第11話

 まだ夜が続くなか、彼は一人静かに心を休めていた。普段通りに過ごしていても負荷はじわじわと顔を覗かせてくる、定期的に心の瞼を閉じる必要があった。

 然しふっと殺意が背後から来て振り向いた。障子を突き破ってきたのはアマテラス。仮面の下にある口は絶叫し、腕を伸ばしてきた。

 リラックスしているお蔭で余裕があり、手を前につくと片足を後ろへと蹴った。どんっとアマテラスの腹に直撃する、低い呻き声が漏れて床に転がった。

 近くには牛頭馬頭とヤミーがおり、騒ぎを聞きつけてやってきた。ヤミーが倒れて呻いている彼女に触ろうとしたのを引き止めた。

「近づくな。恐らくだが錯乱している」

 兄の言葉に身を退く。アマテラスはスサノオと違い肉弾戦に長けた者ではない。その為軽く蹴ったはずの腹をいつまでも抱え、苦痛に喘いでいた。

「イザナミを呼んでこい。我を覚ましたのだから知っているはずだ」

 牛頭馬頭に言いつけ腰をあげた。苦しみながらも右手を伸ばしており、何かぶつぶつと呟いていた。殺してやるだの、お前らのせいだだの、まさしく全てが仇に見えているような言動を永遠と繰り返した。

 程なくしてイザナミがやってきた。娘の様子を見下し閻魔に告げる。

『気絶させれば良いが、私の力では殺す事になる。お前は出来るだろう』

 一切焦る気配のない声音にかぶりを振った。子供らを叱る時にしか手加減をせず、それしか経験がない。百かゼロかの選択肢しか彼にはないのだ、実際かなり力を弱めた一撃でこの有様なのだから無理がある。

 勿論牛頭馬頭も無理だと言った。人間の姿に化けているだけで力はかなりのものだ。それに彼らは手加減をした事がない。恐らくイザナミと同じように殺してしまうと続けた。

『ではヤミー、お前はどうだ』

 ふっと首の断面が彼女に向いた。この場にいる全員が無理なら、他の者を叩き起こしてでもやらせよう。そうでないと痛みが和らいでまた襲いかかってくる。もしアマテラスが力を使ったら、例え閻魔やイザナミでも溶けてしまう。

「死を操ればそのギリギリまで引っ張れる事は出来るけれど、そう簡単には目覚めないわよ?」

 窺うように閻魔とイザナミを見た。

『構わん。一度気絶すれば錯乱は治まる。もう一度ならんとは言えないが』

 アマテラスが痛みのなか起き上がろうとしているのを誰よりも先に感じ取り、ぐっと前脚を乗せて押さえつけた。大きな狼の脚にじたばたと動き、声を挙げている。とても上品でどこか不思議な女神には見えなかった。

「じゃ、じゃあ」

 ヤミーはアマテラスを見つめて集中した。すると眼の模様が変わる。不可思議な模様で、まるで魂が水槽のなかで泳いでいるようだ。

 するとみるみるうちに彼女の勢いが衰えていった。手足は力を無くしてゆく、声もハリがなくなり、いつしか呂律が回らなくなった。イザナミは閻魔に指示を出し、彼女の顔を隠している仮面を取ってやった。

 見えたのは眼を見開いた姿。ヤミーに映る模様と全く同じで、こちらは色濃くハッキリと見えていた。ぐるぐるぐると自分の尾を追いかける犬のように回り、すとんっと落ちた。

 気絶したのだと判断出来た。イザナミは脚を退け、布団のあるところに運ぶように言った。

 瞼を閉じた彼女の傍にヤミーが座り、閻魔が立ったまま見下し、牛頭馬頭は廊下の方で待っていた。

「死という名の魂を操ったから、場合によっては本当にそのまま抜き取られてしまうかも知れないの。だから暫く私が見ておくわ。例えそうなっても戻せるのは私だけだから」

 青い瞳に肯き廊下に出た。イザナミは既に自室へ戻っており、すやすやと眠っていた。

「大丈夫なのでしょうか」

 部屋に戻りながら馬頭が呟いた。

「分からんが、父も弟も殺されたのだからそれなりの負荷がかかっているはずだ。目覚めても暫くは見張っておく必要があるだろう」

 側近の不安に答え、部屋に戻るとまた精神を休めた。数日後、アマテラスが眼を覚ました。黄金にも似た黄色の瞳を左右に動かし、少し割れた唇を動かした。

「私は、」

 傍にはヤミーと閻魔が座っており、後々イザナミも様子を見に来るという。一先ず状況を伝えた。

 聞いたアマテラスは重たい身体を起こしてまで、土下座をしてみせた。ヤミーが手を添えてやるが、四肢はしっかりとしている。

「申し訳ございません。私が弱いばっかりに」

 嚙み締めた声に袖のなかで腕を組んだ。

「何を言う。我もなったのだから、弱いも強いも関係ない。それより、また同じ事が起こらないとも限らないから、暫くのあいだお前にはヤミーがついている事になる。分かったな」

