秘密基地の幽光

若葉ゆい

叫ぶ女

 宙樹ひろきにとって一番落ち着く時がピアノを弾いているときであった。

 親から期待されて育った彼は生きていく上で必要なものを与えられ、それに相応しい生き方をしなければならないと日頃の行いには気を付けていた。

 彼が唯一手に入れられなかったものは自由であった。

 進学先は社会勉強と称して父親を説得し、実家のある都会から離れた地方大学に決めた。

 今では風通しの悪いアパートで貧乏学生をしている。

 自由を手に入れる為に今まで与えられてきたものの殆どを失ったが不満はなかった。

 むしろこの街に来て手に入れたものもある。

 それが週末このカフェバーでピアノ演奏のバイトをする事だった。

 ここにいる時だけは全て忘れられた。


 演奏する曲は誰でもわかるように流行りの曲や伝統的な曲を弾いた。

 しかし一曲だけ自分が選別した曲を弾いても良いとマスターが提案してくれたので、古い外国の歌謡曲解説を交えて披露していた。

 それは亡くなった母がよく聞いていた曲で彼も幼い頃一緒に口ずさんでいた。

 この曲は昔の映画の挿入歌としても使われていたらしい。知っている人は知っているが世間一般に浸透しているわけでもない。演劇や映画が好きな人ならよく知っている。そんな曲で、多くの客はぼんやりと聞き流し、たまに年配の客が「こんな曲あったな」と微妙な反応を示すだけだった。

 その中で曲に合わせて静かに歌う女性が隅のテーブル席に佇んでいた。

 宙樹は直感で自分と同世代だと思った。

 この曲を街中で知る人はいなかったので、もしかしたら同志かもしれないと何度か声をかけるタイミングを伺っていたが、演奏を終えるといつの間にか彼女はいなくなっているのである。

 マスターによれば彼女は週に二、三回ほど来るらしい。

 気づいた時には隅の席に座っていて、誰とも喋らずスコッチウイスキーを一杯飲んですぐ帰るのだそうだ。

 しかし宙樹が来る日は演奏が終わるまで座っているとも話す。

「君の演奏に惚れ込んでたのかもよ? 脈アリかもね」

 とマスターは揶揄った。

「……あの曲に関心があっただけでしょう」

 宙樹はそっけなく返事したが、少し耳たぶが赤くなっていた。


ある日台風が近づき、午前で大学は休講になりアルバイトも無くなった。

 帰途につきながら午後からの計画をざっくりと立てていると、どこからか歌声が聞こえてきた。

 聞き覚えのある歌に透き通ったソプラノの声。宙樹は台風が近づいていることも忘れてその出どころを探し続け、気がつけばどこかの路地裏に入っていた。

 狭く細い一本道だったのでいずれ行き止まりに入るだろうと思っていたが、やっと出た先は高台へ続く裏道になっていた。

 高台を少し登ったところに公園の跡地がある。公園はもっと広くて安全な場所に移動し、今ではこの辺りにくる人間はほとんどいない。

 そこへ近づけば近づくほどその声は一層強くなっていき、どこか非現実的だった音がそこにある事を証明していく。

 公園の跡地には小さな東屋だけがなぜか残っていた。そこは見晴らしが良く、晴れた日は海峡とそこにかかる橋がよく見える隠れスポットだった。

 今日は霧に覆われていて辺りの様子は全く見えない。その中で一瞬人影のようなものが見えた。

 それは自分が彼女と会いたいが故、幻覚でも見ているのかというぐらい曖昧な存在に感じられた。しかしその声は力強く、そこに彼女がいることを証明していた。

 宙樹はどこか邪魔をしてはいけないような気がして、しばらく後ろで彼女の歌を黙って聞いていた。

 すると突然歌語が止まったのでそちらへ駆け寄ってみると、女性は声を張り上げた。


「うぉぉぉぉおおおおおお!!」


 華奢な見た目からは想像がつかないが獣の唸り声のような叫びだった。

 宙樹はその女性に見覚えがあった。カフェバーでいつも隅の席にいるあの人だ。

 驚いた宙樹は後退りした。

 彼女は鋭い目つきで宙樹の顔一瞥した後、無言でその場から去っていった。

 この一瞬の出来事に戸惑っていると足元に何かが落ちているのに宙樹は気づいた。シャボン玉のような石の欠片だった。

 彼女の鞄についていたものだったと気づくのに時間は掛からなかった。


 

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