第7話

 神宮の正門に金剛力士の二人が突っ立っていた。仁王とも呼ばれる守護神だ。彼らは遠くの方まで睨みつけるようにして見つめていた。ふと妙な影が横切る。

 元々深い皺を更に増やして注視する。片割れに声をかけた。

「吽形、何かいないか」

 同じように眼を凝らして首を伸ばした。するとその首が落ちた。まるで支えをなくしたボールのように、音もなく滑り落ちた。

 阿形が気が付いたのはどさりという音だった。名を呼びながら視線をやると、そこには首無し死体があった。はっと息を吸いこんだ。

 片割れを抱え上げるよりも先に、守護神としての使命が身体を動かした。両手を合わせて結界を張ろうとした。だが掌が触れ合う前に首の断面がずれた。どさりと崩れ落ちる。

「?」

 異変に感づいたのは閻魔大王だけだ。死の世界に入りびたり、自身もまた死と同居している身だからこそ、誰かの死には敏感だった。

「兄さん?」

 ヤミーが眼を擦りながら問いかけた。こちらは兄の差異に敏感なだけの、少し狂った妹だ。閻魔は掌を見せて立ち上がった。

 ふわりと死の気配が漂ってくる。暗く重々しい、肌に纏わりつくような気配だ。だが同時に焦げ付いた独特な匂いが鼻腔を刺激した。

「ヤミーはここで待っていろ。イザナギに伝えてくる」

 言いながら早足に立ち去った。どたどたと足音煩く廊下を行き、イザナギがいるであろう部屋に踏み入った。思わぬ来客に驚き、「そんなに慌てて、しょんべんならあっちでしろ」と適当な事を言った。

 然しその言葉に返すつもりはなく、自身が感じ取った事を伝えた。男の顔に影が射す。傍で伏せているイザナミの身体を軽く叩いた。

「どこから感じたか分かるか」

 立ち上がって問いかける。閻魔は正門の方を指した。

「どちらも向こうの方からだ。仁王が殺されたとなれば、それなりの強者だろう」

 太陽光を背にしているせいか、彼の両目はいつもより鋭く見えた。イザナギは固唾を飲み込み、閻魔とイザナミだけを連れて正門に向かった。

 血を流して倒れている二人を見て固まった。閻魔は慣れているのか否か、首の断面を見ると状態を告げた。

「かなり綺麗に切られているな。暴れた様子もないし、気付かれずに切ったのだろう」

 そうなれば、強者だなんて容易い言葉では言い表せなくなる。金剛力士は仏を守る神だ、そう簡単にやられる者ではない。この世界に呼び出された者なら尚更だろう。

「一先ず事態を告げた方がいい」

 彼の言葉通り、現状分かっている事をみなに伝えた。特に仏教側の神仏達が驚愕を見せ、不安が一斉に広がった。

 下手に単独行動をすれば狩られるだろう、その為動く事を禁じた。また結界を張れる者は既に張っておくように言い伝えた。

「閻魔、お前も動かない方がいい」

 神々が見えない脅威におののいているなか、イザナギは小声で彼を呼び止めた。何も言わず静かに姿を消そうとしていたからだ。いつもの強気な眼つきではなく、弱っているように見えた。閻魔は彼の手を払い一人で行くのをやめた。

「もし相手が見えない奴だったら、こうして固まっていても意味はないだろうな」

 怯える事も身の危険を感じる事もない。平然とした横顔に眉根を寄せ、軽く反論した。

「それでもこれだけの神仏が同じ所にいるんだ。そんな簡単に手だし出来る程相手は馬鹿じゃねえと思ってる」

 焦燥感混じりの声にイザナギを一瞥し、気配を探った。幾ら姿を消していても殺意や敵意というのはなかなか消えない。天邪鬼のような面倒な力を持っているのなら話は別だが。

 その時、ふっと焦げ付いた臭いが鼻先を掠った。ぴくりと眉毛が動く。刹那。

 ぶしゅうっと血の噴水が湧きおこった。全員の視線がそれに注目する。やられたのはアメノウズメという芸能の神だ。岩に隠れたアマテラスを誘いだした女神であり、この世界では友のように仲を深めていた。

