1 見てるだけで満足だったんです。ええ、本当に

 高校三年生となれば、受験をひかえる立場たちばだから、夏になれば部活動の引退を考える。七月になった今の時期、美術部の部室には私と水野さんしか居ない。水野さんくらい絵が上手うまければ、きっと美大にだって行けるのだろう。私が部室に居るのは、ただ受験から逃げているだけであった。


 中学では陸上部を辞めて、顧問の先生を失望させて。高校に入っても特技は見つからなくて、良い大学には行けそうもなくて両親を失望させている。それが私である。


 絵を描く事は、これからも趣味として続けていきたい。今、私は部室で、自分の油絵を描きながらもチラチラと水野さんの方を見ている。私は彼女と、まともにお話をした事が無かった。いつも水野さんは怖いくらい真剣で、自分の課題に集中して、部員ともしゃべらずに帰っていく。クラスも違う私は、彼女が教室で、どんな子で居るのかなぁと一人で考えていたものだ。


 私は水野さんの事を何も知らないにひとしい。このまま、まじわらないまま高校生活も終わってしまうのかなぁと思った。いつも水彩画を描いている彼女と、油絵に挑戦している私。『水と油は交わらない』などという言葉が胸の中に浮かんだ。


 何かはなければ良いのかなぁ。きっと友達づくりが上手じょうずな子なら、携帯でのお話やメッセージアプリで、またたに水野さんとの距離をめるのだろう。そんな才覚さいかくは私に無い。逆に言うと、私には何があるのだろうか。水野さんを満足させられるものが思い浮かばない。


 絵も下手へたで知識も無くて、一歩ごとにつまづき続けて前進も出来できない私。挫折ざせつした元・陸上部。高校でも何もられなくて取り残された私は、前を進む水野さんの背中を見送みおくるのが精一杯せいいっぱい。彼女は自分の道を迷いなく進んでいるように私には見えた。なら、私は、彼女の邪魔じゃまをしてはいけない。そういう事だろうと思った。


 こんなに色々と考えていては絵なんか描ける訳もなくて、ふでが止まってしまった。いけない、へんに思われたくない。ううん、変に思われるのは、まだかまわない。きらわれたくない。


貴女あなたなんかが、私の事を好きですって? 笑わせないでよ、近づかないで』


 そう言われて拒絶されたら、たぶん私は一生、立ち直れない。死にいたる失恋というものはあるのだと、私は思う。ゴッホも若い時に失恋をして、そして立ち直れず、不幸な人生を送った。ゴッホのむくわれなかった初恋は二十才の頃で、その時の相手は異性だった。そして晩年、同性である画家のゴーギャンと共同生活をしたけれど、それも破綻はたん。絶望したゴッホは自分の耳を切り落として、それから二年もたない内に自殺である。三十七才だった。


 異性からも同性からも拒絶された人間は、どうやって生きていけば良いのだろう。そんな事を私は考えて、だから安全あんぜんさくとして、これからも水野さんの事は遠くからながめるだけにしようと思っていて。そんなだから、いつのにか、その水野さんが私の背後に立っていた事なんか全くづけなかったのだった。


「ねぇ。さっきから声を掛けているんだけど」

「ひゃい!?」


 はい、と言えなくて変な声がのどから出た。後ろから氷水こおりみずを背中に流し込まれたら、こんな反応をするんだろうなぁという手本みたいな姿の私が居る。立っている彼女の前で、私は腰をかして椅子いすに座ったままだった。


「ななな、何でしょうか。私が何か無礼ぶれいを働いていたら、どうかゆるしていただきたく」


 自分でビックリするくらい卑屈ひくつな口調になった。前世でも私は無名の町娘まちむすめとか、そんなポジションで生きていたのだろう。きっと水野さんは前世では、お殿様とのさまとかなのだろうなぁ。


「そうじゃなくて、絵の話。絵というか、今後の予定の話なんだけどね。それを聞きたくて」


 絵の話? 予定の話? 私の絵がひどすぎるから、今すぐ荷物をまとめて視界から消えてほしいとか、そういう事を言われるに違いない。そう思って画材などを片付かたづける準備に入ろうとしていたら、水野さんは説明を続けてくれた。


「ほら、もうすぐ夏休みでしょう。だからさ……良かったら、私の家に来て、一緒に描かない?」

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