ホテル・ウィクトーリア編

第十話:女の子をホテルに連れ込もう

 ノブを捻る。

 シャワーヘッドからお湯が出る。

 熱すぎず、冷たすぎもしない、丁度良い温度。

 マータはこれをつま先から、ちょっとずつ身体にかける。膝から腿へ。腿から腰へ。急に温度が上がったりしないことを確認すると、思い切って一気に頭から被ってみる。


「んん……!」


 マータの銀色の髪が、シャワーに濡れて光る。お湯が、ぎゅっと瞑ったマータの瞼を撫でて、首筋から胸元、それからお腹へ脚へと流れ落ちていく。

 午前。桟橋から汚れた海へ落とされた。午後。潮の匂いに満ちた、九朧城の闇の中をさまよった。散々な一日の間に、様々な汚れと匂いが髪や身体こびりついて、べとついていた。

 シャワーのあたたかいお湯が、それらを全部洗い流してくれる。


 雨が少なく、川もほとんどない紅港では、水は貴重な資源だ。

 貧民街ではトイレも共同で使っていたし、シャワーに至ってはほぼ皆無といっても良い。仮にあったとしても、このように『丁度良い』温度のお湯がいつでも使い放題というわけにはいかなかった。

 つまり。マータにとってここは、別世界だった。


「ん……」


 マータは目を開ける。シャワーの水流を顔に受けたまま、しかし瞬きせずじっとしてる。

 落ち着かない。

 一日の間に、いろんなことがありすぎたせいだろうか。お湯を好きなだけ使って、身体を綺麗にして良いというのに、それに対して『嬉しい』とか『安心』とか、そういう気持ちが少しも湧いてこない。

 

 本当なら。マータ自身は綺麗好きな方だ。苦手なことは整理整頓だけで、シャワーを浴びることは好きな部類に入る。

 なのに今は、心のどこかがずっとざわついていて、ずっと目が冴えている。


「…………」


 もう一度、瞼を閉じた。

 自身の身体を打つシャワーを感じながら、心のざわつく原因を少しずつ探っていく。

 すると、ぼんやりと。瞼の裏の暗闇に、コッコの顔が浮かんできた。


 そうだ。

 この一日は、全てはコッコと出会い、彼女に護られる一日だった。巻き込まれた形とはいえ、彼女はいつもマータを護ってくれた。それがどうにも、マータは気になっているようだ。


 コッコは『先生』とやらの依頼でこの都市に来たという。だが、単なる『頼み事』程度で、どうしてあんなに戦えるのだろうか? 危険な状況にも、命を賭して、立ち向かっていけるのはどうしてだろう。

 あるいは、マータも。誰かのためであれば、もっと頑張れるのだろうか?


「……うん」


 マータはシャワーを止めた。

 頑張るとか頑張らないとか以前に、マータはコッコのように強くはないし、そうなることもないだろう。マータはただ一人の、小柄な鯱族オルカの少女にすぎない。

 コッコのような『騎士シュヴァリエ』ではない。

 

 マータはシャワーから出て、バスタオルで身体を拭く。あらかじめ用意されていたタオルまで上等な品だ。やわらかくて、ふわふわで。これ一枚だけでも、マータなら一週間は平気で眠れてしまうだろう。持ち帰ることはできないものかと、身体をふきながら検討してみる。


 そうして再び服を来て、部屋に戻ると。

コッコは椅子に座り、ガラス製のやすりで爪を磨いていた。


「なんだ。もう出てきたんだ。もう少しゆっくりしていてもよかったのに」


 自身の手元に意識を向けたまま、コッコはマータに声をかける。

 その声が思ったよりも『大人』っぽくて、マータの顔が少し熱くなる。

 あるいは彼女が『大人』に見えるのは、ツインテールをほどき肩まで髪を下ろしているからだろうか? それとも裸にバスタオル一枚だけ巻いて、肩がむき出しになっているからだろうか? もしかしたら風呂上がりで乾ききっていない髪や、上気した肌に秘密があるのかもしれない。


「先生がね。『騎士たるもの、爪はよく磨いておけ』って言っててね。戦闘中に割れたりしたら困るし。それ以外でも、イロイロ役に立つからって」


 コッコの指は長く、爪の形も細く長く美しい。その一つ一つを、歴史的価値のある彫刻にそうするように、丁寧に磨いていく。

 爪の形を整えて、表面を磨いて滑らかに。焦っては良くない。あくまで一定のペースで。一定の角度で、少しずつ『あるべき形』に近づけていく。


 やがて。全ての爪を磨き終え、十本の指を伸ばし、具合を確認する。

 整えられ、磨かれたそれらは。コッコの指先でそれぞれに、真珠のような輝きを放っていた。

 これがあの。悪漢を拳で殴り飛ばし、剣やメイスを握って骨を砕く手であるとは、にわかには信じがたい。


 そうして、コッコはようやくマータに振り向く。


「あれ。服着ちゃったの?」


 そしてマータが、いつもの海色の貫頭衣装ワンピースを来ていることに気付く。

 これは鯱族オルカの伝統的な狩装束であり、鯱族オルカが尾びれを使って泳ぐのを阻害しない構造と、荒波にも耐える丈夫な繊維で作られている。

 おまけに着心地も良いので、マータ個人としても気に入っていた。


「えと、マータの服はこれ以外ないし……」

「ふうん……」


 立ち上がり、マータに近づいていくコッコ。正対し、接近する。

 戸惑うマータ。あんまりにもコッコが無造作に歩いてくるので、体に巻いているバスタオルが落ちてしまわないか気にしている内に、至近距離にまで近づかれてしまった。


「まあそれもボクは好きだけど。どうせならもっと、素敵な恰好がいいなあ……」

「え、え……」

「マータちゃんはかわいいし。背格好も、ボクと同じくらいだし」

「そんな。マータは……」

「目。紅玉ルビー色なんだね。好きな色だ。銀髪も、見た目よりもずっとやわらかいし、ちゃんと手入れすればサラサラになりそう。海の人は日焼けしている印象だったけど、マータちゃんは白い方だよね。そういうの、いいと思う」

