第3話
「お、俺は、ただの、」
小刻みに震えながら徐に振り向く。
「ただの、人間、なので、」
唇は青ざめ、涙が滲む。
「なので、」
影がさした。見上げる。
眼のない白い化け物が歯を剥きだして笑っている。
だのにはっきりと自分を見つめている。
自分を、次の標的に選んでいる。
「ぁ」
漏れ出た息にルシファーの拳が引いた。
然し左の足首に打撃が入る。驚いた火車が視線をやると一人の男が無理な体勢で回っていた。赤い瞳が一瞬見える。
倒れていたはずの閻魔が意識を取り戻し、片手だけで起き上がるとそこを軸に回転、蹴りをルシファーに放ったのだ。近い形で言えばブレイクダンス、ただそれよりも難易度の高い体勢なのは確かだ。
思わぬ一撃にバランスを崩しその場に倒れ込む。また瞬発的な力も加わり威力は想像以上で、野太い声を出しながら転げまわった。
閻魔は遠心力を使って華麗に立ち上がると一息吐いた。流石にダメージが入ったのか鼻血を垂らしている。逆にいえばあれだけの威力をそれだけで済ませているとも言える。
火車はまだ小刻みに震えており、言葉もたどたどしい調子だった。
「だ、大丈夫、なんすか」
ふんと血を吹き出し、首や肩を軽く回した。
「人の心配よりまず自分の心配をしろ。我が間一髪で反応しなかったら、今頃お前は八つ裂きにされておるぞ」
ちらりと一瞥をくれる。威圧感のある左側の方だったが、火車はどこか安心した表情で息を吐いた。強張っていたせいか、じんじんと筋肉が悲鳴をあげている。
「それにしても、気配が一変したな」
余程痛いのか、まだ呻き続けている。閻魔のなかでは全力どころか、四分の一にも満たない力でやったのだが、そもそもの力が常識外れなようだ。
「ええ、あの黒い靄みたいなのが降って来てからっすよね。例の旧支配者って神様が妙な事をしたんすかね」
ぱっぱっとズボンを叩き立ち上がった。凶悪犯とも対峙しているお蔭か、人間の割には落ち着く速度が速かった。それでもまだ手の先は痙攣している。
「神は神でも邪神の方だろう。とにかく戦わせたい、いや殺し合わせたいのか……我としては飽きなくて済むが、お前がいる限り油断は出来んな」
閻魔は素直な事を言っただけなのだが、人間はぴくりと身を震わせるとあたふたとした。自分が足手まといになっている事に申し訳ない気持ちを覚える。然し一切振り返らない様子に無駄だと悟ったのか、出来る限り邪魔にならないよう動こうと心に決めた。
ルシファーは口を開けて唸り声を絞り出した。翼はもがれ、理性的な部分も剥がされた。まさしく堕天使だ、殺意の濃さが桁違いにおかしい。
「今立っている位置から動くな。絶対だぞ」
普段隠している腕を六本曝け出すとそう言いつけた。火車はごくりと唾を飲み込んで肯く、あっと思った時には眼前から消えていた。
先手を打ったのは閻魔、集中して同じところを狙った方がいい、右の足首を今度は力を加えて蹴った。ぐっと呻き声が聞こえるが深追いはしない。一度さがって相手の様子を見た。
かなりのダメージが入っているのは確かだ。だが短い咆哮をあげると走り込んできた。その速度は閻魔に匹敵する程、即座に腕をクロスさせて防いだ。
骨の芯まで響いてくる。純粋な力の差で言えば若干閻魔の方が上だが、それでも体重差、身長差のせいで負荷がかかってくる。ぐっと耐え忍びながら黒い腕を伸ばした。
相手の腕を掴み、思い切り引っ張る。力は均等に割り振られており、油断していると不意を突かれる。ルシファーはそのせいでバランスを崩し、腹に一発叩き込まれた。
大きく口を開けて黒い液体を吐き出した。腹を押さえて四つん這いになってもげろげろと吐き続けている。血にしてはどろっとしており、若干霧のような、靄のような、煙のようなものが湧き出ている。
翼を引きちぎった際には我々と変わらない鮮血が溢れだした。だからこの黒い液体は、旧支配者に茶々を入れられたせいで出来たものだ。少し被ったそれを適当に払い近づいた。
容赦なく頭に蹴りを入れる。鈍い音が鳴り響いた。周囲に黒が散った。
一瞬見えた背中に頭を押さえつけ、軽く覗き込んだ。血が滴っていたはずなのに、黒い液体へと変わっていた。
全身の血液が妙なものに変わってしまったのだろう。乗っ取っているのか憑りついているのか、生きているのか死んでいるのか。確かな事は分からないがクトゥルフの操り人形に変わりはない。
その時がっと足を掴まれそうになり、間一髪で避けた。かなりの力で蹴ったはずだがまだぴんぴんしている。いや、もしかしたらもう脳みそはぐちゃぐちゃなのに、寄生虫が動かしているのかもしれない。そこまでしてこいつに拘る理由は分からないが、閻魔はもう一度先手を打った。