「いや!」

 首を搔き切られており、手で押さえても布をあてがっても絶え間なく吹き出してくる。アマテラスは膝をついて必死に血を止めようとした。然しかなりの深手を負っているのか、程なくして瞳から魂が抜けていった。

 相手はこのなかにいる。そしてアメノウズメは内側の方にいた。誰にも触れず、悟られずに深手を負わせたという事だ。周りが騒然とするなか、閻魔だけは変わらないでいた。

「ねえ兄さん、これ」

「黙れ」

 突き放すような低い声にヤミーは押し黙った。だが勿論、彼女の反応や表情なんて気にしていない。ただひたすらに相手の輪郭を掴もうとしていた。

 するとまた、ふっと焦げ付いた臭いが漂ってきた。今度は先程よりも近い、至近距離で煙を浴びているような濃度に身体が反応した。

 気が付いたら右手で腕を掴み、左手で首を掴みながら地面に倒していた。周りが気付いたのは閻魔が一呼吸吐いてからだった。

 押さえられているのは一人の青年だ。だが髪は赤く、全身に炎の絵が描かれてあった。言葉を発したのはイザナギだった。

「こいつは……カグツチじゃねえか」

 心底驚いた声に閻魔は眉根を寄せ、青年を見下した。彼が掴んでいる腕の先に短刀を握り締めており、赤い鮮血がこれでもかとへばりついていた。

「お前は殺したはずだぞ」

 信じられないと言いたげな声で呟く。カグツチは顔を顰めながらも父を睨みつけた。

「殺したのはにせもんだよ。間抜けが」

 憎々しい忌々しい声音で吐き捨てる。イザナギは口を噤んで冷たく見下した。

「間抜けなのはお前だ。閻魔、そのまま殺してやれ」

 カグツチの眼が彼に向く。だが単純作業をこなす囚人のように表情一つ変えず、持っている腕を反対側に倒した。ばきんっと骨が悲鳴をあげ、若人の絶叫が響く。

 アマテラスはアメノウズメの死体を抱え、スサノオとツクヨミが傍にしゃがみ、仏達は念仏を唱えていた。三人の犠牲を出したがこれで脅威は去る、誰もがそう思った。

「クソ野郎が!」

 怒鳴り声と共にごんっと鈍い音がした。カグツチの踵が閻魔のすねを強打したのだ。

 操られたルシファーと同じだ。顔を顰めながらも腕を離さず、寧ろ無理矢理馬乗りになった。間髪入れずに拳を振るう。

 じゅっ

 焦げた臭いと同時に鋭い痛みが走った。本能的に腕を引くと頭突きを食らわせてきた。避けるのは無理だ、なら逆にこちらからぶつけてやればいい。

 鈍い音を響かせながら赤い瞳を睨みつけた。閻魔の口元には強気な笑みが浮かんでいる。

 カグツチの胸ぐらを掴んでイザナギ達から離れた場所に放り投げた。黒い腕を出しながら背中で言いつける。

「結界を狭めてじっとしていろ。援護しにきたら殺す」

 それは脅しと同じだった。身体から沸々と湧き上がる殺意が空気を痺れさせ、誰もが従わざるを得なかった。

