イリスの正体

「悩み事があるみたいだな。飲み物でも飲んで一息していけ」

 ため息をつく宙樹にマスターが麦茶を差し出す。

「イリスさんって何者なんですか?」

「やっぱりあの子に惚れちまったのか」

「僕にもわからないんです。最初はあの人の私物を弁償しなくてはとか、もしかしたら同じ趣味を持ってるかもしれないとかそんな気持ちで近づきました。でも、彼女の声が忘れられなくて……気がついたら彼女のことをすごく知りたくなって……それってすごく曖昧な感情だなって」

「宙樹は真面目だなー。恋の始まりってそんなもんだよ。特にあの子のミステリアスな所にやられたのは君だけじゃない。でも、あの子狙うなら色々覚悟が必要だからな」

 マスターは静かに語り始めた。

「あの子は母親を亡くしてるんだ。元々母親と二人で暮らしていたんだが、まあ……複雑な家庭でね。父親は暴力振るう酒飲みですぐに離婚、訳あって働けない母と病弱な娘で暮らしてたんだ」

「そんな事情が……」

「生活保護と娘の少ない稼ぎで暮らしてたんだが、ご近所さんとも交流できなくて有る事無い事噂されてたんだよ」

「周りの人は何もしなかったんですか……!?」

「この街じゃみんな余裕がないんだ。俺も出来るだけの事はしたつもりだったが、個人の力じゃどうにもできなかった」

 宙樹はこの街の残酷さを改めて知らされ、自分の無力さも痛感した。

 マスターは視線を彼女がいつも座る席に移した。

「一時期身なりのいい男と一緒に来ていたことがあったんだよ。多分どっかのお偉いさんだったんだろう。その時はあの子も笑ってることが多くて顔も丸かった。その後も何人かの男を連れてきたことがあって、一ヶ月ごとに入れ替わってた。ある日突然一人で来るようになったんだがな。顔は以前より痩せていたが、なんだか憑き物が落ちたような穏やかな顔になっていたよ」

 その言葉で何も気づかない程、宙樹も子供ではなかった。時には生きる為には時に強者について行くのも必要だ。しかしそれは自分を犠牲にすることでもある。

 そんな彼女のことを思い胸が痛くなった。

「まあ俺が言いたいのは……大人でも助けられなかったあの子を君がちゃんと背負っていけるのか、って事だ」

 宙樹はどこまでも他人事のように話すマスターに対して酷い怒りが湧いてきたが、かといって自分が同じ立場ならこの身をすり減らしてでも彼女を救うことができるのかと言われれば何も答えられなかった。

「まあでも、宙樹と会ってからイリスの評判はちょっとずつ良くなってきてるんだよな」

「そうなんですか?」

「俺が聞いてもわかる。声に心からの叫びって言うの? なんというか人間らしさが出てきてるんだよ。それ程君があの子の心を動かしたってことだよ」

 

 日曜日、二人はいつものようにどこかへ出掛けることもなく東屋から水平線を眺めていた。昼間で休日であるにも関わらず、相変わらず人は少なく、一時間に一人が二人通り過ぎる程度だった。

 イリスはぬいぐるみを抱いて時々うたた寝をしていたが、口からは微かに声が漏れていた。

「お母さん。今日は快晴だね。橋がよく見えるよ」

 宙樹は最初に出会った時のように少し後ろから見守ることにした。

 イリスは寝言だとも独り言だとも言えるような静かな声で水平線に向かって呟いていた。

「お母さん……いつか言ったよね。あたしもあんたも生きてる価値がない。間違って生まれた子だって」

 イリスは宙樹のいる方向へ振り返った

「……本当にそうなのかな?」

 彼女はこの母の言葉を否定してほしいとも肯定してほしいとも言っているように見えた。

「それはわからない。全ての人間は存在が不確かなまま生まれてきたんじゃないかな」

 宙樹は自分でも何を言っているのかわからなくなった。

 イリスはゆっくり微笑んだ。その儚げな表情が、宙樹は好きでありながら嫌いでもあった。

「人間って馬鹿だよね。愛なんて見えないものに縋りついて。それさえ手に入ればなんでも出来ると思ってるの。それを信じて母も私も全てを失った。残ったのは余計な命だけ。本当馬鹿だよ」

「生きてる限り命は無駄ではないよ! それに、まだ僕がいる!」

 イリスから乾いた笑いが出た。

「私は母を殺したの。そういう人間といていいと思ってるの?」

「マスターは濁流に飲み込まれて亡くなったと……」

「あのおっさん……また余計なことをベラベラと……」

 イリスはぬいぐるみを撫でながら苦しそうに話した。

「自分は必死で助けようとしたけど手遅れだった、だから仕方なかったんだってずっと思い込むようにしてた。けれど同時にこのまま母が死ねば自由になれるって考えが薄っすら過ってしまったの」

