夏虫疑氷


 晴れ間だった。雲の間に見える青空が眩しく、朝臣は目を細める。花壇の前に優夜は立っていた。

 同じように目を細めているが、眩しいのではなく眠いのだ。


「おはようございます」

「おはよ」


 いつものスニーカーとラフな服装は影を潜め、黒のミュールに緑青のワンピースを纏っている。いつも並んでも姉弟くらいだった歳の差が、こういう格好をすると一気にそれが開く気がした。

 いや、開くも何も、変わらずあるのだが。


 朝臣は優夜を見て黙っていた。それに対して、同じく眠いのだと決めつけた優夜が、道路を示す。


「もうちょっとで鎌崎来るって」

「あ、はい」

「まあつまんなかったら庭園ふらついてなよ」

「犬じゃないんで。ちゃんと隣でじっとしてますよ」


 とは言ったが。

 結構混み合っている会場に、朝臣はきょろきょろと周りを見回す。火霜影雪と芸術のすべて、という展覧会のタイトルが目に入った。


 鎌崎が受付に行き、何かを話している。受付の一人が立ち上がる姿に「あー」と隣に立つ優夜が漏らす。受付の女性が優夜の方へ歩いてきた。


「桜水様、お世話になっております。火霜呼びましょうか」

「いや、とんでもない。勝手に見させて頂きます」

「今ちょうどアトリエにいますので」

「結構です。用があれば出向きますので、お気遣い感謝致します」


 固い敬語。近くまで戻った鎌崎を見て、逃げるように会場へと足を進めた。優夜は溜息を吐く。


「……だから来たくなかったんだよ」

「来賓に挨拶するのは普通なのよ。午後からはトークイベントもあるみたいだし」

「昼には帰る」

「分かってるわよ、朝臣くんこれパンフレット」


 鎌崎が朝臣へ冊子を渡した。表紙に載っているモノクロの絵が色を重ねた花であることに気付き、じっと見つめる。


「結構人いるのね。やっぱり土日は」

「CMに使われてから年齢層が幅広くなったよな」

「……有名な人なんですか?」


 優夜にそっと尋ねれば、立ち止まって朝臣の方を見た。


「うん。わたしの尊敬すべき先生」

「優夜さんの?」

「そう、最近はずっと自分が死ぬまでに新しい作品見せろって言ってくる。あと三十年は生きるだろうに」

「それ百超えるじゃない」


 会話を聞いていた鎌崎が振り向いて呆れたように言う。順路は最近の作品から始まっており、そこで人が立ち止まっていた。テレビなどで取り上げられたので、有名なのだろう。


 優夜と鎌崎はそれには目もくれずに、人を避けて進む。広い場所に出た。白い壁に、いくつか作品がかけられている。


「わざわざ来なくても、全部見たんだけど」

「来ることに意味があるのよ。それに、優夜が気にしてたアレ、展示してあるって」


 アレ、とは。優夜は首を傾げる。鎌崎が何かを言おうと口を開いたが、携帯のバイブ音に遮られる。


「仕事?」

「うん……ごめん、帰り送れないかも」

「小学生じゃないんだから一人で帰れるって。な?」


 朝臣を振り返る。それに頷く。


「朝臣くんも、ごめんね。じゃあまた」

「はい、ありがとうございました」


 頭を下げるとひらひらと手を振られ、鎌崎は行ってしまった。残された二人は歩き出す。

 作品に目を通す朝臣を待ってくれているのか、それともこの速度で展覧会を歩くのが正解なのか、優夜は静かにゆっくりと動いた。白い壁に掛かる絵画が途切れ、白い空間があった。照明の入り方の影響か、目の錯覚で遠近感覚が取れなくなりそうだ。


「なんか、ぶつかりそう」

「あ、優夜さん、そこ壁」


 道を曲がろうとした優夜の腕を掴む。一歩後退し、立ち止まる。優夜が手を前に伸ばすと、確かに壁があった。


「見えなかった」

「いえ、こっちです」

「あ、そこも壁」


 ごん、と頭をぶつける朝臣。痛そうな音がしたな、と優夜は口を開く。


「大丈夫? 救急車呼ぶ?」

「……大丈夫です」


 ふ、と優夜は肩を震わせて笑いを堪えた。額を押さえる朝臣は指の隙間からそれを見る。恐ろしく格好悪い。


「二人して壁に向かって歩きだそうとしてさ、傍から見たらなかなかだよな」

「俺はぶつかりました」

「わたしも朝臣が居なかったらぶつかってた」


 痛みが治まり、手を取れば優夜がそれを覗き込んだ。


「だから、ありがとう」


 若干、笑いながらではあるが。

 その後、順路の看板を見つけて進むことができた。隣のスペースに足を踏み入れる。そこには一番広い場所があり、一番大きな作品があった。


 絵画の良さなど何も理解が出来ない朝臣だが、それを見て鳥肌が立つ。

 白い壁に咲く一輪の花。

 様々な赤で塗られた花びらを示すそれが、美しく、痛く、悍しい。


 パンフレットの表紙を飾っていたモノクロの花だった。黒の濃淡が、赤だったことを知る。

 目を逸らせない。白い壁だからか? 赤で描かれているからか? 大きいからか?


