。
そこには優夜と鎌崎と、朝臣がいた。三人がセットのように並んでいることが笑えて、そちらにも手を振った。優夜と鎌崎が大きく振り返す。
「土暮……すごい」
「あたし、久々にドキドキした。手汗が」
「楽しいからって言ってた、前に」
優夜が手を下ろし、ぽつりと言う。
「ハードルが脚にぶつかって痛くても、楽しいから走るんだって」
鎌崎はその横顔を見た。あの時、あの会場の外で、少し暗めの電灯の下で喋った頃と、何故か重なる。
「わたしには……」
聞こえるか、聞こえないか程の小ささ。その先の言葉が聞きたくなくて、鎌崎は何か言おうと口を開く。
「土暮って頭も良いんですよ。進路もちゃんと決まってて、そんな人間が俺のどこが良かったんですかね」
真剣な顔で朝臣が言った。複雑な顔のまま、優夜がそちらを見る。鎌崎も「は?」といわんばかりの表情。
「え、ど、どこ……大人っぽいとこじゃない? ね、優夜」
しかし、良い舟だ。助け舟か泥舟か沈みゆく紙舟かは分からないが、乗らない手はない。鎌崎は優夜へ話題を振る。
「知らない。香波に直接聞け」
「あ、確かに。そうします」
「いや聞くなよ……デリカシー皆無か」
「優夜にデリカシーとか言われたく無いだろうけど、朝臣くんデリカシー皆無ね」
「今すごく傷つけられた気がしました」
「気の所為だろ」
優夜の呆れた笑い顔に、「きっとそうよ」と言いながら鎌崎はとてつもない安堵を覚えた。そして、静かに朝臣へ称賛を送った。
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