二寒四温


 それは、鎌崎にとって勇気でありお守りだった。


「きっも! お前ピンクってやべーだろ」


 クラスの男子の一人が言った。美術室中にそれは響くように広がり、さっと視線が集まるのが分かった。首元が羞恥で赤くなる。小学生の頃それを指摘されて、更に赤くなったのを思い出した。


 ピンクのハンカチはポケットの奥に忍ばせていた。いつもは黒や紺のタオルハンカチを使っており、それを他人に見られないように細心の注意を払っていた。


 しかし、絵の具で汚れた手を洗った際にピンクのハンカチも引っ張り出してしまった。

 ぱさ、と落ちたそれを、隣で手を洗っていたクラスメートに見つかったのだ。


「お前、こういうのが好みなのかよ。男のくせに」


 ぐるぐると、鎌崎は言い訳を考えた。

 ぽたぽたと、指先から水が滴る。

 くすくすと、笑い声が伝染する。

 何かを、言わなければ。


「鎌崎のカマちゃんって、そういう意味じゃね」


 誰かがぼそりと呟いた。たまに仇名のように呼ばれるそれに、他意が含まれていたらと思うと、身体が震えた。

 間違っていないからだ。

 それでも、何が悪いのだ、と言える勇気が無かった。


 そこに落としてしまったから。ピンクのハンカチは、鎌崎の勇気だった。母親ですら知らない、自分だけの。


 じわりと視界が滲む。今泣いたら、駄目だ。


「邪魔」


 すぐ傍で声が通った。視線を向ければ、優夜がいた。


「手洗ったなら退いてよ、邪魔。あとハンカチ落ちてるけど」

「蜂永、見ろよ。こいつ男なのに、ピンクの」

「え、男とか女とかピンクとか関係ある?」


 男子を避けて、汚れた筆洗の水を流した。シンクが泥のような色に変わって、すぐに元の銀が見える。

 優夜の言葉に、ノリの悪さにカチンと来たのだろう。


「は? お前こいつの肩もつのか」

「ピンク、使わないの?」


 筆を洗いながら優夜は男子を見返した。


「男だからピンク使わないんでしょ。ピンクは赤と白から出来てるから、それ使わないってことは、オレンジとか紫が作れないってことになる。使わないなら赤と白、寄越してよ。わたし使い切っちゃってさ」


