第二十四話:ラストダンス
「そんな……こんなの、滅茶苦茶すぎる……!」
もう日は出ているハズだ。
しかし。依然として空を覆う雲は分厚く、鉛色で、太陽は見えない。
そしてコッコは、この時ばかりは流石に声を震わせて、冷や汗すら流して、あるいは肝を冷やして、立ち上がっていく巨影を見上げていた。
それは悪夢病の最終段階であると言われている。それ故に、悪夢病を発症させた者は忌み嫌われ、都市から打ち棄てられる。悪夢病に治療方法は無く、
しかし。この
あちこちの肉を泡立たせながら、トニーの身体は赤く膨らみ続ける。天井を突き破り、倉庫を壊した後もその『増殖』は止まらず、天を衝くほどの巨体にまで膨れ上がっていた。
いかに
生半可なフォースフィールドでは、とっくに自重で崩壊しているハズなのだ。それでも、トニーはそこに立ち続けている。
「これはもう決闘がどうとか言ってる場合じゃねえな……逃げるぞコッコ」
「いや、もう遅い……」
俺の提案について、しかしコッコは首を横に振った。
彼女の目は、トニーから離れることはない。次の動きをじっと見ている。
ただし色はもう黒ではない。どんな色彩とも言い難い『
そしてその空虚な瞳で、しかし確実に、こちらを『視た』のだ。
ハッキリと、トニーは、『
味が欲しい。食べたい。満たしたい。
ただそれだけの、それだけに強い思いが、
いいや、『生前』からトニーはそうだったのかもしれない。結局彼はとっくに理性を失っていて、今になってようやく肉体の制約から解き放たれ、『狂気』のままに動けるようになったのかもしれない。
ともかく。
その動きは緩慢に見えたが、今のトニーの巨体からすれば、驚異的なスピードとパワーであり、ただ振り上げるだけでも、大気そのものが打ち震えた。
そして当然に、トニーは腕を振り下ろして、衝撃。
腕が無造作に叩きつけられ、コンクリートの地面が波打ち、砕ける。
コッコは咄嗟にマータをかばい、ギリギリで攻撃を躱した。だがその風圧まで避けきることはできず、木の葉のように吹き飛ばされてしまう。
これだけ質量に差があっては、まっとうな防御は役に立たない。フォースフィールドも
避けきれない。わかっていても、逃れられない。
トニーの動きは緩慢だ。次に何をする気なのか、簡単に動きが読める。まずは左手をつき、続けて右手をつき、そして逃げ場が無くなった所で、コッコとマータを牙で噛み砕いでしまうつもりであることが、簡単にわかる。わかってしまう。
コッコはマータを抱き寄せるが、しかし。それ以上のことはできない。
防御は無駄で、逃げることすらもう間に合わない。Leoの拍車を使ったとしても、次にトニーが右腕を振り下ろす方が早いのだ。
実際に右腕が振り下ろされ、退路を塞がれる。
コッコの背後はまた別の倉庫の壁であり、壁を登ったとしても逃げ場はない。
つまり。追い詰められた。
そして迫り来る、列を成して並ぶ白い牙。泡立ち続ける肉の中でも、牙だけは鋭くまっすぐ並んでいる。コッコとマータの骨を砕き、肉を引きちぎり、臓物を潰す瞬間を心待ちにして、ぎらぎらと白く光っていた。
そしてその向こうの、まっくらな穴。
悪夢病に侵された時点で、内臓は『
だから。今のトニーの喉の奥には何もない。そこには、ただ生命を飲み込んでいくだけの
全ての終わりがやってきた。
「ココねー!」
だが。その瞬間。その『全て』が吹き飛ばされた。
突如として、トニーの巨体が、のけぞり、あお向けに倒れ込んだ。
トニーの背ビレが、また別の倉庫の屋根に向かって倒れて、これを潰して破壊してしまう。
そして。コッコとマータは、すでにその場所にはいない。
マータは。コッコを抱えて。『空中』に浮遊していた。
「……!? マータちゃんが、何かしたの?」
「わ、わからない……だけどなんか……飛んでる!? 飛べる!?」
いつの間にか脚を尾びれに変えていたマータ。恐怖と緊張で変身が解けてしまったのか。
しかしマータはその尾ビレに、不思議な感触を感じていた。空気が、まるで水のように重く、粘りがある。だから尾びれを動かすだけで、空中を『泳いで』浮かんでいられるのだ。
「ストームルーラーだ! マータが継承した力が、覚醒した! これは、マータの
俺はすぐにマータの霊圧を計測する。が、これはわざわざ数字が出るのを待つまでもない。マータの周囲には、既に彼女の
そして、倒れていたトニーが、尾びれを使って立ち上がろうとしていた。マータを、明確な脅威として認識している。あるいは、極上の『味』と理解したのか。
「で、でもマータよくわからない……あんな大きなもの、どうやって吹き飛ばしたか……」
「いいから動いて! 衝撃波が来る!」
ゆっくりと。イモータル・トニーが右手を泡立たせ、両腕をシャコのハサミに変形させた。
そしてトニーはそのまま、衝撃波を放った。
もはや物体や液体を介する必要すらない、強大な
「ひ、ひえ……!」
建造物を根こそぎ破壊するほどの高圧。広範囲の攻撃。いかなるスピードをもってしても、避けることは絶望的に見える。
しかし。マータが尾ビレを振るって下がろうとすると、そこで風が逆巻いた。
その風が正面から衝撃波とぶつかり、そして。なんとこれを打ち消して見せたのだ。
あまりにも。あっけなく。衝撃波は周囲の建物のみを破壊し、コッコとマータには傷一つ与えていない。
「そうか! 衝撃波の媒介である大気そのものをかき混ぜちまえば、衝撃波を打ち消せるってわけか!」
「で、でもおかしいよ? マータは、ちょっと尾びれを振っただけなのに……」
「風を起こしているんじゃなく、尾びれを振っただけか? その尾びれの感触が変? つまり……」
思い当たる可能性が、一つあった。
慣性質量の制御。実質量には変化はないが、それを動かすための『慣性』により大きなエネルギーが必要になるよう『重く』する能力。エーテリウムを重力子として利用する
ストームルーラーが、その幻だったのだろう。
だがそれは今や、マータの
「お前が起こした『重い』風が、周囲の『軽い』空気を巻き込んで大きな流れを作るんだ……なるほどクラスⅢなわけだ。とんでもない力だ……」
「つまり、マータはどうすればいいの!?」
「動き回れ! とにかくトニーの周りをグルグル泳ぎ回って、大きな風の渦を作るんだ! シャチって言うのは、そういう風に狩りをするものだろう!」
そしてマータは頷き、コッコをしっかりと抱えて、尾びれを打って空を泳ぎ始めた。
かくして。
ストームルーラーを巡る紅港の戦いは、トニーの
ラストダンスが始まった。
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