 右の拳には焼けた痕があり、微かに火の粉が残っている。地獄の業火よりも強い炎だったが、それでも閻魔は慣れている方だった。

「てめえ一人でやるつもりかよ。馬鹿じゃねえの」

 息子とは正反対の表情。気配は似ているが、こちらも全くの別人だと認識出来た。故に彼は本気になれる、ゆらりとした構えを見せた瞬間、カグツチの頭上に舞い上がっていた。

 太陽光を背にした微笑が煽ってくる。炎の化身は憤怒を露わにした。

 身体を巡る炎の絵が赤熱し四肢の首に火が纏わりつく。口の端からは絶えず水蒸気が揺らめいた。閻魔はとんとんっと跳ぶようにリズムを取った。

 掌を見せた突きが振る舞われる。すっと避けて拳を一発顔面に入れた。素早い軌道にカグツチはもろに喰らい、身体がよろめいた。

 敢えてその隙をスルーし怒りに任せた拳を受け流した。そして顔が近づいたのをいい事に頭突きを食らわせる。先程よりも力を加えたものだ、脳が頭蓋骨のなかで振動した。

 ふらふらと後ずさる様子に一歩二歩と近づいた。ゆっくりと余裕のある歩みだ。刹那、足元が一気に灯る。どろどろの溶岩のように赤く灯る。

 眼を見開き慌てて跳んだ。然しそれを追うように幾つもの火柱が湧き上がる。翼がない以上、脚力での速度以外に上乗せするものがない。

 足先が焼け、思わず声を漏らした。背後に空間があるのを見つけ、空中で回転して回避する。着地したがずきんずきんと神経を蝕んでくる。

 汗が垂れた。カグツチを見上げるととち狂った笑みを浮かべていた。腰をあげ一息吐く。

「やるな、貴様」

 ふっと笑い、ふらっと右に揺れた。瞬間至近距離まで迫っており、幾つもの手が拳を握り締めていた。然しカグツチも構えており、同時に放たれる。

 弾丸が飛び交うのと大差はなく、数の多さで閻魔が有利だった。然し青年の咆哮が轟いた時、ぶつかった拳を耐えたら炎が湧き上がった。

 焼ける感覚に歯を食いしばり黒い腕の一本で髪を掴み上げた。激情に任せて地面に叩きつける。

 息があがる。地獄にいるお蔭で業火や溶岩にはそれなりの耐性があった。実際軽く炎に巻かれても無傷で出てくるような化け物だ。

 然し相手の操る炎は別物だった。触れた箇所がずっと焼かれ続けている。いつまでも残る、それこそ呪いのような炎。

 操られたルシファーと同じ強さだ。それとももうクトゥルフに手を加えられているのだろうか、どちらにせよ死ぬ気でやらなければ意味がない。

 突進してきた炎を避けて一発叩き込む。然しぐいんっと伸びてきて首に巻き付いた。彼さえも傷つける炎が皮膚を焼き、手で掴んでも焼かれる。

とうとう、戦闘狂の絶叫が響いた。きっと彼の強さを知っている者達が見れば、世界滅亡と同等の緊張感と絶望感を味わう事だろう。

 炎の手が緩んだ時、膝が地面についた。結界に守られた神仏達は彼をあまり知らずとも絶望した。ここ暫くで閻魔大王が一番の座につく程強いという事を、肌に感じ取って記憶していたからだ。

