夏の小袖(後)
誰も何の発言もすることなく、台所は静まり返っていた。途端に、ピンポーンというチャイムの音が聞こえる。
「……すみません、今日は帰ります」
朝臣が優夜の横を通り抜ける。祖父にも挨拶をせず、鞄も持たず、玄関へ向かった。扉を開ければ、母親が佇んでいる。
「朝臣、どこに行ったのかと……」
最後まで聞かないまま、歩いて行ってしまう。
台所に残された優夜は意味もなく自分の右の掌を見ていた。ぐーぱーと動かす。その動きを、じっと見る。
「大丈夫か」
台所に入ってきたのは雅史だった。ぱっと顔を上げて、優夜は息を吸う。
「……ごめんなさい、騒いで……というか、お孫さんに、偉そうなこと言って……?」
「お前さんは間違ったことは言ってない」
「そのつもりだったけど、朝臣の方が正しかった」
しかも、一度は謝ったのだ。同じことで、
優夜は項に手を当てて、息を吐いた。足音が聞こえて、居間へと視線を向ける。そこにいたのは朝臣ではなく、朝臣の母親だった。
「ご無沙汰してます」
雅史と優夜を見て、力なく微笑んだ。三者面談の疲れが滲んでおり、優夜もそれに無理に笑って返す。
「朝臣に、会いました?」
「さっき、そこですれ違いました。私の存在なんてお構いなしにどっか行っちゃいました」
「荷物も全部置いてったぞ」
「本当だ。昼飯食べません? わたし、素麺持ってきますね。あーあ、豪華な素麺だったのに。腹減ったら戻ってくるかも」
優夜は台所を出る。朝臣の母親がその手をすっと取り、その動作の滑らかさに思わず足を止めた。
「蜂永さん。いつもあの子と夕飯を食べて下さり、ありがとうございます」
握らされた封筒。それに気付いて、押し返す。
「いや、これは。家賃の中に入ってるので」
「それはお義父さんの方で、こちらはうちからです」
「要りません。それは朝臣を裏切ることになる。どうか、しまってください」
優夜が朝臣と夕飯を共にしているのは、朝臣が心配だからでも可愛いからでもない。朝臣が鎌崎からの要件を受け入れたから、その交換条件を飲んだまでだ。金で解決しようとした鎌崎に、朝臣はそれを提示した。
なので、今ここでこの封筒を受け取ってしまったら、朝臣を裏切ることになる。
朝臣の母親は月に一度帰って来ていた。前回優夜に会ったのは春先だ。その時、鎌崎も交えて挨拶をした。
明解な言葉に、朝臣の母親は封筒を戻す。
「今日、学校で面談があったんです」
「聞きました」
「あの子、まだ進路決まってないみたいで……。この前聞いたときは決まってるって言ってたのに」
後ろから雅史が台所で動く音がした。優夜は朝臣の母親の声を聞きながら、こういうのは鎌崎の方が得意なんだけどな、とぼんやり思った。人生お悩み相談のようなものは。
鎌崎は他人の痛みが分かる人間なので、優夜よりも適任だ。
今すぐ呼ぶか? と一瞬思ってしまった。
「学校から帰る途中で、勉強してくるって言って、家とは反対側に行ってしまって。きっとここだろうなとは、思ってたんですけど」
「ばればれですね」
「朝臣は、あそこの花壇が好きなので」
あそこ、と言われて、ぴんときた。
優夜の住むアパートの花壇だ。今も夏の花たちが咲いている。夕方になると、水をやりにきている。
「枝豆あがるぞ」
雅史の声に、慌てたように台所へ顔を出す。
「え、ちょっとその話はまた後で。わたし素麺持ってきます」
「あ、はい」
「大家さん、お湯よろしく!」
雅史の返事を聞き、家を出た。
「え、なに? 屍?」
「……しにたい」
「さっきからこんな調子」
高校で行われる夏期講習に集まる面々。席は指定されており、朝臣の前には香波が、斜め前には白木が座っている。
机に突っ伏していた朝臣はゆっくりと身体を起こす。その顔色の酷さに香波は若干引いた表情になった。
「屍というか、ゾンビだ」
「死にたいって言ってるゾンビって何だよ」
「ゾンビって死ねるの?」
「世話になってる人に暴言を吐いた」
朝臣の言葉に白木は首を傾げたが、香波は優夜のことだと察した。
「謝れば?」
簡潔に、白木はアドバイスを施す。
それが出来ていればどんなに良いか。母親が盆まで家にいることもあり、夕飯時に雅史の家へ行くこともなく、それに少し救われている箇所もある。顔を合わせるのが気まずい。しれっと謝ってしまえればどんなに楽だろう。あれは、八つ当たりだった。
しかし、八つ当たりにしては深く、傷付けた自覚がある。優夜が今描いていないのは、優夜の判断であり、朝臣には関係はない。今なら冷静な理解が出来るのに、あの時はどうして。
「白木、代わりに謝ってきて」
「うええ、俺!?」
「そうだよ、白木謝ってきなよ」
「土暮まで!?」
どこの誰に謝るんだよ、と困った顔をする白木に香波が笑う。教室の扉の方から白木を呼ぶ声がした。顔を上げれば部活の後輩が居り、立ち上がって行ってしまった。
香波が椅子を下げて、朝臣を見る。
「ところでさ」
「ん」
「優夜さんって、画家だよね?」
今、その話題は禁断である。
しかし、そんなことは香波には関係ない。
「桜に水って書いて、オウミって読む雅号持ってる」
「
美術館へ一緒に行った時、受付の女性にそう呼ばれていたのを思い出す。
「だよね! ちょっと前は小説の表紙とか描いてたのに。もう描かないのかな……なんか、事件とか、あったし」
「事件?」
朝臣は色味の悪い顔を香波へ向ける。
ぱちくり、と大きな目が瞬く。知らないのか、と言外に尋ねた。
知らない。思えば、優夜の素性は、何も。
鎌崎と中学が同じだったこと。実は御令嬢であること。有名ピアニストの弟がいること。
何故この街に来ることになったのか。有名な先生から懇意にされているのに何故描かないのか。仕事仲間である鎌崎は何故何も言わないのか。
朝臣が口を開く前に、教師が入ってきた。ばたばたと白木も席に着き、香波と朝臣にいかにも手作りなクッキーを見せびらかす。
それが香波の手に渡った。
「マネから貰った。良いだろ」
「激辛クッキー?」
「皆でロシアンルーレットだな」
「やめろバカ、食べるな」
手を伸ばす白木の前に、英語担当教師が立っていた。
「白木くん。授業を始めて良いですか?」
にこりと微笑まれ、白木はぎこちなく笑い返す。
「……どうぞ」
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