「これ、どうやってここに入れ……」

 たんですかね。


 前にいた客がスペースから出ていく。朝臣は隣を見るが優夜が居なくなっていた。作品に近づき、遠方にいる優夜を捉える。遥か、遠くに。

 ゆっくり歩き、立ち止まる。ど真ん中で。

 名前を呼んでも、朝臣を見ることはなかった。

 じっと作品を観察している。近づいたり、少し離れたり。隅々まで、詳細に。


 これが優夜が気にしていたアレ、なのだろう。


 十分ほど経ったところで、後ろから来た客の声が聞こえた。優夜は視線を作品から外して朝臣を見る。


「行こっか」


 漸く、自分は世界に入れてもらえたらしい。

 朝臣は頷き、出口へ向かう優夜の背中についていった。



 美術館の庭園は広大であり、手入れが行き届いている。薔薇の季節は殆ど終わってしまっているが、アーチを飾る残りの花でさえ美しい。

 先程とは逆に、歩き回る朝臣に優夜が後ろからついていく。


「ここ、歩いたの初めて。何十回と来てるけど」

「もったいない」

「わたしも思った。たぶん、皆遠くから見てるのが良いんだ。虫とか棘とか枯れた葉とか、見えない方が綺麗だからさ」


 振り向き、優夜を見た。ふわりと風が吹き、ワンピースの裾を靡かせる。その姿は絵になったが、どこか違う他人の様にも見えた。

 先程の絵も、同じだ。遠くから見れば綺麗な花。近付いて見れば、幾重の赤を重ねた暴力的とも思える色。皆、遠くから見て美しいと言い合う。手に取れば、棘で怪我をするかもしれないから。


「それが悪いことだとは思わないです。庭園を管理する人はきっと、綺麗だって言われたくて花を植えてますし」


 朝臣の言葉に、きょとんとした顔を見せる優夜。

 あ、いつもの顔だ。


「朝臣ってさ」

「はい」

「鎌崎のこと、変だとか思わないの? それとも興味ないだけ?」

「……変? どの辺ですか?」

「女の格好してるとことか。話し方とか仕草とか」

「優夜さんも鎌崎さんと喋ってる時、口調変わってますよ」


 指摘すれば、優夜は痛そうな気まずそうな顔をして、明後日の方向へ視線を向ける。自覚があるのだろう。


「いや、わたしの話じゃなくて」

「最近は鎌崎さんみたいな人も珍しくないと思いますけど」

「クラスにいんの?」

「いや、いな……」


 言いかけて、止める。優夜が歩き出したのに従い、朝臣も背中を追いかけた。

 歩くと、スカートの裾が揺れる。クラスの女子の短い裾なんて気にしたことすら無かったのに。


「いない?」

「あ、いや、いないとは言い切れないなと思って。俺が知らないだけで」


 優夜が振り向く。先程と同じ顔をしていた。

 何の感情なのだろうと朝臣は無意識に首を傾げる。


「知らないものを、無いものにする人間はたくさんいる。でも、そういうのって、有るってことは、〝在る〟んだよ。認められなくても、美しくなくてもどんなに貶されても〝在る〟んだ」


 大切なものをどんなに踏みにじられようとも。


「鎌崎はそういうの敏感だし、わたしも態々言う必要ないと思ってた。でも、鎌崎が自分から男だって言ったから。きっと朝臣の、そういうところを信用したんだな」


 微笑んだ、その顔が綺麗で。

 亡くして、踏みにじられて、壊されて、壊れて、消えて、それでも諦められない。

 それを、優しさ、と名付けてしまうのは安易だろう。言葉にできない。声にならない。名前を呼べない。


 でも、きっと救われるのだ。そういう、名付けられないものから。



 気付けば庭園を一周していた。美術館に併設されたレストランに入る。その店員が優夜の顔を見て静かに微笑み、席へと通した。

 庭園が見られる窓際の席。今日は風があるので、テラス席はお薦めできないと言われた。


「あ、肉あるよ」

「腹空いてるんですか?」

「先生の作品見たから」

 

それは答えになっているのか。優夜と共にメニューを覗き、同じハンバーグステーキセットを注文した。

 

庭園へと視線を向ける優夜へ疑問に思っていたことを尋ねる。


「優夜さんって美大出身ですか」

「ううん、大学行ってない。最終学歴、高卒」

「じゃあ高卒で働いてたんですか?」

「そうなる。絵描いて、賞取って……いわば賞金稼ぎ?」


 朝臣はその頃の優夜の毎日を考えた。絵を描いて、コンクールに出して、賞を取っての繰り返し。鎌崎から『出せば賞を総なめにする』と言われたそれは事実なのだろう。しかし、それに保証はない。


「怖くなかったんですか」

「怖い?」

「そういう、明日どうなるか分からない毎日って……」

「朝臣は、怖いの?」


 優夜が尋ねると、朝臣は口を閉じた。


「何かになりたいとか、したいとか」

「……公務員とかになって、安定した生活を」

「何の公務員?」

「区役所とかで、働く……」


 言いながら語尾が小さくなるのに自分で気付いていた。

 優夜は特に指摘することはなく、額面通りにそれを受け取る。


「花とか植物に関わる仕事はしないの?」


 この前の香波との会話のようだ。

 どうして、なんで、と次々と訊いていく。朝臣は答えようと口を開いたものの、言葉にならなかった。

 言葉にならないものは、声にもならない。


「さっきも、見る側じゃなくて、」

「花は」


 優夜の言葉を遮る。咄嗟に出たのだ。


「好きですけど、仕事にする程じゃ」

「朝臣、前に将来が見えないって言ってたけど」

「……はい」

「見えないんじゃなくて、見たくないんじゃないの」


 注文した料理が運ばれた。朝臣は微動だにせず、しかし膝の上に置いた拳を握りしめていた。中に何か入ってるのではないか、と思うくらいには白くなっている。優夜はそれには気付かなかった。

 返答しない朝臣に優夜は何も言わず、「いただきます」とスープを啜る。


「ごめん、出しゃばり過ぎた。あんたの未来はあんたのものだもんね。というか、わたしに将来どうこう言われてもな」


 最後に優夜が謝った。



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