吸い込まれる
ある日宙樹は二枚の紙を握りしめ、いつものようにカフェバーからすぐ去ろうとしたイリスを引き留めて一枚渡した。
「これは……?」
「国内一のオーケストラのコンサート。会場はこの街から少し離れてるけど……予定が空いていたらでいいから……一緒にどう?」
「そうね、この日は開けておくわ。待ち合わせ場所はいつもの軽食屋でいい?」
「はい!」
宙樹は今まで生きてきた中で一番大きな声で返事をした。
なかなか内面を見せてくれないイリスの心を開くには、下手に格好つけるよりも自分のことを少しだけ明かす必要があることに気がついた。
しかし自分の趣味ばかりに付き合わせているのではないか、イリスは自分より年上だから気を遣ってくれているだけなのではないのかという気持ちも消えなかった。
そんな心配事も彼女の綻んだ顔を見れば吹き飛び、無意識のうちに鼻歌を歌っていた。
すっかり上機嫌になった宙樹を見てある常連客達が彼に忠告した。
「兄ちゃん、あの女と最近妙に親しくなっているようだけど、気をつけたほうがいいぜ」
他の客もその言葉に続く。
「ああやって妙な色気を出して男に近づいて金持ってそうな男から生気を吸い取っていくって噂だ」
「裏では魔女って呼ばれてんだぜ」
「顔も育ちも良いあんたなんか格好の餌食だろうな。青春を楽しむのは結構だが、余り気を許しすぎるなよ」
みんな彼女を誤解している。不器用なだけで優しい人だと宙樹は反論したが、幼い頃から大人の人間関係を見てきた宙樹は世の中には人の情に漬け込んで騙す人間がいることも知っていた。
ただイリスはそういう人間だとは思えなかったのだ。それが本当にそうなのか盲目的になっているのかはわからない。
しかし今一つだけ言えるのはもっと彼女のことを知りたいということだった。
宙樹達のやりとりを見てマスターは何か言いたそうにしていたが、まだ何にも染まっていない若造を試しているかのように黙っていた。
常連客の言葉がまだ少し心に引っかかっていたが、ここでは余計なことを考えるなと言うように厳かで煌びやかな雰囲気のコンサートホールが宙樹たちを圧倒した。
指揮者が棒を振り上げると、管楽器の力強い音色が一斉に響き始めた。
その瞬間から座席に座ったまま別世界へと吸い込まれて行く。
イリスは演目が終わった後も舞台の方向を向いたまま放心状態になっていた。
「どう? 少し退屈だったかな」
「いやあ。なんか、すごいなって……」
イリスはこれ以上言葉が出ない様子だった。生まれて初めて本格的なオーケストラに間近で触れて圧倒されたようだ。
しばらく彼女は余韻に浸り、その眼は別の世界に取り込まれているようだった。
夜10時過ぎ、イリスは行きたいところがあると珍しく自分から誘ってきた。そこは彼女が雄叫びを上げていたあの高台だった。
イリスは少しだけ流行の歌を歌った。
「イリスさんの歌声は本当に綺麗だ」
「褒めても何も出ないわよ」
「お世辞じゃないよ。そんな事言ったら怒るよ?」
「じゃあ怒ってみせて」
「何故!?」
「ふふっ、今度は驚いてる」
「何なんだ? 意味がわからないよ」
イリスは時々こうして宙樹を揶揄った。こうした彼女のペースには時々ついていけない。
「いいなあ」
宙樹の顔を覗き込んでイリスは微笑んだ。心なしか白い頬がほんのり桃色に染まっていた。
「私、あなたみたいに思ったことをうまく顔に出せなくて。だから時々誰もいない時にここにきて歌うの」
「なるほど。でもなぜそこまでして歌を?」
「何も持っていなくても歌は歌えるからね。溜まった感情を街中へ一気に噴き出してやるの」
イリスはあーっと大きく叫んだ。
「本当はね、人のいない時にやるの。なるべく早く皆がいない平日の昼間とか日の落ちる頃とか……もちろん近所迷惑になるし居場所がわかるから今みたいにデカい声出すことは稀だけどね。ここは私の秘密の場所だから」
「それであんな状況なのにここへ来ていたのか……」
宙樹は心に引っかかっていることがあった。
「でも危ないよ! わざわざ夜中や台風の直前に来るなんて」
「そうね、自分でも馬鹿だと思う。でもいっその事何かに巻き込まれてどうにでもならないかなって思うの」
この投げやりな言葉を聞いて、宙樹は悲しくなった。
「そんな……あなたはスターになれる素質があるのに……」
「そう思うならあなたが音楽プロデューサーとでもコネ作って私を売り込んでよ」
「それは自分の力で勝ち取るものでは?」
「そうよ。でもそれで世の中渡ってくことはできない。ただ歌が上手いだけじゃダメ。もちろんめちゃくちゃ努力して優れた技術を身につけていることは当然として……それ以前に好きなことに投資する勇気がないわ。失敗したら心の拠り所を失っちゃう」
「生半可なこと言ってごめんなさい……」
「あなたにここまで話すつもりはなかったんだけどね。なんだかあなたと出会った時から全て見透かされているような気がして。隠し事ができないなあ」
イリスは何かを諦めたような顔で遠くに見える海の水平線を見つめて言った。
かと思えばまた宙樹の顔を覗き込み、彼の胸に指の先を添えて冷たく、それでもどこかこちら側の包み込んでくるような眼で訴えてきた。
「ここまで私の事を知ったならいっその事ずっと付き合ってもらいましょうか? 面倒な事にならないように、私の手から離れないようにするの」
水晶のように美しい眼と雪のように白い肌が宙樹の視界を支配していく。
恐ろしい事を言われているはずなのに、彼女の思惑通りそばを離れたくなくなる。
「ずっとそばにいる。あなたが好きです」
「その言葉、いったい何人の人に言ったの?」
イリスは微笑し、宙樹に軽く口づけをするといつの間にか消え去っていた。
友人達が色恋や性について花を咲かせているのを聞き、思春期になれば年相応の好奇心も持ち始めた宙樹は自身をそこまで初心な人間でもないと思っていた。
ただ恋というものはどこか自分には関係のないおとぎ話じみたものにも感じられた。
何人か交際した人間はいた。全て向こうからのアプローチだった。
しかし彼自身はそのあやふやな感情を理解できないまま結局どれも友達との区別がつかずに終わった。
その度相手は寂しそうな顔をしたので、相手を粗雑に扱っているようで失礼だと考えるようになり今は誰とも関係を結ばないでいる。
イリスのことも今までと同じだと思っていたのだが、何度か関わるうちに彼女自身に居心地の良さを感じるようになっていた。
そうして彼女に触れようとしたが、霧のように掴めない。そんな彼女に追いつきたくて、気がつけば彼女のことばかり頭に浮かぶようになった。
そんなあやふやな存在が、自分自身の痕跡をこちら側に残したのだ。
相変わらず彼女は視界からすぐに消え去ってしまうが、それでも残るあの柔らかい感触は呪いのように焼きついた。
それが一層彼女を追いかけたい気持ちに繋がった。宙樹はイリスから逃れられないようになったのだ。
はっきりと恋心というものを自覚したのがその時だったが、それは宙樹にとって砂糖と毒の混じった劇薬だった。
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