懐胎
少年が横たわっている。
ここがどこだか彼にはわからない。眼前にはゆるやかな曲線を描くコンクリートの壁がある。
床は冷たく背に沿っている。足元には大きく穴が空き、水が流れているのが見える。
音がする。雨の音だ。壁を叩く音がする。風も吹いているが、吹き込んでくる様子はない。
少年は微かに震えている。彼は服を着ておらず、裸体を外気に晒している。
彼の四肢は細く、乾いている。節が目立ち、あとは骨と皮ばかりだ。人の造形をしているのに、影はあまりに人から遠い。
少年の傍らには肉塊がある。彼の背より大きなそれは、歪に丸く、無数の血管が浮いている。
その塊は微かに収縮し、肥大する。
肉塊の根元には薄い何かがある。それも人の形をしている。少年よりも細く色もなく、風が一陣吹き込むだけで霧散してしまいそうな気配がある。それは肉塊の皮が剥けた残り滓のようにも見える。肉塊にへばりつき、潰されるのをかろうじて免れている。
「寒くない」
誰かが言う。その声はかすれて風に混じり、性別もわからない。
「もっと近くにきて」
また誰かが言う。少年のほうがそれを受けてずるずると体を動かす。
彼は肉塊の下の搾り滓のようなものに近づき、体を重ねる。根元の体積が倍になり、二つの皮が重なったことで、少年の震えは幾分か収まる。
肉塊はゆっくりと収縮し、肥大する。それに合わせて彼らの体も揺れている。彼らの呼吸と肉塊の脈動は、いつしかぴったりと重なる。
「いいの」
誰かが言う。それは肉塊が発したようにも聞こえる。
「いいよ」
誰かが答える。
肉塊は熟れている。この空間もしけっている。外の水によるものとは違う、もったりとした甘い湿気だ。しかし少年と彼の隣にあるものだけは、酷く乾いている。
少年は隣の人型に腕を回す。彼の腹と人型の背がますます隙間なく密着する。
「ごめんね」
人型が言う。それは少女の声だ。頭皮から伸びる髪は黒く長い。
「いいよ」
少年が言う。ほとんど空気だけの音だった。
肉塊が激しく蠢く。それは胎動している。少女の腹だけが異常に膨らみ、何かの訪れを告げている。
「きみのおかげ」
少女の言葉に少年は答えなかった。代わりに腕に気持ちばかりの力を込める。
少女の気配が薄くなっていくのを感じる。そのうちすべてが肉塊に吸われ、本当の搾り滓になるのかもしれない。
「もういっかい、する?」
少年は笑う。そうしたつもりだったが、妙な息が肺から出ただけだった。周囲のあまったるくて重い空気はすでに彼の全身を満たしていて、呼吸すら思うようにいかない。
首を振ると、少女は「そっか」と呟く。
「どんな言葉をかけたら、きみが喜ぶのかわからないんだ」
少年は目をつぶり、額を少女の後頭部につける。彼に動かせる部位はもはやそう多くない。思考が伝わることを願って――彼女にはそんな能力はないのに――彼は心に思い浮かべる。
彼女に救われたこと。彼女が好きなこと。
何も言わなくていい。ただそばにいるだけで――彼女が“終わり”に自分といてくれるだけで嬉しいこと。
伝わったはずはないのに、彼女は何も言わなくなった。
肉塊の動きが激しくなる。それは時おり彼らを押しつぶす。少年はともかく少女のほうは明らかに一部が潰れていたが――その表情に苦痛はなかった。少女は目をつぶり、口元にうっすらと笑みすら浮かべながら、背後の少年に身を委ねていた。
少年からは何もわからなかった――彼女が生きているかどうかすらも。肉塊の動きは激しくなり、少女を強く揺さぶった。彼女はされるがままだった。それが彼女が生きているがゆえのものなのか、彼にはわからなかった。少女について少年は何も知らなかった。
もとより薄弱になっていた少年の思考は、肉塊の激しい律動で徐々に麻痺していく。彼は彼女と同じに目を閉じた。律動に身をまかせ、ただ少女の乾いた体を抱く。
彼の脳裏には宇宙がある。やがて彼はそこへ行く。彼女と共に。広大な宇宙を漂いながら、次の星を探すのだ。
突然、液体が降ってきた。
雨ではない。ここは囲まれているのだから。
少年が視線を上げると、肉塊がしぼんでいる。腕の中の少女は微動だにしない。彼女に視線を移す前に、肉塊から起きあがるものが、少年の目を奪う。
そのおぞましい存在は、彼の意識をたちまち奪っていった。
名前のない彼女たち 5z/mez @5zmezchan
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