九朧城編
第四話:住めば都の九朧城
集金係を打ち倒したことで騒ぎが大きくなる前に、コッコとマータは貧民街を離れることにした。
マータが水上タクシーの仕事で使っている
木製の船体はボロボロで、ホロに使っているシートも一部穴が空いている。動力はちっぽけで時代遅れなガソリンエンジン。マータ自身の生活用品も載せて、必要最小限の能力を、コンパクトな船体に詰め込んでいる。
トコトコとどこか気の抜けた駆動音を鳴らし、
「ごめんなさい。巻き込んじゃって。それに、海に落としてしまった」
コッコがボートの舵を取るマータのそばで、頭を下げている。
腰を九十度近くまで曲げて、頭の両脇に垂れるツインテールは尚赤い。
「そんな……騎士さんはマータを助けてくれたわけだし……あのままじゃどうなっていたか……」
マータは応える。コッコが
だから頭を上げて。と、マータはコッコを宥める。
「集金係の人も、少しは痛い目を見た方が良かったよ! あの人たち、乱暴だから」
「……かもね。手加減はしたし、
顎を砕き、骨を折って、海に突き飛ばした。
きっと重傷だったろうが、命に別状はない。組合の者なら
だからこそ、追っ手が来る前に現場を去ったわけだが。
「そんなことより……騎士さん。本当にあそこに行くの? いくら騎士さんが強くっても……九朧城は危ないよ?」
そんなコッコが、これから向かおうとしている場所。
九朧城。
運河によっていくつかの島に分かたれた紅港の都市において、島全体がスラムとなった区域。元々は地下鉄駅を中心に発達した市街地だったが、地下鉄戦争により管理局の機能が停止。さらに気候変動によって島が水没。管理が曖昧になった隙を狙って犯罪者や流民が潜り込み、貧民街以上の無法地帯となってしまっている。
運河を南に下り、港を抜けてさらに進んでいけば、それはすぐに見えてくる。
下半分を海に沈め、身を寄せ合うようにひしめくビルの群れ。
地下鉄駅から建設資材を抜き取り、これを積み上げて作ったビルの高さは十階以上にまで及んでいる。市街地のビル街にも匹敵する威容だ。
それが海の中からいきなり現れるので、遠目からは大きな戦艦か怪物のようにも見えた。
「見た目だけじゃないよ。水没した地下には
マータは一旦船を減速させ、コッコに振り向く。
「……それでも、行く?」
「行くよ。依頼だし。騎士だからね」
コッコは金色の瞳をまっすぐに保ったまま、しゃっきりと答えた。
そんなコッコの様子を見て、マータもそれ以上は問わない。コッコは恩人であるし、タクシーの客である。クライアントの意向には従うべきだった。
マータは
「ありがとう。助かったよ。お釣りはとっておいて」
「そんな! 貰えないよお金なんて!」
「すでに命をもっているのに、お金まで受け取れないよ」
「うーん……でも載せてもらったし……」
「それに、一人で行かないで。やっぱり中は危ないよ。その住所だったら、マータもちょっとは案内できるから……」
「……目的地の住所は十三階だけど、その脚でついてくるの?」
「う……」
マータの脚。
スカートから伸びるそれは、
若干頬を赤くして、脚をかばうマータ。
「す、すぐ変えるから……落ち着かないと、上手く人間の脚に変身できなくて……」
「無理しなくてもいいよ? ここで待っててくれれば……」
「すぐだから! 一人で行っちゃダメだよ!」
「それなら待つけど……」
「うん……」
二人。沈黙。
マータの尾びれが、所在なさげにぴちぴち動いている。
「や、やっぱり他人に見られてると変身しにくいかな……って」
「ああっと。失礼。つい見てしまった」
他人の『着替え』をじろじろ見るものではない。
コッコはマータに背中を向け、さらに手で目を隠した。
「……ボクは、コッコって名前だよ」
そして背を向けたまま、改めて自己紹介をしてくる。
「え? あ、うん……どうも……」
「騎士さんって呼び方は、ボクにはちょっと大げさすぎる。差し支えなければ、名前で呼んでくれた方がありがたいかな」
「それじゃあ……コッコ……ふふ……」
マータの口の端から、笑みが零れて。
「あ、あ! 違う。違うのこれは。名前を笑ったんじゃなくて……」
「そうじゃなくて、どう?」
「……その名前。この
「なんだそんなこと。別に気にする必要ないのに」