「だけどあの時は酷い大雨でどちらにせよ助からなかったって」

 宙樹がなんとか慰めようとすると、イリスはあの獣の唸り声で「私のせいなの!」と叫んだ。

「……あの時の母さんの顔、ずっと覚えてる。最初は助けて恐いと叫んでいたけど、最期には微笑んでた。毎晩毎晩母が夢に出てきてよく眠れないの……なのに今でもどこかで母が死んで楽になったと思ってる。そんなの自分の意思で母を死なせたようなものじゃない!」

 イリスは東家のベンチになだれ込むように座り、生気のない声で言った。

「さて、もう全部話したわ。警察に通報するなり親不孝だと罵倒するなりすればいい」

 宙樹は自分の手を優しくイリスの手と重ね合わせた。

「そんなに自分を虐めないで」

「何のつもりなの!?」

 イリスは驚いて反射的に宙樹の体をつっぱねた。

 宙樹は何かを考えた後、口を開いた。

「少しだけ自分の話をしてもいいかな」

 イリスはベンチにすわったまま海の方を眺め、宙樹からは背を向けていた。

「母は僕が十二歳の時に亡くなったんだ。父が厳しい人で心労が祟ったんだろう。父が僕に期待してくれているのはそれほど信頼されているというのは分かっていた。でも自分の意にそぐわない行動をすると母を怒鳴りつけた。お前の教育が悪いからだって。僕も幼い頃はよく殴られたよ。それ以外の事でも父が気に食わないことがあると母に皺寄せがいった。」

 宙樹はこんなところで彼女と共通点を見出したくなかったと強く拳を握りしめた。

「……僕のせいで母さんがこんな目に遭うんだって……そう考えていたので父に気に入られるように必死になった。それでも母は僕を一切咎めずあなたは将来素敵な大人になるから無理をしないでと抱きしめてくれた」

「それでなんなの?」

「今度は僕が愛情を注ぐ番だ。今は嘘だと思ってくれてもいい。けれど初めて心から愛を与えたいと思う人ができたんだ。その人の為なら……生きていけると思えるようになった……!」

 宙樹の頬に大きな涙が流れ落ちていく。

「だからあなたにも生きていてほしい。あなたを必要とする人はこの世界にいる」

「本当にキツイこと言うのね。あなたは……あなたにとっての明日は私にとっての残酷な朝の始まりなのに」

 イリスの目尻にも大きな滴が溜まり始めていた。

「それに、男の涙で同情を誘うなんてずるいわ」

イリスは花を宙樹の胸ポケットに刺した。白色の菖蒲だ。

「私の名前……加瀬かせ彩芽あやめ。彩度の彩に芽吹きの芽」

「彩芽さん……素敵な名前だ」

「結構気に入ってるの。この名前」

 イリスは宙樹に初めて心からの笑顔を見せた。

 宙樹はその表情が一番好きだと思った。そうしてチノパンのポケットの中から石のかけらを出した。

「これ、レインボークォーツって言うんですよね」

「まだ持ってたんだそれ」

「ヒビが入ることによって光が屈折して虹ができる……面白い石だね」

「この石、実は千円ぐらいなの。ずっと小さい頃、母にお祭りの屋台で売ってたものを買ってもらった安物」

 千円、という値段には心当たりがあった。軽食屋で頼んだメニュー二人分の値段だ。

「最初はあなたの事をどうにも虫が好かない奴だと思ってて……それであんな嘘吐いちゃった。ごめんね。もういらないからそれは捨てるなりなんなり好きにして」

「では、あなたの持っているもう半分も貰ってもいいかな?」

 物好きな人だと苦笑いしながら彩芽はキーホルダーの残っていた部分を渡した。

 宙樹はなにかとても大切な書類でも扱うかのように柔らかい布に包んでリュックサックの中にしまった。

 

 彩芽は何かを決意したように真っ直ぐな目を宙樹に向けて言った。

「好きとか幸せにするとか簡単に言う人は嫌い。愛とか幸せなんてものを信じるのなら、五年後ここに来て。迎えに行く……かも」

「五年後と言わずに毎日来るよ」

「だめよ。あなたは若くて賢い。だから力を溜めてるだけなのは勿体無い。学校も卒業して、あなたのやりたいことをやり切るのよ」


 そうして彼女は海に向かって歌い始めた。




 ここは輝く夢の街 


 けれど俺たちが浴びるのは


 光じゃなくて 煤なのさ


 それでも日はまた登る 息をしている限り




 透明感のあるソプラノの声が街中に響いた。

 宙樹は一番好きな人が一番好きな歌を歌っていたこの日を一生忘れることはなかった。

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