然し上から叩きつけられる。両手を握り締めた鉄槌が丁度後頭部に当たった。先程もそうだったが、ルシファーの攻撃はランダムで加速する暴走車のように、時折閻魔の反応を越える事がある。今回の一撃もそれだ。
また地面と仲良くなったがすぐに起き上がって飛び退いた。然し余裕の笑みは消えており、落ちてきた前髪を撫でつけた。
「我の頭に恨みでもあるのか」
そう軽口を叩いたが、一瞬ふわっと身体が浮いた。滅多に体験しない現象に小さく舌打ちをかました。
飛び込んできた拳を受け流す。腕が多い分閻魔の方が有利だ。然し上からの打撃を何度も流せば少なからず傷は残る。
一つ流したあとの一瞬の隙を狙って回し蹴りを横腹に叩きこんだ。流石によろめいて離れる。
「くそ」
びりびりと腕の筋肉が悲鳴をあげていた。危険を承知で蹴りを放ったのもこれが原因だ、あれ以上受け身でいたら確実に一本は駄目になる。長く静かに息を吐くと集中した。
あと二発程で相手を沈める。でなければ序盤の序盤で深手を負う事になる、それだけは避けておきたい。
受け流す事は止め、徹底して避ける事に専念した。ルシファーも大分ダメージを負っており、感情的で容赦のない打撃が頬を掠ってゆく。
怒り狂った咆哮が常に響き渡る。流石に風圧を感じて火車がしゃがみこんだ。それを一瞥し、避けながら移動する。
打撃のスピードと間隔に隙がなくなってゆく。然し同時に身体が耐え切れないのか、ルシファーの腕や肩の周りが裂けはじめた。
火車の眼前で立ちふさがるように足を固定する。六本の腕を無くし、動かずに回避する事に専念した。
身体を逸らせた時、丁度眼が合った。怯えている人間に対して軽く舌先を出してやる。一瞬間の事だったが火車はぐっと歯を食いしばった。
黒い体液が白い肌を撫でる。闇雲に拳ばかりを使うせいで腕と肩への損傷が激しくなってゆく。ここで急に脚へと切り替えたら、閻魔は避けきれずに食らうだろう。
そうならない事を強く祈りながら最小限の動きで避け続けた。その結果、右の拳を放った瞬間、ごきりと痛々しい音が鳴り響いた。
一つ間を置いてからルシファーの絶叫が続く。肩の辺りを抑えて後ずさった。勿論チャンスととらえて姿勢を低くすると一気に飛び掛かった。
首を狙う、空中で回し蹴りを放った。純粋な力に降下の自然的な力が加わる。最低でもひびくらいは入ってほしいものだ。すぐに退いて火車の前に戻った。
ルシファーは二つの大きな激痛に声が出なくなり、だらだらとよだれを垂らしていた。まだいけるか、ゆっくりと息を吐きながら身体をさげた。
先程と同じように近づき大きく跳び上がる。今度はそのまま、落ちる過程で叩きこむつもりだ。首を狙って右足を出した。
刹那、がっと足首を掴まれる。眼を見開いたと同時に強い力で引っ張られる。このまま地面に叩きつけられると心臓が浮ついた。
黒い腕を出し、腹筋を使って上半身をあげると手首の辺りを思い切り殴った。元々ガタが来ているお蔭で力が緩む、全ての手で突っぱね脚を引き上げた。
一瞬退避する事を考えたが、これ以上時間はかけたくなかった。一度地面に降りたあとすぐに跳び上がる。また掴んでくるのを器用に避け、首に向かって蹴りを放った。
着弾する。ぼきんっと硬い砦が壊れた。力は内部にまで踏み込んでくる。黒い土埃をあげて踏み込んでくる。
全く勢いが殺される事はなく、管も筋肉も小さな細胞さえ破壊して反対側の皮膚まで引きちぎった。
閻魔が地面に着地したあと、宙を舞っていた首が転がった。続いて身体が崩れ落ちる。一息吐いて髪を撫でつけた。
火車は眼を丸くして徐々に歓喜の笑顔を浮かべていった。まるで自分の事のように拳を作り、勝利を喜んでいた。
然し当の本人は軽く手首を擦り、視線を上にあげた。赤い瞳は青空の向こうにいる旧支配者共を睨みつける。これを見たいが為に我を呼んだのか。
仕事に支障が出たらどう償ってくれるのだろう。恋人を悲しませたらどう償ってくれるのだろう。子供達を怒りに向かわせたらどう償ってくれるのだろう。
短い溜息を吐いて腕から手を離した。眼をきらきらとさせて駆け寄ってくる人間を余所に、ルシファーの死体を見下した。
首の断面からは黒い体液が流れ出していた。泡が浮いてじきに弾ける。戦いをやめた者の自我を奪い、身体に合わない戦い方を強制された。そんな奴と拳を突き合わせたところで、楽しくはない。
「閻魔様?」
火車の心配する声音に視線をやり、少し笑ってやった。子供への対応と変わらない。
「大丈夫だ。それより少し疲れたな」
ぐっと伸びをして全身から力を抜いた。流石に連戦出来る状況ではない。適切な時に休み、適切な時に身を退く、それもまた強さに必要な要素だ。
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