薔薇の微笑

 彼女の屈辱は計り知れない。

 異形に変えられ、本来ならば近づくことすら許さない小蝿どもに拘束されることを許したあげく、あの女の寝室のベッドに文字通り『縛りつけられている』。

「……ァ……グ」

 何より彼女のプライドを傷つけているのは、それを行っているのが他ならぬ彼女自身だということだ。

 この部屋に運ばれた後、彼女の体は改めて蔦に変えられ、ベッドの足に括りつけられた。抵抗はしたが異形の体ではどうにもならない。どれだけ試みても固く結ばれた四肢は解けず、無理に力を込めれば千切れんばかりの激痛が走った。

 大の字になった彼女の顔と胴を、魔女は丁寧にも元に戻した。現れた顔は忽ち憎悪に歪む。

「何をする、この――」

「逃げるのが少々遅かったようだな」

 室内には薔薇の匂いが立ち込めていた。魔女のキセルからだ。

 誰のせいで、と言いかけて彼女は口を閉ざした。目の前の女にやり込められ、まさに尻尾を巻いて逃げるところだったのだ――ということを肯定できるほど、気持ちは屈していなかった。

「わたしをどうするつもりだ」

 問いながら思考を巡らせる。彼女はいつでも逃げられるのだ――四肢にかけられた魔法が解けさえすれば。

 彼女は自分を世界一の魔女だと思っていたが、かといって自分以外の魔女が無能だとは思っていなかった。あの女はかなりの齢を重ねている。その魔女に術をかけられた以上、今すぐに、何の道具もなくそれを解くことは難しいだろう。

 魔女は口から紫煙を吐いた。目が意地悪く細められる。彼女の思考を読んだかのようだ。

「逃げても構わんぞ? それが解けるのならな。だが――」

 蔦を何かが駆け抜けた。くすぐったいような、痒いような、不思議な感覚と共に、己の四肢だったものの支配権が他に移ったように彼女は感じた。

「何を――」

「解き終わるまで私が何もしないとは思わないことだ」

 魔女がキセルを振ると、胴に近い部分の蔦が腕のように太くなった。表皮が裂け、割れ目から新たな蔦が飛び出てくる。それは彼女の一部ながら、意思に反して彼女自身の青白い素肌に絡みついた。

「なっ――!」

 彼女の顔が強張る。掴みかかろうとするが、そのための四肢はない。行き場を失った力が蔦を張り、生まれた激痛に彼女は忽ち仰け反った。

 体を這う蔦はそれぞれ異なる動きをした。一本は彼女の拘束を益々強め、一本は艶めかしい動きで皮膚を撫でる。一本は首を締め、残りの一本は胸を搾った。呼吸ができない彼女の目は見開かれ、段々と舌が持ち上がってくる。それを見て魔女はさもおかしそうに笑った。

「あ……が……」

 首の蔦が緩まり、彼女は激しく咳き込んだ。甘い香りが強くなる。

「おぇ……え、げぇ……」

 彼女は自分が酷く弱っていることに気づいた。思えばかなりの時間が経っている。ここにも門の気配はあった――恐らく守護者はこの女だ。だが今の彼女にはどうすることもできない。匂いが強い。むせそうなほどだ。

 目を上げるとすぐそばに魔女の顔があった。少しでも遠ざかろうとベッドに体を押しつけたが、気休めもならなかった。その証拠に魔女は易々と距離を詰める。眼前に広がる膿んだ瞳を、彼女は射殺さんばかりに睨んだ。

「それ以上……近づいてみろ、その鼻を噛み千切ってやる。気取った公爵サマに豚鼻はさぞかしお似合いだろうよ」

 魔女は眉を顰めたが、それは彼女の暴言にではなかった。魔女はいまだ濃い匂いを発するキセルで彼女の口元を押さえた。熱が鋭い痛みを引き起こし、彼女は悲鳴をあげて身をよじった。

「私はな、なにも酷くしたいと思っているわけじゃないんだ。互いに愉しめるなら、それが一番いいと思わないか?」

 最後通告だった。魔女の目は柔和に細められていたが、その奥には冷徹な炎が揺らめいている。これ以上拒絶するなら好きにやると、その瞳は暗にそう言っていた。

 彼女は魔女の顔に唾を吐いた。次いで口を大きく開き、めいっぱい舌を突き出す。噛み切るつもりだった。自力で逃げられないのなら、相手の隙に賭けるしかない。

 だが魔女が機先を制した。体に纏わりついていた蔦のうちの一本がすばやく彼女の舌を捉える。蔦先は彼女の歯を阻み、舌に己を絡めながら口腔内へと沈んでいく。蹂躙する蔦に彼女は歯を立てたが、痛みは彼女自身に帰ってきた。

「ぅむっ――ぉ――!」

 悶絶しながらも彼女は確信した。予想はついていたが――この蔦のおそらくすべてが、己の四肢なのだ。

 自覚した途端、四肢の感覚が彼女に戻ってきた。とはいえ未だ意思の元動かすことはできない。それらは彼女のものだったが、老獪な魔女に支配されていた。

「若い魔女は好きだ。血気があって、傲慢で……歪なかたちが美しい。お前は特に好ましいよ。こうして一緒に過ごす機会ができて、本当に嬉しく思っているんだ」

 濃密な香りの紫煙を吹きかけ、魔女は優美に微笑む。殺意に歯ぎしりする彼女にすら、その艶やかさは薔薇を思わせた。

「だからこそ残念だ。私と共に愉しめないなら……せいぜい私を愉しませてくれ」

 蔦はますます強く胴を締める。どこかの骨が割れた音が脊椎に響いた。

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