第5話:上は大水、下は大火事
沐浴場の浴槽は、全て温泉が使用されている。
泉質は弱アルカリ性の単純泉。神経痛や筋肉痛を和らげる効果があると言われており、また単純にアルカリ成分が表皮の脂肪分を分解し、肌がつるつるになる「美肌の湯」としても知られている。
しかし。なぜアナトリア人はここまで『沐浴場』にこだわっているのか?
温泉と言っても、源泉は地下を相当に深くまで掘ってようやく湧いたモノであり、それすら元の温度は摂氏25度程度。最新鋭の地質調査技術と掘削技術を駆使して、毎日のメンテナンスを行うことでようやく維持できる設備だ。
正直言って、あるかどうかわからない『効能』を求めて行うには非効率であり、そこにはある種の妄執すら感じさせる。
そして。ただのそれだけのためには、あらゆる努力を惜しまない。
だから。沐浴場にサウナがあるのも、むしろ当然の話なのだろう。
科学的な効能があるかどうかとは別に、単純に気持ちが良いから。欠かせない設備として今も維持されているのだ。
コッコとマータ。そしてウヅキも。当然にサウナを楽しむことにする。
最も熱気の強い最上段を選んで、三人で並んでいる。
「マータは、サウナの方が慣れてるかなあ……」
紅港の岩礁に生まれ、貧民街で生活していたマータ。
彼女にとっては、温泉はあまり身近なモノではなかったし、お湯を溜めた浴槽も馴染みあるモノではない。水不足に悩まされる貧民街はシャワーがやっとだし、
「そういえば、
ウヅキがマータの脚を見る。
イズモタウンには河川などの水場がほとんどない。水棲種族は地下を中心に生活しており、それでも多くは
「うん。ほら。尾ビレ」
太腿をぴったり閉じて、刺青の絵を合わせるマータ。
その刺青を結び目に
黒と白に塗り分けられた、
「うわー。本当だ綺麗……」
眼鏡のレンズの曇りを拭い、視線を寄せるウヅキ。
マータにとってはこちらの姿の方が本当の姿だ。とはいえ、普段使っている『
感覚としては靴下を履くかどうかという程度の差だ。尾ビレに戻さないまま眠ってしまうこともしょっちゅうあるし、逆に尾ビレのまま歩こうとして転ぶこともある。
「ココねー?」
けれどコッコはなぜか、マータの尾ビレから目を逸らしていた。
というか両手で顔を覆って、身体すら背けている。
「マータちゃん。いきなり尾びれ見せるのは……いやごめん。違う。でもそんなテカテカしてツルツルしてて……うう……」
なんかコッコの様子が変だ。
マータにとっては靴下を脱ぐかどうかの差でしかない。湯浴みを着るかどうかに比べれば、些細な差であるハズだ。
今更驚くようなことでもあるまいに。
「ココねー何言ってるの? のぼせてるの? 心臓の音が高いよ?」
マータは近付いてコッコの顔を見ようとするが、コッコはさらに逃げた。
しかし顔を覆う指の隙間から、ちらちらとマータの尾ビレを見ているようでもある。中途半端で変だ。
「……ああ。マータちゃん。もうやめてあげて。それたぶん、説明するのに時間がかかるやつだから」
そんなマータとコッコの様子を見て、ウヅキはなんとなく察して。
やんわりとマータをたしなめて、とどめる。
「ココねーが何か言いたいことがあるなら、マータは聞くよ?」
「うん。そうだね。でも今は聞かないであげてね。コッコちゃんも言うタイミングとか雰囲気とかあるから」
「……?」
なんだか微妙に釈然としないものを感じつつも、マータも一旦はコッコから離れる。
コッコの心拍や呼吸の感じからして、嫌いとか怖いとかそういう感情でないのはマータにもわかる。
だが、それ以上はよくわからない。コッコからは『緊張』を感じられるが、『戸惑い』もある。コッコ自身も、自分の感じているのが何か良くわかっていないのかもしれない。
「……と、ところでウヅキさん。アパートの皆が留守で帰ってこないんだけど、何か知らない?」
多少落ち着いたところで、コッコは別の話を切り出した。
マータの脚ではなく、顔に目線を向けることにして。
アパートが燃えていた事は、とりあえず伏せて。
「え。そうなの? あのアパートで帰ってこないって……あたしを抜くと、ミシェルちゃんとリキヤくんだよね……ううん。具体的な心当たりはないかなあ……」
「そう。まあそうか……」
「リキヤくんはわからないけど。ミシェルちゃんなら普通に仕事場に行ったと思うけどなあ……」
「河、だね……」
顎に手を当てて、少し考え込むコッコ。
アパート住人のうち、リキヤは仕事の関係上外に出ることが多い。何日も帰ってこないことも割とあった。今はいないとしても、いずれひょっこりアパートに帰ってくるかもしれない。
だがもう一人の住人たるミシェルについては、真面目な性格であり、生活スタイルも一定しているハズだった。
ミシェルが帰らなくなるのは、何らかの理由があるかもしれない。
