第10話 虚空に
右腹に刺さり肉を抉る、鋭い銀の刃。無意識の反射で掴んだ手からは血が滴っている。今も尚傷口を広げようとする魔剣には、とてつもない力が込められており、少しでも気を抜けば致命傷になることが予測できる。
「な、んだこれ…っ。」
先ほどまでロドムが握っていた【魔剣クルガ】がいつの間にか龍馬の腹に刺さっていた。剣が独りでに近寄ってくることなどあり得ない。しかし今こうして魔剣が腹を裂くのは現実だ。
「ぐっ!!」
突然降り注いだ殺気に身を屈める。【虚ろ】が放った高速の拳一つ分頭上を、中段の刈り蹴りに似た一撃が掠める。その拍子に力が緩み、魔剣の刃がさらに食い込んだ。
このままさらに奥へと食い込めば内臓を傷つけ致命傷に至ってしまう、さらに滴り落ちる血の量も増していく。
「くそっ…桜ぁ!目と耳を塞げ!!」
出し惜しみしている場合じゃあない。龍馬の放つ覇気は冗談ではない事を告げており、気圧された彼女も大人しく従うしかなかった。
ギュッと瞑り抑えたのを確認し、【虚ろ】へと向き直る。今から見せるものは彼女には少し刺激が強い。
グシュゥッッッ
食い込む銀の刃を右腹の肉ごと抉り落とした。常軌を逸した行動、鮮血が宙に飛び散った。確かにこの光景は桜が見れば卒倒するだろう。肉と共に魔剣が跳ね飛ばされる。
「ぐぅ…っはは…」
悶絶する、想像を遥かに超す痛みに苦悶を隠すことが出来ない。気丈に降る舞おうと笑顔を浮かべるが額からは汗が止まらない。
明らかに重症化した傷口からは止め処なく血が流れ出る、このままではいずれ失血死してしまうというほどに深く抉られた傷口を早く処置しなければ。それをするには炎を押し当て、傷口を焼き付けるしかない。焼き鏝があるはずも無く、最早このまま戦うことは出来ないだろう。
この状況、誰もが馬鹿だと揶揄するだろう。血を止めるためにさらに傷を深くしては世話が無い。しかし、誰もが知らない。何故龍馬がこんなことをしたのか。そして【虚ろ】は知ることになる。混沌の欠片として生れ落ちて僅かなうちに、震えるほどの恐怖を。底冷えする絶望を。
魔剣に比べ明らかに細く、そして薄い。力で押し切るというよりは、技量で引き斬る。それが刀だ、しかし龍馬が差すものはただの刀では無い。獄龍寺に代々、今では作り話だと笑われた伝承は紛れもない事実。
【灰屍】。それは、人喰い鬼の総大将・灰屍が心の臓を素材に鍛え上げられた鬼神の如き一振り。人の及ばぬ力を内包したそれはぬらぬらと赤く光る。
マッチ棒を箱の側面に擦るが如く、自身の血で濡れた刃先を地面に奔らせた。
「
轟くようにゴウゴウと噴き出した、紅色に燃える紫炎が【灰屍】の
骨まで灰に帰す無慈悲な炎は、目を奪うほどに綺麗に揺らめいていた。
「ぐがぁぁ…はぁ、よし。」
ジュゥゥゥゥと傷口に炎を押し当て肉を焼く。焦げた臭いと激痛に顔を顰めるが、一先ずは失血死の心配はしなくて良くなった。
しかしどういうことか、こうまでも絶好の機会を演出してやったというのに攻め込んでこないでいる。もちろんのこと間合いに入れば一薙ぎで斬り伏せるつもりでいた。それを感じ取られたのだろうか。
お利口さんに立っている【虚ろ】は手負いの獲物を前に足を踏み出せないでいた。成り損なりとはいえ混沌から生み出された存在、巧妙に隠されてはいようとも龍馬の持つ殺意を感じ取っていた。
しかし生まれたばかりだからだろうか。【虚ろ】は逃げるべきだったのだ。しかし赤ん坊の様な好奇心故か、愚かにも湧いて出た自尊心のせいか、はたまた何かの強い意思によってかは分からない。
「を゛を゛を゛」
興奮したように龍馬を求め、瀕死に見える獲物に近づいて行った。
死角から舞った銀の斬撃を躱す。独りでに空を飛ぶ魔剣はロドムの怨念でも籠っているのかと思われたが、よく見ると切り落とした彼の手が柄を握っている。どうやら遠隔操作をしているようで、ブンブンと龍馬の首を落とそうと飛び回る。