 殆ど有無を言わさぬ声音に彼女は顔をあげ、小さくはいと返事した。用が済んだ為立ち上がる。

「あの、」

 大きめに声をかけて呼び止めた。振り返る事はなかったが立ち止まってくれた。

「もし、次に錯乱する事があったら、その時は遠慮せず殺してくださいまし。私はそちらの方が気が楽なのでございます」

 胸に手を当てて切実に告げた。閻魔は「二言はないな」と訊いた。

「ございません」

 手を離し、正面から背中を見上げた。少し振り向いてアマテラスを一瞥すると立ち去った。それからまた二日程時を過ごした頃、一人の男が神宮にやってきた。

 カグツチの襲来を受け、あの日から神宮は結界で守られている。然も仏のものを更に神が覆っており、二重の結界が外敵を拒んでいる。そんななか、階段をあがってきた男は軽く見上げた。

 筋骨隆々とした大柄な身体に金髪を靡かせ、前に進んだ。結界がばちんっと反応する、然し彼を受け入れたのかすうっと静かになった。

「大王、異国の神らしき人物が」

 どたどたと足音煩くやってきたと思えば、馬頭が片膝をつけてそう言った。瞼をあげる。

「どこから来たか尋ねたのか」

 警戒態勢を敷いている為、牛頭馬頭以外は表に出てこない。馬頭は声音をそのままに答えた。

「北欧神話だと答えておりました。今牛頭が引き止めている最中でございます」

 閻魔はとんとんっと人差し指で膝を叩き、立ち上がった。直接会って話をすると言い、彼のあとについて行った。

 本殿前には赤い服に身を包んだ男がいた。牛頭と並んでも大差がない程大男で、閻魔など細く見えた。

「君がここのリーダーか」

 男は見た目に似合わず紳士的な声を発した。眉根に皺を寄せ、世の中に不満があるような顔つきだが雰囲気は静かなものだった。

「ああ、名はなんと言う」

「トールだ。北欧神話の雷神で、オーディンを父に持つ」

 オーディンという名前に少し納得した。偉大で威風堂々とした佇まいだ、それなりの地位にいる神だと感じていた。閻魔は牛頭馬頭に軽く指示を出し、トールを神宮内に案内した。

 呼ばれたイザナミが彼の隣に座る。トールは二人を見て疑問を呈した。

「日本の宗教はどちらだ?」

 片眉をあげる男に閻魔が答えた。

「イザナミの方だ。我ら仏教は後から伝わったもの、とは言えかなり古い時代からだから根付いてはいる」

 トールは微妙に分かっていない表情でとりあえず肯いた。

「それで、どうしてこちらに?」

 本題に入る。外には牛頭馬頭が控えており、トールもそれを感じ取っていた。

「北欧神話はロキのせいでかなり乱されていてな、父、オーディンによって纏められてはいるがフェンリルやヨルムンガンドが邪魔をしてきて、散り散りになってしまっているのだ。それで私は噂を聞きつけ、一番近いここにやってきたというわけだ」

「そのロキというのは悪魔や妖怪を纏めている者と同一の者か」

「そうだ。神々にあだなす連中を集め、戦争を起こそうとしている。我々北欧神話にはラグナロクという、最終戦争がありどの世界観でも共通して存在するものだ」

 ラグナロクという単語を小さく繰り返した。イザナミが口を開く。

『ここ何週間も静かなのは、ロキという者が戦争への準備を進めているからなのか』

 不思議な響き方をする声に軽く背筋を伸ばし、ああと肯いた。

「我々北欧神話の神々に集中していたせいもあるだろう」

 沈黙が流れる。次は閻魔が訊いた。

「ではそのラグナロクとやらに備えればいい、という事か」

 トールは肯いた。断言する。

「殆どの怪物や邪神はロキが取り込んだ。もう彼らが一斉に仕掛けてこない限り、我々に危険はない」

 閻魔は袖のなかで腕を組み、イザナミは尻尾を揺らした。

「分かった。トール、お前がここを選んだのもそれを伝える為だったのだろう。もし戦争中にお前が危機に陥ったら、我々日本の者が手助けしてやる」

 ほぼ同時刻、トールと同じように散り散りにされた北欧神話の神々が、キリストやエジプト、アステカなど各国、各神話の元に訪れ、似たような事を告げた。それにより殆どの神仏、神獣、妖怪、天使などはラグナロクの存在を認知し、誰もがそれに向けて動き出した。

「これでどうなるか」

 空のうえには宇宙が広がっており、数え切れない程の大きさを誇る邪神共が見下していた。ロキに悪知恵を吹き込んだのもこれらのせいだ。クトゥルフはさぞ楽しそうに眼元を歪めた。

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