夢の街

 それからしばらくの間彼女はカフェバーに現れなかった。

 あの時とても無神経な事をしてしまったのだろうか、でもあの歌には無意識に吸い寄せられていったのだ……と様々な思いが宙樹の頭の中によぎった。

 カフェのマスターにも何か思いつめているように見えると心配されたが、大学のレポート提出期限が迫っていると言って誤魔化した。

「ここ最近忙しくて来れなかったみたいだが、あの子なら今日来るよ」

 勘のいいマスターは何かに気づいたのか、そう一言残して仕事に戻った。

 

 宙樹はピアノの前に座り、練習を始めた。

 一人で弾くこともあれば、ジャズバンドとセッションしたり歌手がついたりすることもある。歌手はこの店と契約している歌手もいれば、ゲストや客が歌うこともある。

 今日はマスターの知り合いだという人が歌うらしい。いつもなら客が飛び入りで参加するとき以外事前に打ち合わせをしてリハーサルもするのだが、今日は何も伝えられていない。

 マスターは何故か機嫌が良さそうだが、何も答えてくれなかった。

 あまり細かいことを気にしていてはうまく演奏ができないだろうと、無心になって練習を続けていた。すると、誰かが宙樹の肩を叩いた。

「今日はよろしくお願いします」

「あ……すぐに気がつかなくてすみません。こちらこそよろしくお願いします」

 それは昨日獣のような雄叫びをあげていた人間と同一人物とは思えないほど清楚で華やかな女性だった。

 黄金に輝き、煌びやかだがシンプルで上品なつくりのロングドレスに身を包んでいた。

「今日は特別な人を呼んでいます。ウチの常連の一人、歌手のイリスさんです!」

 そうしてイリスと呼ばれた女性は皆に一礼をした。

 マスターに「これはどういう事だ」と宙樹は目で訴えると「君なら何とかなるでしょ!」といったような調子であった。

 その包み込むような歌声に店の中にいる皆が酔いしれ、天に登って行くような朗らかな表情をしていた。

 イリスの歌に宙樹自身も呑まれそうになったが、ピアノを目の前にすると瞬時に本来の自分を取り戻す。

 彼女に負けないような音色を出したいという意地と、こんな美しい音を台無しにしてはいけないというプレッシャーが鬩ぎ合っていた。

 いくつかは流行歌を演奏したが、最後に彼女と私の間で共有できる唯一の曲を選んだ。

 不思議とイリスはその時だけ笑っているように見えた。


 なんとか演奏を無事に終え、拍手に包まれた。

 マスターと客の満足した顔を見て宙樹はほっと胸をなで下ろす。

 イリスはこの後別の仕事が入っていたらしく、客に挨拶をしたと思いきや忙しなく次への準備をし始めている。

 客は次々に言う。

「あの子、歌はうまいけど気持ちこもってないよね」

「色々あったから切羽詰まってるのはわかるんだが、商売ならもう少し愛嬌あったほうがいいよなあ」

 そんな声は全く宙樹の耳に入らず、あの人が行ってしまう前に何か一言交わさなければいけない、とすかさずイリスの前に立った。

「あの、この間は余計な事をしてしまってすみませんでした! これ、弁償しますので……」

 宙樹は石の欠片を差し出した。

「それ……二万円ぐらいするやつ」

 気がつくと彼女の姿は消えていた。

 貧乏学生にとって二万円は痛い。しかし自分の責任は果たさないと気が済まない宙樹は次のバイト代が入ったら食費を削ろうかとまで考えていた。


彼女は月に何回かカフェバーで歌うようになった。

 二人のやりとりは最初は事務的なものばかりであったが少しずつ会話を交わし、互いの表情も柔らかくなっていった。

 イリスは石の事はもういいからご飯が食べたいと食事と宙樹に食事を奢らせた。

 気を遣ったのか彼女が選んだのは安上がりで済む軽食屋であったが、下手に気取ったレストランより慣れた店の方が落ち着くと空いている席にさっさと座り込んでメニューを手に取った。

 特に気にしていないのならそれでいいが、宙樹には彼女の本音がよくわからなかった。

 怒っている訳ではなさそうだが喜んでいるのか不満があるのかもよくわからない。

 宙樹がひたすら謝っても、何か楽しい話をしようと簡単な世間話を持ちかけたりしても、音楽について語っても、頼んだピラフを少しずつ救いながらただひたすら頷くだけで彼女からの反応は少ない。