しかし、舐めてもらっては困る。嘲笑した龍馬は斬撃を素手で弾くと、魔剣を手から奪い取った。ロドムの剣術は卓越したものだった。龍馬から見れば一流とは言えないが、アルフレッドよりも確実に上であったことは確か。
いくらロドムの身体を乗っとり操作しようと、その剣に魂は籠っていない。彼よりも戦闘力は【虚ろ】が上だろう、しかし剣の腕に関しては彼に軍配が上がる。
「待ってろよ、すぐだ。すぐに楽にしてやるからなぁ!」
今もいるかは分からない彼に向けた言葉。脳裏に蘇るのは、涙を零して斬れと助けを求める男の叫び。叶えないわけにはいかない、アルフレッドに顔向けするにも全力で。ロドムの形見、【魔剣クルガ】を左手に、【灰屍】を右手に。二刀を構えて臨む。
低く屈んで二刀を脇に構える。地面を這うほどに低く、地面を抉り飛ばすように蹴り迫った龍馬。
【虚ろ】の踏みつけを、魔剣で両足共々斬り飛ばし、落ちてきた身体に振るうのは灰に帰す一撃。
灰骨煙焔・
腰から肩を右斬上に一閃。吹き出る血を一瞬で蒸発させた紫炎が傷口から身体の内部を焼き尽くす。激しく燃え盛る炎は一瞬にして駆け巡り、熱を逃がすことを許さない。
呻きを発することもなく、口からは灰色の煙だけが立ち昇って夜の闇へと消えていった。
「が…はっ…」
仰向けに倒れた身体は、傷口から入った紅紫の炎が全身を焼いて行く。末端から徐々に、肉片も残さずにゆっくりと。
「はぁはぁ。アル、は…」
「…寝てるよ。」
【虚ろ】が消え、そこにはロドムがいた。かすれた声で問う彼はもう目が見えていない様で、最後の力で空を探る。指の先には小さく紫炎が灯り、少しずつ身体が崩れていく。
龍馬の答えに優しく笑った彼は、そうかと短く言った。
「桜、もう…」
「うん、分かってる。」
ロドムの傍に膝を着いた桜は目を瞑り、不格好ながらにも祈りを込める。少しでも穏やかに眠れるようにと。
「俺にはもったいねえなぁ…」
成し遂げなければいけなかった。でも殺し過ぎた、奪い過ぎた。五年前あの日、妹が殺された日から刻み続けた罪。復讐なんて立派なものじゃあ無かった。ただ憎くて憎くて仕方なく、許せなかったから。そんな事彼女が望んでいないことも分かっていたのに、所詮は自己満足だった。
五年かけて成し遂げた結果残ったのは寂しさだけで、173もの命を奪った自分は穏やかに死ぬことなんて望めなかった。死に場所を求めて数か月、やっと地獄に堕ちていける。
暗黒に閉じた視界で、手を包む温かい炎が冷たくなっていく心を癒してくれる。まったく勿体ないことだ。
死への恐怖はなかった、ただ悲しいのは妹に合わせる顔が無いこと。しかしもう会うことは無いだろう、彼女は無垢で、殺人鬼の自分とは違う。
「アイリス…」
残りの人生を捨ててでも彼女のために生きたかった、それほどまでに愛していた。唯一残った家族を守れなかった後悔、しかしもう使命は無事果たした。
「ごめんよぉ、ごめんよぉ…っ」
あの日お前の傍にいなかった俺を、今も許すことが出来ない。なんで守れなかったんだ、なんで気が付かなかったんだ、なんでなんでなんで。
死の淵に立たされて湧いてくる、自分の愚かさと非力さ。許してほしい訳じゃない、生き返って欲しいなんて高望みはしない。
ただ、会いたい、抱きしめたい、頭を撫でてやりたい、ただ…お兄ちゃんと呼んで欲しかった。
綻びが大きくなっていく。力が抜け、既に全身の感覚も無くなった。彼女を想う。
「アイリス…兄ちゃんな。兄ちゃん、頑張ったんだぜ…」
静かに、流されていく。美しい、淡く明るい夜に、灰が溶けていく。
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