「だからその、『ココねー』って呼んでいい? そっちの方がマータも発音しやすいし……」
「構わないよ。『マータちゃん』」
二人、名前を呼び合って、はにかむ。
そうしている間に、ようやくマータの緊張がほぐれたか、尾びれを人間の脚に変化させることができた。
二本になったマータの脚の太腿の部分には、シャチを模した白黒の刺青が彫り込まれている。この刺青によって刻み込まれた
「すごい
「そう? 一族のみんなこれを使ってるから、マータにはよくわからない。彫ってくれたおじいちゃんは、ちょっとおっかない人だったけど……すごかったのかな?」
マータは自身の脚を撫でてみる。
「……あ、履き物も出さなきゃ。ココねー、もうちょっと待ってて!」
「慌てないでねー」
あちこちをひっくり返して、釣り竿や網やら、折れたアクリル定規やインクの切れたボールペンをかきわけてサンダルを探している。
その間で、コッコは船を降りた。そのまま、半壊した窓からアパートの一室へ足を踏み入れる。
床面は海水に浸されて泥だらけ。そればかりか天井からの雨漏りもひどく、中はよどんだ潮の匂いに満ち満ちていた。
あるいは。何かが。死んで腐った匂い。
「そういえば、ココねーってどこから来たの?」
船の中をあちこち開いたりひっくり返したりしながら、履物を探すマータ。中はマータの生活用品が入っているらしいが、あまり整理はされていないようだ。
「生まれはイズモタウンだよ。そこの
「ええっと……その、アナトリア人? マータはあんまり見たことないんだけど、
「ん。別にそんなに違いはないよ。ただ、アナトリア人は『女性しか生まれない』ってことくらいかな?」
「へえ。そうなんだ不思議だねー?」
首を傾げつつも、マータはようやく目的のモノを見つけ、これを身に着ける。
そうしてようやく準備を終え、
「お待たせ! ココねー!」
「じゃ、行こうか。マータちゃん」
そうして、二人は、九朧城内部に侵入していく。
九朧城は、住民達によって無秩序に増改築が繰り返され、内部はすっかり迷路化してしまっていた。
コッコの目的地は同じ棟の建物の十三階のハズだったが、そこへ直接階段で昇っていけるわけではない。
ボロ板を使って他の建物へ渡ったり、外壁をはしごで昇ったり、配管や配線を潜り抜け、時には崩落した穴を飛び越えて、ようやく次の階へ通じる階段を見つけることができた。
「ココねー。そっち濡れてるから気を付けて」
「はい」
「あ、頭。パイプ通ってるからぶつかっちゃダメだよ?」
「はい。はい……」
マータの案内は確かに的確だった。
複雑かつ立体的に絡み合った構造の九朧城を、ろくな照明もなしにすいすい進んでいく。足元にパイプが通っているような場面でも躓くことなく、後ろを歩くコッコに警告までしてくれる。
「……おっと」
途中、流民が廊下に座り込んでいるのを見た。
身体はやせ細り、目は血走っていて、髪や肌からはすっかり色素が抜けてしまっていた。色を失った色『
悪夢病の末期患者だった。
ずいぶん眠っていないのだろう。精神はとっくにすり減り、限界を迎えている。にも関わらず、『悪夢』によって苦しめられ、眠ることすらできなくなっている。
オチミズを与えれば、その苦しみも一時的には和らぐのだろう。
しかし同時に、オチミズがより悪夢病を悪化させてしまう。悪夢から逃れようとすればするほど、悪夢はより強く精神を蝕むのだ。
九朧城には、そういう人間が最後に行き着く場所でもある。貧民街にも居られなくなるほど窮した者が、どうしようもなくなって最後に流れて溜まっていく。掃き溜めのような場所だ。
「ココねー」
「うん。わかってる。行こう……」
コッコもマータも、流民には目を合わせない。
そんなことは。彼らがとっくに救えないということは、二人とも理解していたから。
「……『騎士たるもの。闇の奥へ立ち向かうべし』」
「なんて?」
「ボクの先生が、いつかそう言っていたんだ」
コッコが目的とする『人物』は、わざわざこんな場所に住んでいる。
その事実にやや気後れしながらも、コッコはマータの背中を追い、廃墟寸前の闇の中を進んでいく。
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