冬夏青青
「染川って姉ちゃんいるっけ?」
話しかけられ、顔を上げる。五時間目の古文が自習になり、殆どが机で勉強している中、朝臣は机に突っ伏していた。話しかけてきたのは友人の
珍しく眠そうな顔をしている朝臣をじっと見て、返事を待つ。
「いないけど」
「この前の休み、一緒にいたの誰?」
「休み?」
「青っぽいワンピース着てた女の」
優夜だ。それを聞いて朝臣はすぐに分かった。
美術館から鎌崎を失った二人は、電車に乗って帰って来たのだった。途中「足が痛い」と言い出して、ミュールを脱いで裸足で歩こうとする優夜を制止し、朝臣の履いていた靴を差し出した。
あのレストランから出れば、いつもの二人だった。優夜は忘れたようにその話はせず、朝臣も敢えて蒸し返すようなことはしなかった。
「手繋いでたよな、彼女?」
「え、染川彼女いんの? かわいい? 巨乳?」
隣の席の
「それはお前の好みだろ」
「彼女じゃない」
それを否定する。
優夜は朝臣の靴を躊躇いなく履き、代わりに自分のミュールを差し出した。
「ちょ、こわ、な、よくこんな爪先だけで歩けてましたね!?」
「はやくー置いてくよー」
「待ってください!」
珍しく吠える朝臣に優夜が可笑しそうに笑い、その手を掴み支える。
「鎌崎さんってすごいですね、いつもこういう靴履いてますし」
「鎌崎は努力家だし、優秀だし。わたしに半分わけてもお釣り出るだろうな」
「優夜さんって鎌崎さんのこと好きですよね」
「好きだよ。これからの人生、鎌崎以上の親友に出会える気がしない」
細い指。薄い手のひら。それらに引かれ、朝臣は言葉を聞いていた。
「ま、同じくらい鬱陶しいから離れてほしいときもあるけど」
けろりと明るく笑って優夜は振り向いた。
「え、じゃあ何、誰?」
「……近所の人」
「何故手を繋いでたんだ」
高梨は足元までは見ていなかったらしい。
「俺が歩くの遅くて」
「なんだそれ」
説明が面倒で、色々と端折って伝える。白木に突っ込まれるが、掘り下げるつもりもないらしくペンを回していた。
「まあでも、今の時期恋人がどうとか言ってたら終わりだよな」
「三組の橋本、別れたらしいよ」
「リア充はどんどん別れろ……」
「白木、人の失敗願ってると」
「人を呪わば穴ふたつ」
「そうそれ。自分も地獄に落ちるぞ」
「怖いこと言うなよ。つか、染川この前担任に呼び出されてたじゃん、珍しく」
そっちを掘り下げるか、と朝臣は視線を寄越した。白木も今年から同じクラスで、明るく賑やかなのでクラスのムードメーカーでもある。こうして、会話に入ったり空気を読むのが上手い。
朝臣は静かな方ではあるが、白木の立ち回りの上手さを見て参考にしたいと思う部分はいくつかあった。すべて、ではない。
「進路のことで、ちょっと」
「ランク下げろ、みたいな?」
「いや、まとめろって」
まとめろ? と高梨が鸚鵡返しする。
「学部、学科を」
「え、あ、一校狙いとか?」
「いや、学校も。全部系統別で出したら、ちゃんと考えろって言われた」
熱血担任に。
世界史を取っていないことは幸いだった。あの調子で授業をされたら堪らない。朝臣は何となしに掌を見た。あの時、あの小さな手に支えられていたことを思い出す。
『見たくないんじゃないの』
美しい庭園。見る人を考えたそれに、あのとき心が踊った。
「ここで志望校決まってねえのはやばいんじゃね? 試験対策とかどーすんの」
「うん」
「そりゃ担任も呼び出すって」
「夏休み前には決めろって」
「夏っていえば高校生大会、土暮いつだっけ」
白木が反対側にいる香波に尋ねる。イヤホンをつけながら自習をしていた香波は、先に視線を向けてから「え?」とイヤホンを外した。
「だから高校生大会」
「ああ、終業式の一週間後」
「俺ら応援行くから!」
「ありがと。野球部と日程被ってたから、皆そっち行くだろうねって部内で話してたから」
高校最後の夏だ。何の悔いも残せない。
香波は朝臣を見る。同じように、朝臣も香波を見ていたので、少し肩を竦める。ありがとう、と伝えたつもりだった。どういたしまして、と朝臣も肩を竦め返した。
転がった2Bの鉛筆の行く先を見ていると、ローファーにぶつかった。近くに人が立っていたことに気付かなかった優夜は顔を上げた。そこで首の凝りを感じ、首と肩を回す。
「あ、香波」
「こんばんは。ごめんなさい、勝手に見てました」
階段に座り込み、何を描いているのかと覗いてみれば、少し遠くに横たわる空の缶コーヒー。飲み捨てられたのか、どこからか転がってきたのか。ただのゴミを優夜は隅々まで観察し、書き写していた。
その線の、細かいこと。
夕陽を浴びて伸びる影の形ですら動き出しそうで、ぐっと惹き込まれる。
「部活帰り?」
「はい、今月末に高校生大会なので。最後の足掻きです」
「へえ。香波が走ってるの、見てみたかった」
言いながら優夜はスケッチブックを閉じた。短くなった鉛筆を受け取る。
その言葉に香波が近づいた。
「大会見に来てください! 一般のひとも入れるので」
「そうなの? 行こうかな」
「染川も来るって言ってました。うちのクラス、陸上部多いんです」
「じゃあわたしは鎌崎連れてこ」
「お友達ですか?」
「うん、まあ殆ど家族みたいな。この前香波がハードルやってる話したら興味あるって」
香波の話をした時……香波が朝臣に告白したという話題のときだ。朝臣と話をしているのを聞くと、今も普通に接しているのだろう。大人より大人だな、と優夜は膝に肘をつきながら考えた。
そんなことを考えているとは露知らず、香波は優夜の傍まで来る。
「私、選択が美術なんですけど絵が全然上達しないんです……」
「下手でも単位貰えるんだろ? 良いじゃん」
えー、と優夜の言葉に納得いかない声をあげる香波。女子高生らしいそれに優夜は笑った。
「絵で食ってくわけでもあるまいし」
「優夜さんって大学生? それとも絵の先生とか?」
「いやもう学生は卒業してる歳だけど。なんで絵の先生」
「だってすごい上手ですもん。私に描き方教えてください」
食い下がる。優夜は空き缶を見た。描き始めた頃より伸びた影。万物は流転するし、世の中は諸行無常だ。
変わらないものもなければ、変わっていかねばならないこともない。
「教えるっていうか、見るだけなら」
「本当ですか! やったー!」
「その大会終わったらね。あと勉強もちゃんとしろよ」
「はーい。優夜さん、さようなら」
くるりと回って喜んだ後、香波は一礼して帰路についた。その背中を見送って、優夜は立ち上がる。スケッチブックの上に置いた鉛筆の存在を忘れており、また転がっていく。
コンクリートの上で止まる。暗くなった辺りに、街灯が点いた。その一瞬で、鉛筆を見失った。ぐるぐると階段の周りを見るが、見つからず、結局諦めた。
スケッチブックを家に置き、雅史の家へ向かった。
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