小さな恋のメモリー

 ふたりの少年少女が森の中を駆けている。

 我が物顔で遊び転げる彼らは、近くの村に住んでいるこどもたちだ。同じ歳で、親同士の仲もよく、お互い惹かれあってもいる。ふたりは草を踏みしめ、木々の間を周り、おかしいことなど何もないのに、瞳を交わして笑い合う。彼らの言葉を遮るのは葉の擦れ合う音だけだ。

 彼らは森に探検をしにきている。近ごろ大人たちはピリピリして「森に近づくな」と言うからだ。どうやら不審な人物が近くに現れ、それを警戒しているらしい。

 少年は「気にすることない」と笑う。「狼のほうがよほど怖いよ」と。

 少女も頷く。「一緒なら怖くない」と言うと、少年は耳を赤くして「任せとけ」と胸を張る。

 探検はすぐに名目だけのものになる。森は村民の庭のようなもので、それは彼らにとっても同様だった。ふたりはすぐにお互いの世界に埋没する。なんてことのない話をし、戯れに飛びかかっては地面を転がる。

 そうしているうちに、少年が声をあげる。「誰かいる」と言う言葉に少女は身を固くする。彼の視線の先を見ると、前方の草むらに確かに影のようなものがある。

 今は、森に入ってはいけないことになっている。よいこどもたちは、大人のいいつけを守って森には入らない。大人たちであれば、森にいるこどもたちを見たら怒り心頭で外に連れ出すだろう。

 影は微動だにしない。

「ねえ行こうよ」

 少年の腕を引きながら、少女は小さく言う。少年はじっと影を睨みつけている。

「行こうってば」

 すると、草むらからぬっと影が出てくる。ふたりは体を強張らせる。

 すらっと伸びた人影は女の人のものだった。シルエットは柔らかく、髪はとても長かった。

 人――それも女だとわかって、ふたりはわずかに緊張を解く。彼女は長いコートを着ていて、下から細長い足が出ていた。幽霊でもない。

「ねえ……」

 しかしまだ少女は不安で、帰りたいという意思を袖を引いて示した。少年はそれに気づいてはいたが、影が女性であったことで、少しばかり気が大きくなっていた。

「何か困ってるのかもしれないだろ。道に迷っているのかも」

 少年はそう言うと女性に近づいていく。「どうかしたんですか」と尋ねながら。女性は小さく頷く。

 そうしてふたりの手が届く距離になったあたりで、女性は少年を引き倒した。

 少年は地面に倒れ咳き込んでいる。少女はそれを見ていたが、動くことができなかった。

 不審者。近ごろ話題になっていたそれが、こどもにいたずらをする人間だということを、ふたりは知らなかった。こどもたちを遠ざけるため、なるべく詳細を伏せていたのが災いしたのだ。

 そして、ふたりとも不審者を男だと思い込んでいた。だから少年は不用意に近づいたし、少女は彼が危害を加えられているのを見てなお、女性と不審者とを結びつけることができなかった。

 少女の足は動かなかった。逃げなければいけない。そう頭は叫んでいるのに、彼を置いていくこと、途中で捕まることを思うと、恐怖で足がすくみあがった。

 少年が叫んでいる。女は彼の服を剥ぎ取り、肉に顔を埋めている。少年の悲鳴に甲高いものが混じる。

 どのくらいの時間が経っただろう。ばたついていた少年の手足は動かなくなり、食いしばった歯の間から漏れる泣き声が、ときおり吹く風の合間をぬって聞こえてくる。少年を組み伏せた女は、彼にまたがって何度も体重をかける。彼女が尻で少年を押しつぶすたび、泣き声にわずかに力がこもる。

 女はずっと口を動かしている。優しげな声色で撫でるように話しているかと思えば、突然声を荒げて少年の頬を打つ。少女のところまで内容が届くのは荒い口調のときだけだ。

 肉の塊を見ていると、そのうち思考がぼやけてくる。俯いて積もる草葉を視界に入れ、現実から逃れようとする。しかし女の鋭い声が聞こえると、少女は音のほうをみてしまう。そして再び肉塊を見る。