あるいは事件や事故に巻き込まれたとか。
「それならとりあえず、明日はあおぞら工務店に行ってみるよ」
そして立ち上がり、サウナから出ようとするコッコ。
「出るの? ココねー?」
ぴちぴちと、尾びれを打つマータ。
びくりと、その呼びかけと音に動きを止める。
「……出る、けど? え、何?」
「マータは。まだ平気だよ?」
「そう。ならボクは外で待っているよ」
「ふっふーん……じゃあ、ココねーの負けだね!」
サウナの最上段に座ったまま、胸を張るマータ。
そんなマータの様子に、ウヅキも意図を察する。
「お、それなら、あたしはもっと頑張るかなー?」
「
「二人とも、無理はしないでね……」
サウナ対決。
そこに付き合う気もないコッコは、さっさとサウナを出て、水風呂に向かう。
かけ湯で汗を流してから、浴槽に浸かろうとするが。
「……む」
そのすぐ隣を、一人の中年の男性が歩いているのが見えた。
足元がおぼつかない様子で、温泉成分の入ったタイルで滑らないよう、恐る恐る歩いている。
三角のクチバシと頭部の
「手を、お貸ししましょうか?」
コッコは男性に近付いていき、手を差し出した。
「おお。ありがとう。あそこのジャグジーまで行きたいんだ」
「
男性が転ばないように、コッコはしっかり手を握る。
もしかしたら、別の種族かもしれない。
とはいえ、それ自体は別に何も問題ない。アナトリアの神殿は、性別も人種も区別なく、すべての巡礼者を受け入れるのだから。
そして巡礼騎士は、巡礼者を守ることこそ使命なのだから。
ほどなくしてジャグジーに辿り着き、泡立つ湯に共につかる。
「いやあ。助かったよ。お嬢ちゃん。いつもは仲間が居るんだけど、今日は一人で来なきゃいけなくてね。でも、膝の調子が悪くて……」
「かなり古い傷……だよね。しかも……」
歩いているときの重心のかけ方から、なんとなく察せられる。
老人は左足の膝をかばうような歩き方をしていた。
「そうさ。機械生命体に膝を撃たれてね。一応オチミズで治せはしたんだが、それからは妙に力が入らない。精神的なショックなんだろうな」
「……都市のために戦ったのでしょう。お察しします」
男性の様子からして、従軍経験者だろう。
地下鉄戦争の後も、都市の各地では機械生命体との小規模な武力衝突が繰り返し発生していた。リベリオン軍は人間を襲う『敵対的』な機械生命体と戦うため『義勇兵』を募っていたのだ。
この
オチミズは、身体の傷を治すことはできる。
生物と物質の中間の性質を持ち、接触した者に
だが、精神の傷はそのまま残る。一度経験した『痛み』までは、オチミズを使っても消えはしない。
「まあ、そこまで気を使われなくたって平気さ。今日がちょっと調子が悪いってだけで、いつもなら普通に歩けはするんだぜ? リベリオン軍は退役したが、今でも現役さ」
「現役……警備会社とかですか?」
「いいや。傭兵さ。『サンズリバークラン』と名乗らせてもらっている」
緊張が。走る。
湯の泡の中で、拳を握るコッコ。
「安心してくれ。見ての通り丸腰さ。今ここでやり合うつもりはないよ。むしろ、あんたには謝りたいんだよ……。
「……狙いは、ボクじゃなかったと?」
「ああ。そうだ。と言っても、それが確定したのは燃やした後のことだけどね。キミはおそらく、ワシの標的じゃない」
飄々とした物言い。
至近距離で、いつでも掴みかかれる間合い。
しかも、相手は脚にハンデを持っている。
「曖昧な言い方だ。結局何が目的なんだ」
「カネさ。お嬢ちゃん。傭兵が戦う理由なんてそんなものだよ。わかるだろう?」
「…………」
だが。『抜きつけ』られない。
相手は丸腰であり、単純な身体能力ならコッコの方が間違いなく上だろう。
それでも。敵には
その
もしもその
おそらく。この男にはそういう『手段』がある。
コッコの勘が、シグナルを真っ赤に染めていた。
「さて。用事は済んだし、身体もあったまったし、そろそろお暇するかね」
「……出口まで送るよ?」
「無用だよ。次に会うとしたら敵同士だろうからね……だが、お嬢さんみたいな子とヤるのは楽しそうだあ……近いうちに、そうなることを望むよ」
だが振り向いたその男は、確かに『にやり』と笑っていた。コッコにはそう見えた。
「サンズリバークランのカズだ。今後ともよろしくな。お嬢ちゃん」
「……覚えておくよ。あんまり、よろしくしたくはないけれど」
そうして
「のぼせた……徹夜の最中にサウナはダメだね……」
「うう……ココねー……」
同時に、サウナからフラフラとマータとウヅキが出てきた。
コッコを見つけて、左右から縋りつく二人。
「沐浴場で、争いはダメだよ……」
コッコは二人の頭を撫でて。気付かれぬようため息をついた。
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