「兄さん」

 ヤミーが見えない壁に手をあてて眉を顰めた。身体が疼いて仕方がない。然し殺されるのも嫌だったし、この世にいる兄はしないという保証がなかった。

 カグツチが全身を炎で包み込む。まるで闘牛のようだ、ざっと足裏を鳴らして姿勢を低くする。

 閻魔が殺される、そう誰もが思って声を張り上げ、結界をかけている仏の一人が解いた。

 ヤミーの水が疼きはじめる。

 イザナギの弓が狙いを定める。

 地蔵菩薩の加護が彼を包み始める。

 不動明王の剣が力を貯める。

 イザナミの姿勢が低くなる。

 アマテラスの手中に太陽が集う。

 ツクヨミの翼が羽ばたく。

 スサノオの熱気が空気を支配する。

 千手観音の手が時空に触れる。

 炎に包まれた闘牛が放たれた。

「大王の為に!」

「この命にかえても」

「お守り致す!」

 二人の声が重なった時、闘牛が何かにぶつかった。イザナギが眼を見開き声を荒げる。

「攻撃を中止しろ!」

 裏返った声に慌てて身体を止めた。全員の眼に同じ光景が映る。

「あれは、」

 闘牛を押さえ込んでいるのは馬の頭を持った巨体と牛の頭を持った巨体だった。二人は上裸で直に触れているはずだ。然し一切力を緩めず、突っ張った足は一つも動かなかった。

「牛頭馬頭?」

 なんとか意識を繋ぎ止めた閻魔が呟いた。視界には彼の思う牛頭馬頭の背中が映っている。どちらも女の姿でどちらも彼が育ての親だ。

「大王!」

 牛が活気のある声で呼ぶ。

「このまま我々が抑え炎を弱めます。大王は首のところを狙ってください」

 馬が冷静な声で告げる。

 視界がはっきりとし、二人が男で全く違う牛頭馬頭なのだと気付いた。然し「ああ」と返事をすると立ち上がった。

 腹には大きな火傷の痕が出来ていた。まだじわじわと焼いており、痛みは続いている。だが溢れ出すアドレナリンで誤魔化した。

「次、閻魔が窮地に陥ったら遠慮なく総攻撃を仕掛けるぞ」

 イザナギの言葉に神仏達は肯いた。

「くっそ、邪魔だてめえら」

 忌々しい者に対する怒りと全く同じ声で吐き捨てた。それでも二人は力を緩めず、牛の方はカグツチの頭を小脇に抱えた。

 ぐっと締め付けられ、その反動で炎が弱まって行く。これでは閻魔に首をやられて死んでしまう、気持ちが表現されているのか、炎は弱まる度に一度吹き上がった。

「あと少しだ。気張れよ相棒」

 馬頭が一瞥をやり、牛頭が笑みを浮かべた。

「おうよ!」

 ぐうっと更に力が加わる。カグツチの手がぺちぺちと腕を叩くがびくともしない。また馬の押さえつけもあって身体が軋みだす。遂に炎が消えた。

 閻魔は跳び上がり、首を狙ってかかと落としをお見舞いした。骨が折れ、赤い瞳が上に行く。牛頭馬頭が同時に離すと地面に崩れた。

 無事、カグツチを倒す事が出来た。安堵の空気が神宮内を駆け巡る。

 牛頭馬頭は人間の姿に化けると互いにハイタッチをしてみせた。牛はノリノリな笑顔で馬は仕方なくといった笑みを浮かべていた。

「お前ら、良い援護だったぞ」

 閻魔が褒めてやるとそれぞれ頭をさげた。門番にしては忠誠心が高いように見える、素直に訊いた。

「ああ、俺達実は門番じゃねえんですよ」

 牛頭が軽く手を振って答えた。二メートルを超える巨体は娘らと同じだ。

「私達の世界では大王の補佐官をやっております。門番は不動の阿吽という鬼がおりまして、それに任せてあります」

 馬頭が丁寧な口調で続けた。閻魔は更に訊いた。

「お前らの大王も我と似たような者なのか?」

「いえ、失礼ながら、かなり違います」

 膝をついて視線をなるべく合わせた。牛頭はイザナギらのもとに行っており、社交的に挨拶を交わしていた。

「我らの仕える大王はまず見た目から違いまして、人間の年齢で言えば四、五十代の容姿でございます。また右眼を失っており常に眼帯をつけており、口の周りには呵責による火傷痕がございます」

 身長も二メートル近くあり、力を使った戦闘は出来るが肉弾戦は出来ないとも言った。

「ですが気配からして閻魔大王様だと理解し、こうして飛んできたのでございます。どの世界にいようとも、我らの大王に変わりはありません」

 馬頭は随分と真面目な性格らしく、拳を地面につけて頭を垂れた。反対に牛頭はみなと仲良くなり、いつの間にかスサノオと相撲を繰り広げていた。自由奔放で口の悪い奴だが思いは同じだと、片割れへのフォローを入れた。

 その時、ヤミーが群衆のなかでこちらを気にかけているのが眼についた。恐らく敢えて強い言葉で言い放ったのが、まだ彼女のなかで足かせとなっているのだろう。閻魔は軽く手招きをしてやった。

「兄さんその傷、私の水なら冷やせるかも」

 カグツチが倒れてもまだじくじくと蝕み続けている。妹の言葉を信じて身を預けた。冷えた水の感触が伝わって来る。

「我々もここに置いてはもらえませんか」

 相撲で盛り上がっている神仏達を見ながら馬頭が言った。だがここの頭は彼ではない。

「イザナギに言え。我もここに置いてもらっている身だ」

 彼らからすれば主は閻魔大王の方だ。腕を組んで笑っている背中を一瞥し、「承知致しました」と軽く頭をさげて去っていった。

「このカグツチの死体、どうするの?」

 一番酷い腹の辺りをよく冷やしながら、背後に転がっている身体を一瞥した。同じようにカグツチの死体を見ながら答える。

「適当にその辺に埋めておいたらいいだろう。本当に死んだわけではないし、供養だなんだも必要ない」

 仏教である閻魔が言うとやけに説得力があった。ヤミーはそうねと肯き冷やす事に専念した。

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