 女が身をかがめ、長い髪が少年の頭を覆い隠す。それと前後して彼の手足が一二度上下に振れ、少年は大きくうめく。彼は動かなくなり、合わせて声もぱたりと聞こえなくなる。

 女は素早く立ち上がり、コートを羽織って、前をかき合わせる。それを見て、女がもともとは服を着た人間だったのだということを少女は思い出す。女は少年と――それから少女を一瞥して走り去っていく。彼女の姿が完全に見えなくなり、葉擦れの音以外何も聞こえなくなってようやく、少女は立ち上がる。少年はまだ動かない。

 彼は虚ろな目をしている。息はあって、胸は薄く上下に動いている。着物はすべて剥ぎ取られ、肩口や胸、首筋にはいくつもの歯形が残っている。そのうちのいくつかは血が滲んでいる。下半身から股の間の草葉までは、ぐっしょりと濡れている。

 少女がそばに来ても、少年は反応を示さない。視線は合わず、濁った目は空を見つめている。

 ぐったりとして、魂が抜けたようになっている少年のそばで、少女はしゃがみ込む。

 心臓が鳴っている。風の音も、葉擦れの音も、少年の細い呼吸も――すべてかき消して、少女の小さな心臓だけが、どくどくと鳴っている。

「――いいんだろ?」

 瞬間、少年の焦点が合う。少女を捕らえた目は揺れている。四肢にまで意思が戻り、後退しようと――少女から遠ざかろうとする仕草を示す。しかし力は入らず、それは叶わない。

「本当は気持ちいいんだろ」「正直に言え」「そんなに泣いたって×××は勃ってるじゃないか」「結局お前は抗えないんだよ」「意志の弱いクズ男」「どうしようもない腐れ×××!」

 少年の歯が小さく鳴り、その音はだんだんと大きくなる。涙の跡が残る目元に新しい雫が浮かぶ。少年は起きあがろうと手足に力を込める。しかしそこに芯はなく、生まれたての鹿のようにぶるぶると震える。

 少女は少年の頬を打つ。力はまるで入っていなかったが、少年の手足はそれで簡単に折れ、彼は再び背をつく。

 少年は両腕で顔を隠して泣き始める。その声は今までのものとよく似ている。

 少女は彼が可哀想になる。そして、さっきの女はひどいことをする、と思う。

 彼はこんなに苦しんでいるのに。

 少女は彼の腕に触れる。泣き声はますます大きくなる。

 彼女がそれ以上何かする間もなく、大人たちがやってくる。ふたりは村に連れ帰られ、別々に話を聞かれる。

 間も開かず少年の家は引っ越していき、彼女の家もそれに続くことになる。ふたりは最後まで同情の視線を向けられる。少女は少年のことを気にしている。しかし少年は、けっして彼女と会おうとはしない。

 少年の家が引っ越す日、少女は見送りに行く。暗い顔で車に乗る少年は、彼女と目が合うと奥へと引っ込んでしまう。少女は構わず車へと寄っていく。気を利かせた父親が、窓を開けてくれる。

「元気でね」「また会おうね」

 返事は返ってこない。父親が少年を咎め、母親がそれを宥める。

「大好きだよ」

 思い切って告げた言葉に、彼の両親は嬉しそうで悲しそうな、複雑な反応をする。

 少年は何も言わない。

 去っていく車を見ながら、少女はあの日のことを思い出す。彼はあの日変わってしまった。あの女に魂を抜かれ、抜け殻になってしまった。

 何も見ていない虚ろな目。だらしなく開いた口。真っ赤な目元。涙と涎の跡。白い肌に刻まれた赤い歯形。張り詰めて立ち上がった乳首。薄い胸と腹。小さな性器。内腿を伝う濁った液体。

 ずっとあのままでいてほしい。魂の抜けた体を身綺麗にして、取り繕って――本当は何も残っていないのに、まともなふりをするよりも。あの姿のほうが、よっぽど……。

「×××××」

 名前を呼ばれて少女は顔をあげる。彼女たちももうすぐ村を出ていく。引っ越しの準備をしなければいけない。

 少女は再び少年の去っていったほうを見る。甘やかな気持ちと妙な焦燥が彼女の胸に広がっていく。

 いつかまた『彼』に会いたい。もう一度あの姿を見たい。そうしたら、今度は『私』が――あるべき姿に戻してあげるのだ。

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