 ぱっと掌を出す。男子はそれに圧倒され、半歩下がった。教室の視線が優夜に向いている。

 鎌崎もそれをじっと見ていた。しかし、優夜はそんなことは気にせず、赤と白の絵の具を求める。


 扉が開かれた。職員室へ教材を取りに行っていた美術教師が入ってきた。


「はーい、一回席着いて……どうしたの?」


 即座に教室内の不穏な空気を察知して、洗い場にいた三人の方へ視線を向ける。


「なんでもありませーん」


 命を拾ったのは男子だった。どん、と鎌崎の肩にぶつかかり、ハンカチを踏みつけた。

 それを見て、何も言わずに優夜はハンカチを拾って埃を払う。


「ピンク好きなの?」

「え……いや……」


 認められないのは、自分か、他人か。

 差し出されるのかと思えば、優夜が濡れた手をそれで拭った。


「え」

「あ、ごめん。間違えて手拭いちゃった」

「ええ」

「るさいな。好きなものなら大事にしろよ」


 正論だ。押し付けるように返され、鎌崎は受け取る。勇気が帰ってきた。


 その日から、優夜と鎌崎は共にクラスメートの一部から無視を受けていたが、優夜は少しも気にしていなかった。反対に鎌崎と話すことが多くなった。


 三年にあがり、クラス替えによりクラスメートが分解され、優夜や鎌崎への誹謗も消えた。皆受験へと目が向いたからか。


「優夜はどこの高校行くの?」

「美術科があるとこ」

「え、普通科行かないの?」


 駅から少し離れたファストフード店でよく二人で勉強した。と言っても、主に勉強していたのは鎌崎で、隣で優夜はフライドポテトを貪っていた。


 秋になっても勉強する素振りすら見せないので尋ねれば、そう返ってくる。鎌崎はくるくるとポテトを指先で回す優夜を見た。


「普通科行っても、することないし」

「することって。あるでしょ、勉強とか……」


 語尾が小さくなる。他に思い浮かばない。

 優夜もそれが分かったようで、少し笑って鎌崎の顔を覗き込む。


「青春とか、恋愛とか?」

「まあそれでも良いけど」

「興味ない。それより絵描きたい」


 月に一度ある全校生徒が集まる全体集会で、優夜は表彰された。大会で入賞した陸上部の横で、ちょこんと立つ姿が少し面白かったが、同時に尊敬を持った。


 優夜と話す度に、鎌崎の中の燻っていたものが解け散っていく感じがしていた。


「鎌崎は私立?」

「……うん。母さんが煩いから」

「一緒の学校来れば良いのに。鎌崎居ないのはつまんないな」


 シャーペンの先が震えた。

 優夜の辞書にはお世辞という文字はない。それなら、今のは本音だろうか。


 行けるのなら、行きたい。いや、鎌崎の学力なら優夜の行く高校の普通科へ行くのは可能だろう。しかし、母親を説得する自信はない。というか、そちらが不可能だ。


「優夜が絵を描く理由ってなに?」


 ポテトを口に放り込んだ優夜が足をぷらぷらとさせながら答える。


「お母さんが喜ぶから」

「お母さん?」

「うち父親が早くに死んでさ。お母さん一人でわたしと弟、ちゃんと育ててくれて。わたしが絵で賞状持って帰るとお母さんすごい喜んでくれるの、嬉しいから」


 「まあでも、弟の方がすごいんだけど」と、優夜は唇を尖らせながら加えた。


 蜂永優夜の双子の弟は日本では有数の音楽科のある中学に成績優秀生として入学した。寮で生活しているため、長期の休みにしか優夜と顔を合わせることはない。優夜を語るうえで、弟の存在も欠かせない。鎌崎はそれを母親から訊いていた。


 実は血縁者なのだと明かせば、意外にも優夜は驚いた顔をした。


「……あたしとは大違い」


 溢れた言葉。鎌崎は優夜といるときだけ、一人称が変わった。それについて優夜は何も言わなかった。


「違うに決まってるだろ。育った環境が違う」


 傍から見れば、男女の高校生が仲良く勉強しながら喋っているように見えるのだろう。


 しかし、実際はどうだ。

 鎌崎は物心ついた時から可愛いものや綺麗なものが好きだったし、女子だという理由だけで制服のスカートを履ける優夜が羨ましかった。


 魂のかたちは、外側だけでは分からない。

 ポテトばかり食べて教科書すら開かない優夜が、鎌崎を正しく理解する唯一の人間だということも。


「ま、本当は、描いたものに良い値をつけて売りたいんだけど」

「優夜の絵なら売れると思う」

「自由に描きたいものを売れたらな」

「その描きたいもの描いたら、あたしにも売ってよ」

「良いよ。親友価格な」


 笑いながら優夜が返した。鎌崎は閉じかけた口を開く。


「あたしたち、親友なの?」


 目を丸くした優夜が、眉を顰めて首を傾げる。


「え、ちがうの?」

「ち、ちがくないけど」

「それなら定価で売るからな」


 あーあ、損したなー、と冗談めかしく言う優夜の声を聞いて、じわりと涙を滲ませた。


「違うの、そうじゃなくて」


 何という言葉で示したら、しっくりくるのだろう。


「泣いてんの? え、なんで」

「泣いてない」

「そんなに割引してほしいの……」

「定価でも買うよ!」

「ああ、じゃああんたが値付けてよ。鎌崎は皆を黙らせるような優秀な人間になる。わたしは皆を黙らせるようなものを描く。そんで鎌崎がわたしの絵を売る」


 ぱちん、と指を鳴らせて優夜は言った。素晴らしい提案だ、と目を煌かせている。一方、鎌崎は涙が一気に引っ込んだ。


「それ、あたしの方の負担が大きくない?」

「そう? 鎌崎ならそんなの簡単だろ」


 黙らせるような優秀になるより、優夜の絵を売ることの出来る人間になる方が難しいだろう。何の資格と、どんなコネと、どれ程の覚悟がいるのだろう。


 今、その覚悟を、問われている。

 優夜は簡単に提案したが、ここで運命が分かれる気がした。


「わかった」


 落として踏みつけられた勇気は、優夜が拾ってくれた。だから、きっと大丈夫だ。


「一緒に仕事しよう」




 雅史がいないと、必然的に優夜と朝臣は一緒に夕飯を取ることになる。決まったレパートリーではあるが、優夜も人並みに料理ができ、鍵っ子である朝臣もキッチンに立つことがあった。

 一度家に帰って荷物を置いた朝臣は、着替えて優夜の部屋へやって来た。


 既にコンソメの良い香りがしており、キッチンにいる優夜へ声をかける。


「なにかすることありますか?」

「んー、テーブル片しといて」


 リビングのテーブルの上を見るが、殆ど物はない。テレビとBDプレイヤーのリモコンが散らばっているだけだ。とりあえずテーブルを拭いて、優夜の方を見た。

 視線を感じたのか、顔を上げる。


「もうすぐ来るから、駅まで迎えに行ってきて」


 言われた通り、朝臣は部屋を出て階段を降りた。

 このアパートは来年、改修予定らしい。つまり、その頃には優夜はアパートを出ていく。隣の隣に住んでいるキャバクラで働く大学生は今年就活で、就職と共に引っ越すらしい。

 他の部屋は空だ。もう募集を出していない。ふらりと物件を見に来た優夜に、雅史はここの部屋を紹介した。



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