「うえ……」


 すらすらと、並べ立てられ、まくし立てられ、マータは当惑する。

 嬉しいとか照れるとか以前に、自分の容姿についてそこまで考えた覚えがない。『岩礁』にいたころは『小さい』としか言われなかったし、都市に来た後も『小さい』ことが障害になった。

 マータは小さい。それ以上のことを、考えたこともなかった。


 何よりそんなことを。金色の瞳でまっすぐ見つめて、つやのある唇で紡ぐコッコの方が、尋常ではない。『指揮官向き』の通りが良く、しかし優しい声が、マータの聴覚でぐるぐる反響している。


「ねえ。脱いじゃおうよそれ。その後はボクに任せてくれれば……」

「そ、それは……!」


 ついに、コッコの指がマータの襟元に触れる。

 マータがその指を、コッコを、振り払うことなどできるはずもなく。


「早く支度しろバカ者」


 俺。すなわちイナバの。無遠慮な声。

 先刻から。ぬいぐるみはソファーの上で無造作に転がされて、コッコとマータを見ていた。


「ホテル・ウィクトーリアか……確かに、この都市で組合が手を出せない場所ってきたら、ここ以外にないっていうのは分かるが……」

「マータちゃんの安全を確保するにはいいでしょう?」


 コッコがイナバに振り向き答える。

 視線と声が外れて、マータは密かにほっと胸を撫でおろした。


 コッコの提案。事件が解決するまで、マータをホテル・ウィクトーリアで保護すること。

 ここはそのホテル・ウィクトーリアの客室。急な話だったので最高級とはいかなかったが、高層階にあるそれなりに良い部屋を手配して貰えた。

 

「だがなあ……俺はそもそもウィクトーリアからブツを盗んだわけだしなあ……」

「だからこそ。でしょう? ウィクトーリアはストームルーラーを取り返したい。ボクらは港湾労働者組合にストームルーラーを渡したくない。利害は一致していると言えるんじゃないかな?」

「敵の敵は味方……か? そんな甘い話とも思えないがな……」


 同時に。コッコはストームルーラーに関する『情報交換』も要請していた。

 ホテル・ウィクトーリアは紅港でも有数の大企業であると同時に、最も素早くかつ緻密な情報網を築いている。そのネットワークとイナバの情報を合わせれば、ストームルーラーの行方も掴めるかもしれない。


「ボクが受けた依頼はあくまで『ストームルーラーの捜索』であり、奪還じゃない。ストームルーラーがどこにあるかわかれば、誰が持っているかは大きな問題じゃないんだ」

「しかし……いや、わかった。だがそれだけで協力してくれると思うか? ストームルーラーは元々ウィクトーリアのモノって言われたら、どうする?」


 順番としては、発見したのは企業連合体リヴァイアサンの調査隊で、奪取したのが俺。ホテル・ウィクトーリアは移送と保管の依頼を受けていたが、ストームルーラーには触れてもいない。

 企業連合体リヴァイアサン内部のどこの誰に責任があるのかは微妙だが、ウィクトーリアがストームルーラーの所有権を主張するスジは無い話でも無い。


「その時は……下手人であるイナバにケジメしてもらうしか……」

「おい! まさかそっちがメインの条件じゃねえだろうな!?」

「騎士は仲間を売ったりはしないし、イナバはもちろんボクの仲間だよ。ただ……罪に対しては相応の罰はあるべきだとも思うけど……」

「……ぐぬぬ」


 返す言葉もない。

 そもそも今はぬいぐるみの姿だし、この姿では腕も無く、何もできない。コッコが俺の身柄をウィクトーリアに差し出すと言うなら、俺に抵抗する手段は何もない。

 コッコがレイヴンより『生真面目』な性格だったのはディスアドバンテージだった。とはいえそれでも、他のアナトリアの騎士より頭はやわらかいし、全然マシではあるのだが……


「まあ、なんとかなるよ。そのためにも、相応の準備をしないとね」


 そして。ベッドの上にMDを何枚か広げるコッコ

 それらを順番に祈祷機プレイヤーに挿入し、再生していく。

 霊子がエーテリウムに変換され、光の線が走り、交わり、面を作り、その面にテクスチャーが貼り付けられる。

 

 エーテリウムによって再現されたそれらは、色とりどりのドレスだった。


「さあ。マータちゃん。どれがいい? ホテルの展望台のレストランなんだから、オシャレに行くべきだよ!」

「は、派手すぎない……?」


 中の一つをおそるおそるつまみ上げるマータ。エーテリウムによって再現されたそれは、信じられないほど繊細で絢爛な作りをしていて、マータにはどう着たらいいかの見当もつかない。

 

「コッコはどうするんだよ。ドレスか?」

「いいや。ボクは……」


 MDを一枚再生するコッコ。

 同時に、身に巻き付けていたバスタオルを自分からはぎとってしまう。

 マータは思わず目を逸らしたが、衣服の再生そのものは瞬きする間に完了していた。

 光と共に現れたコッコが身に着けていたのは、白いベストとスラックス。首元には赤いループタイを締めている。 


「このコートは。元から騎士の制服だからね」


 そこでいつもの白いコートを羽織って、ミニハットをかぶれば、コッコは正装姿になった。

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