第9話 虚ろ
失った意識が戻っていく。滅んでいこうとする魂が何か強い力で引っ張られ、鎖に繋がれたように動けない。暗かった視界が次第に明けていき、目に映るのはあの二人。息絶えたかつての友を背負った少年と怯え震えた少女が、驚愕に目を見開いて佇んでいる。
(俺は何を、)
立っているのか視線は高い、しかし両足は斬り裂かれ胴体と分かれたはず。身体の感覚は無いが、目線を下にやると両手両足が元のまま、半分になったはずの胴体も綺麗にくっついている。
手足に力を入れることも、首を回して周りを見ることも出来ない。目を閉じて開く、息を吸って微かな声を出す、それだけが許された不自由に意識が追いつかない。
「あ゛…」
(助けてくれ…)
カラカラに乾いた喉を絞って助けを求めるが、逆流してきた血が噴き出すだけで言葉にならない。命尽きることの恐怖を軽く凌駕する、闇に飲まれていく感触が足元から身体を濡らしていく。
残る意識を侵食していく。頭の中、段々と大きくなっていく何かの声。
殺せ。
喰らえ。
ザワザワと撫でつける冷たい手が魂を抱きしめて離さない。全てを殺せという命令が、全てを喰らえという脅迫の闇。それが広がるにつれて冷めていく意識。
噴き出した冷や汗にようやく気が付いた。隣に立つ桜を慌てて隠した龍馬は、目の前の
「龍馬、あれ…」
「分かってる…っ。あれはロドムじゃあ無い!」
ロドムの形をした気味の悪い存在が短い呻き声を上げる。両手両足、胴体に首を斬り飛ばしたはず、なのに目の前には五体満足で立ち揺らぐ姿。目の光は消え、口からは血を流すがあれは生きている。
緩慢に動き始めたロドムの身体はまるで生きた死体。襲い掛かってくるのかと身構えた二人の予想を裏切るように、
一歩一歩、離れていくそれが向かうのは夜の影に覆われていく森の中。殺すべきか、街に戻り明日を待つか。得たいが知れないだけに刀を抜くか迷う龍馬は、じりじりと離れていく距離に唾を飲んだ。
遠くなっていく。何度も声を出し助けを求めるが、訝し気な眼で見るリョウマは距離を詰めてこない。ロドム自身それは正解だと理解している。おそらく攻撃を仕掛ければ自分を動かしている何かは、反撃に恐ろしいことをする。その前兆をありありと感じ取ってはいる。
「あ゛あ゛あ゛ー-…。」
(助けてくれ、俺を、俺を殺してくれぇええ!!)
叫ぶも空しいただの呻きが、暮れていく空に響いて消える。
今ここで、殺してくれ。じゃないと俺は、数えきれないほどの人間を殺すんだ。
脳にこだまする黒い命令に確信する。殺せ、喰らえと迫る闇は化け物へと変えようとしてくる。
正体は分かっている。身体を侵食するこの闇の正体は、混沌の欠片だ。この五年、逃げながら数度か戦った恐ろしい者達。混沌族の成れの果ての欠片達は、成り損ないの不完全体だというのに一体一体が計り知れないほどの戦闘力を有していた。
しかし、今身体を乗っ取っている欠片は今まで出会ったどれとも違う。力強さの代わりに存在する不気味さに、泣いて喚きたいほどの怖気を与えて来る。
(嫌だ、殺してくれ。嫌だ、殺したくない。これ以上人を殺したくない!)
これまでに百を超える人間の命を終わらせて来た。それは全て妹の殺しに関係した人間で、罪の無い人間はいなかった。しかし今ここで見逃されてしまえば、夜には街に向かって皆殺しを始める。
ゆっくり森へと向い続ける力に必死に抗う。足に止まれと、手に止めろと願い力を込めるがそれも虚しく、ただ静かに一滴の涙が流れるだけだった。
泣いている。光の消えた暗い瞳から、静かに落ちる涙を目で追う。地面に染みをつくった水滴の意味を感じ取る。何をするべきか、あれは殺すべきなのか逃げるべきなのか、今選択を間違えれば後に待つのは最悪の結末だ。
龍馬の脳内に予知めいた警告が降って出た。目の前の何かの中に確かに存在するロドムに問う。何を伝えたいのか、何を求めているのか。
「ロドム!!」
聞いているか分からないが求めるように彼の名を叫ぶ。竜馬の声に呼応したのか、後退する動きが止まる。唇は、何かに抗うかのように震えている。
「ぎ、ぎぎれぇえ!!お、おれを斬れぇえリョウマぁああ゛あ゛!!!」
血涙を垂れ流し、喉から血を吹き出し、口が裂けるほどに叫ぶ。
ロドムが助けを、救いを求めている。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」
ロドムを乗っ取ろうとした何かが、這い出て来た彼の意識を抑え付けるように発狂し、頭を抱えた。まるでこの世のものとは思えないような鳴き声が大気を震わせ、耳を
「桜、アルフレッドを引きずって走って逃げろ!巻き込まない自身がねえ!」
一瞬にして周りを包んだ殺気に、ゾクゾクと背中が寒くなる。
あれは、強い。既にロドムの気配が消えた空っぽの【虚ろ】は闇に染まった目で見つめて来る。
「を゛を゛」
意味不明な言葉にならない呻き声を連続して吐く【虚ろ】は、無理に繋いだ手足をボキボキと鳴らしながら迫る。
明らかに速さの増した、龍馬を捉えようと蠢く不自然な動きは恐れを知らずに間合いへと入り込む。隙だらけの喉に一閃、振るった刃が空を切った。
確実に首を撥ね飛ばしたと思った一撃は仰け反ることで避けられ、ぐにゃりと背中を曲げたままの態勢で近づくのを止めない。
軟体動物のように関節を無視した動きは、体中からミシミシと音を上げている。捻り曲げ、折れ軋む手足。あまりにも気色の悪いその姿に、龍馬でさえ思わず退いて額に汗を浮かべていた。
「よっと…っ。」
早いところ片をつけ街へと帰還しなければ。すでに降り始めた夜の帳は混沌の欠片を活発にさせていく。十分に引き付けた無防備な腹に一撃、柄での打撃を放つ。内臓が破裂する音、手に伝わる手ごたえもはっきり感じる。
嫌な殺気に思わず身を引く。
ゴッ
軽く何かが削れる音。咄嗟に飛び退いた足元が黒く、まるで世界から無くなってしまったかのように削り取られていた。淀んだ空間で闇が蠢いている、大量に集まった蛆虫の群れが這い出るように、ゴボゴボと沸き立ち地面を食い潰していた。
龍馬は着地の衝撃を使い、踏み込んで抜刀した。【虚ろ】は咄嗟に右腕を上げて防御する。首を狙って走った刃は少し逸れ、右手首と頭の五分の一ほどを空中に跳ね飛ばすだけに終わった。
手首と頭の傷口からは血が出ることは無く、一切の黒い穢れが覆う。
もちろんのこと致命傷にはならず、衰えるどころか元気の増した動きで前蹴りを飛ばす。その速さに思わず刀身で受けるが、想定したよりも遥かに強い衝撃に体が宙を舞う。
膝を着き、地面を掴む。追撃に備えて構えるがその場を動こうともせずに龍馬を見下ろしていた。
「龍馬後ろ!!」
そんな時、後ろから桜の大声が聞こえて来た。振り返った視界には何も映らない、そして右腹を襲った痛みが鋭く響いた。
「は…っ?」
血が滴る傷口に光る銀の輝きに、奪われた目が離せなかった。
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