第4話

 二人は朽ちた寺院に向かった。閻魔の心が少し休まる。なかに入り腰をおろした。

「腹も減りませんし、喉も渇かないっすね。やっぱりこの世界は疑似世界なのかな」

 首を傾げる火車に眼を閉じた。軽く眠って治療に専念させるのがいい、胡坐をかいて項垂れる様子につまらない表情を見せた。

 うっすらと夢を見ていた。それは本来いるべき世界での日常だ。

 豪華な服に身を包み亡者を仕切り

 拾って育てた子であるゴートやスケープらと他愛のない会話をし

 恋人である伊弉諾と茶を嗜み

 喧嘩ばかりしているサタンと取っ組み合い

 妹であるヤミーとたまに辛い物を食い

 刺激的で退屈で面白い日々を過ごした。

 ふっと瞼をあげた。心には少し冷たい風が吹いたが身体は全快していた。彼の回復力は桁違いだ。

「火車、煙草を一本、」

 青年がいたであろう右側に視線を向けた。然し目立つ水色のパーカーも何もかもなかった。立ち上がりながらぐるりと見渡す。傾いた仏像が一瞬見えた。

「閻魔様」

 背後から声が聞こえ振り向いた。然しいない。あるのは長方形に切り取られた外界のみだ。

「おい、火車。どこに行った」

 声を張り上げ視線を巡らせる。

「後ろっす」

 振り向く。だがいない。そもそも気配が一つもしない。

「からかっているのは誰だ」

 低く言うとけたけたと笑う声が聞こえてきた。それは火車の声質と全く同じだったが、不気味で意地ぎたない震えがあった。

 正体を探る事も出来なければ気配を掴む事も出来ないでいた。薄い人間の匂いが充満しており、方向が定まらない。出所を特定するにしても、ここには薄い空気が漂っているだけに思えた。

 それもそのはずだ。相手は天邪鬼。彼が気配を掴もうとすればする程、反対方向へと舵を切る。

 薄闇から閻魔の姿を見つめ、不気味に口角を吊り上げた。後ろには気絶した火車が転がっており、両手両足を麻縄で縛られていた。

「小賢しい」

 おちょくられている。それだけは理解出来た。鋭い眼つきでぐるりと見て回る。その時だ、ふっと眼が合った。

 天井、暗くなった梁の上にいる。天邪鬼は驚いて身を退いた。そのせいかぎしりと軋む。

 閻魔は腕を出して跳び上がろうとした。然しごごっと地鳴りに似た音がして顔をおろす。傾いた仏像が斜めに倒れだしたのだ。

 余裕を持って避ける。埃を巻き上げてうつ伏せに倒れた。よく見るとそれは仏像ではなく閻魔像だった。

 妖怪はさぞかし楽しそうに笑っているだろう。声を押し殺して肩を揺らしていた。

「全く、罰当たりな野郎だな」

 閻魔は笑みを取り戻した。天邪鬼が倒してくれたお蔭で埃が舞い上がり、空気の流れが乱されたのだ。薄くではあるが居場所が分かった。

 跳び上がって近くの梁に着地した。しゃがんだまま方向を定める。

 その間、天邪鬼は焦った顔で下を見ていた。急に姿が消えたからだろう。気配を操る事は出来るが相手の気配は察知しきれない。特に閻魔程の強者だと簡単に追えなくなる。

 彼は相手が天邪鬼だと感づき、心の口にチャックをつけた。思考を読ませない為だ。勿論犬歯のある口にもチャックを引いた。

 腕を器用に使いながら着実に近づいてゆく。すると火車の姿が見えた。太い梁の上に寝そべっており、一目見て意識がないと判った。

 然し思ったら最後、状況は一変する。閻魔は一切の思考を捨てた。

 結果として天邪鬼は横から来た神の手に掴まれ、そのまま床に向かって叩き落とされた。埃が舞い上がってくる。流石に耐え切れず一つくしゃみをした。

「ん……?」

 若い小さな声が聞こえた。天邪鬼は衝撃によって白眼を剥いており、力の解けた火車が意識を取り戻した。然しそれによってバランスを崩す。

 あっと思ったが閻魔の腕に支えられた。

「危なっかしい奴だ」

 縄を解く前に青年を抱えて飛び降りた。木の床はぼろぼろに破壊されており、外に出てから縄を引きちぎった。

 手首を擦る火車から視線を外し立ち上がった。どこにいても危険が伴う、それにこの人間がいる限り足かせはついたままだ。

 もし死した者がこの世界からはじき出され、元の世界に戻るのだとしたら……ここでこいつを殺してしまった方がいいだろう。そう見下していると眼があった。

「なんか助けてもらってばっかっすね」

 立ち上がりながら申し訳なさそうに頬を掻いた。閻魔は思っていた事を奥深くに仕舞いこみ、適当な事を言って茶を濁した。

 確証を取れない限り、火車を殺す事は出来ない。かと言ってクトゥルフに直接訊いたところで答えてはくれないだろう。

「出会ったのが閻魔様で良かったっすよ」

 火車の言葉に眼を伏せる。

「我でなくとも神か仏であれば救われた」

 風が吹く。滝の音が遠くから聞こえてくる。

「そういう事じゃないっすよ。閻魔様は唯一無二じゃないっすか」

 にこやかな横顔を一瞥し鼻で笑った。

「そう思うのなら、元の世界に戻っても悪事を働くでないぞ」

「勿論っす」

 元気に返事をした時、とんっと身体が揺れた。火車の双眸が丸くなる。

「……」

 閻魔が視線をやった。一瞬にして笑顔が消える。瞬間、背後から酷く覚えのある気配が漂ってきた。

 彼が振り向くのと青年が意識を失うのは同時だった。固まる彼の先にいたのは、弓矢を構えた初老前後の男。

「伊邪那岐……?」

 思い浮かべる人物と眼前の人物がちらつきながら重なる。閻魔が所謂混乱に見舞われている時、火車の身体からは魂が抜け出していた。背後から放たれた矢は心臓を貫いており、人間である彼は即死だった。

「伊邪那岐……お前はそんな事をするような奴ではないだろう」

 閻魔の精神にはかなりの負荷がかかっていた。本人は一切気付いていない為、彼のなかではまともな景色が広がっていた。

 だが実際には自分の思う伊邪那岐と眼前にいる別世界の神とを重ね合わせ、一種の幻覚を見ていた。男はそれを察したのか、むすっとした表情で口を噤んでいた。

 閻魔は滅多に見せない表情を浮かべて階段を一つ二つとあがった。

「失望したぞ」

 震えた声で呟く。その瞬間、全ての腕を出して跳びかかった。笑顔はなく、眼は見開き、一点に伊邪那岐の顔を睨みつけていた。

 然し対する男の表情は冷ややかで、無感情な瞳がそこにあるだけだった。

 どんっ

 茂みから大きな化け物が飛び出してくると、その巨体を最大限に活かしてタックルをかました。それをもろに受けた閻魔は吹き飛ばされ、反対側の茂みへと吸い込まれていった。

 狐をベースに狼や猫が入り混じった姿で首は落とされており、代わりのように般若の面がぶら下がっていた。身体中に白に近い青い炎を纏いながら伊邪那岐に擦り寄る。それを片手であしらいつつ言った。

「よくやったぞ。イザナミ」

 男は無感情に褒めると火車の死体を見下した。

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