 自分ばかり話して向こうはつまらないのではないかと不安になった。

 なにか彼女が関心を持ちそうな話をしてみようと必死で模索すると、あの曲のことが思い浮かんだ。

「あなたはどこで『夢の街』を知ったのですか?」

「夢の街?」

「僕がいつも最後に弾いている曲です」

「あれそんな題名なの?」

 ようやく自分から問いかけてきたイリスを見て宙樹は緊張が解けてしまったのか、今まで溜めていた蘊蓄話が一気に吹き出した。

「あの歌の内容は作者の実体験なんです。都会の繁栄とその裏で犠牲になるものという資本主義社会の光と影を間近で見てしまって、青年自身も挫折して全てを失うどころか莫大な借金を抱えてしまうんだけど、それでも最後まで残ってくれた親友のありがたさに気づいて微かな希望を胸に……」

 イリスはまたピラフを黙々と食べながら頷くばかりだ。

「……すみません。好きな曲の話になるとつい喋り過ぎてしまうんです」

 宙樹は恐る恐るイリスの眼を見た。

 彼女はレンゲをそっと皿に置き、お腹を抱えて笑い出した。

「どうしたのですか!?」

「あなたってちょっと天然だよね」

「そうですか?」

 確かに少しおっちょこょいなところはあると昔友人に言われたことがある。ただそこまで抜けているとは自分で思っていなかった。

「そうよ。この街に似合わない小洒落た男が毎週嫌でも目に入ってしまって。珍しいから観察してたらいつのまにかこんなことになってた」

「もしかして迷惑でしたか……?」

「いえ。堂々としてると思いきや私には謝ってばかりだし、かと思いきやびっくりする程丁寧に食べるし。なのに突然矢継ぎ早に話出したり。この人も人間なんだなってなんだか安心した」

 誉められているのか貶されているのかわからない。まるで珍獣でも研究しているかのような言い方だ。

「ではあの歌を口ずさんでいるのも聴きに来ていたわけではないのですか?」

「最後にあなたがいつもあの曲をチョイスするから覚えちゃっただけよ」

 宙樹はせっかくできたと思った趣味仲間は最初から存在していなかったことに落胆した。

 よく考えてみれば若い世代がこの曲を知っていることが奇跡に近いのだ。

 彼は自分がイリスに対して身勝手な期待を押し付けていたことを恥じた。

 それを慰めるように窓を見つめながらイリスは言った。

「でもいい曲よね、見捨てられたこの街にふさわしい」

 やはりこの人と自分は気が合うかもしれない。宙樹の心に微かな光が差し込んだ。

 この街は昔世界中の人を呼び寄せる大きな催し物が開かれた。それは戦争が終わって世界が繋がる象徴のようなものだった。

 しかしその裏で多くの日雇い労働者が安い賃金で働き、その後の補償もなく路頭に迷うことになった。

 祭りが終わった後の残骸が今もたくさん残っているが、それは繁栄の代償として世間は仕方のないことだと片付けた。

「いずれ国中のあちこちがこの街のようになるわ」

「あなたもそう思いますか」

 今日では都会へ行けば手に入らないものはない。しかしそれは金があってこそだということも宙樹は肌で感じていた。

 この街で生活することによって尚更その豊かさが茶番にしか見えなくなった。

 いくら世の中が繁栄したとしても豊かさを享受できない人間はどこかに居る。その存在を無視するといつか自分達がその報いを受ける気がしてならなかった。

 何事にも終わりが来る。そう周囲に話すといつも笑われた。

 戦に敗れても、大きな災害に見舞われても、ここまで歯を食いしばってきた自分達の頑張りがそんな簡単に崩されるわけがないと。

 生真面目に宙樹の話に応えたのは今この目の前にいる女性だけだった。

「あの、僕の名前は晴乃はるの……」

「ヒロキ君でしょ。マスターが名前で呼んでるから知ってる」

「では、あなたの名前は?」

「イリスって呼んでくれればいい。本当の名前……そのうち教えるかもね」

「それはまた一緒に出かけても良いという事で宜しいでしょうか?」

 イリスは静かに頷いた。彼女の本心はまだわからないが、少なくとも宙樹に対して不快感を示しているわけではないようだ。


 それから宙樹は月に一回程度イリスを誘い、さまざまな場所へ出かけた。

 遊園地、スケートリンク、動物園、映画館、博物館……どうやらイリスにとってそれらは殆ど初めての経験ばかりのようで、子供のようにはしゃいでいた。

 その顔を見て宙樹は今まで味わったことのない、頭から腹にかけて微弱な電流が走るような感覚に包まれた。

 気がつけば二人で過ごす時が一番気持ちが軽くなることに気がつき、話す言葉も砕けたものになっていった。

 時間があれば彼女とどうすればもっと長くいられるのかを考えるようになっていた。

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