第26話 頼みの綱
タクシーで病院へ向かう間、僕は家族に『友達の家に泊まることになったから家に帰らない』という旨のメッセージを送った。とは言っても今日家に帰らないことが確定したわけではないのだが、実際問題その可能性が高かったのでそういうメッセージを送っておいたのだ。そのくらいの覚悟はできている。幸い今日は金曜日でもあるので、学校のことは特に心配する必要がなかった。
やがて樹木内科に到着しストイアンが支払いを済ませてくれた後、僕とストイアンは院内へ駆け込んだ。
診療時間はとっくに過ぎているため患者は誰もおらず、待合室のところは閑散としている。
それでも奥にある手術室の方からは、フェリシアさんと樹木さんのお父さんが懸命な治療をしている声や音が聞こえてきていた。
僕は覚悟を決めてストイアンの後ろをついて行き、ついに手術室に足を踏み入れる。
ストイアンが手術室の扉を開けると、そこにはナース服姿のフェリシアさんと白衣を身に纏った樹木さんのお父さん、そしてベッドに仰向けになって寝かせられた樹木さんの姿があった。樹木さんは当然、目を瞑っている。
最初に僕とストイアンの姿に気がついたのはフェリシアさんで、僕がいることに心底驚いているようだった。
「孝介くん……!?」
「ごめんなさい、あのまま帰るわけにはいきませんでした。僕も樹木さんを助ける力になりたいんです!」
「それは……とても嬉しいけど……でも……」
フェリシアさんは不安そうに呟いてから仰向けになっている樹木さんの方へ目を落とした。そして静かに涙を流し始めた。
「私の……私のせいで……真珠が……」
うなだれるフェリシアさんを見かねたお父さんは、そっとフェリシアさんの肩に手を回して抱き寄せ、慰めようとしていた。しかし一向にフェリシアさんの涙はとめどなく滴っていく。
「もっと早く気がついていれば……ごめんなさい……私に生きる資格なんて、ない……」
「君は何も悪くないよ。今はとにかく最善を尽くそう。真珠を救えるのは僕たちしかいない」
「……はい」
すると、お父さんが僕の目を見てきた。その目はどこか慈悲に満ちているようだった。
「孝介くん、気持ちは嬉しいけど大丈夫だよ。真珠のことは……僕たちでなんとかするから……しなくちゃならないんだ……なんとしてでも……」
その言葉はたしかに一見心強く思えたが、少なからず願望が孕んでいるようにも聞き取れた。とにもかくにも、僕がここで引き下がる理由はない。
——だから僕は、迷わず提案する。
「僕の血を使ってください」
言った途端、泣いていたフェリシアさんの顔がこちらに向いた。お父さんも目を見開いている。
「……それはどういう……って、ああ……そういうことか」
どうやらお父さんは僕の言わんとしていることをなんとなく察したようだった。
僕は自分の胸に手を当てて、思いの丈をぶつける。
「僕の血は、樹木さんにとって特別な血です。だからもしかしたら、僕の血を輸血することで樹木さんが助かるかもしれないと思ったんです」
「でも真珠の意識を回復させるために必要な血の量を孝介くんからもらうとなると、次は孝介くんの体が危ない状態になってしまうかもしれない」
「そうよ孝介くん。いくらなんでもそんな無茶な……」
「構いません。樹木さんを助けるためならば。……僕は約束したんです。樹木さんが危険に陥った時、できることがあったらなんでもするって。……どうかやらせてください! ここで何もしなかったら、一生後悔することになるかもしれない! それだけは絶対に嫌なんです! だからお願いします!」
僕は目一杯頭を下げた。もちろん二次被害を避けたいという気持ちはわかる。……わかるが、今の僕にこうする以外の選択肢はなかったのだ。
「俺からもお願いする。おそらくこのままじゃ真珠の命が本当に危ない。真珠を襲った協会の男も、完全に真珠を殺害するつもりで血を奪っているんだ。だからもう、あまり手段を選んでいる状況ではないことも事実なんだ」
ストイアンがそう説明した。僕は頭を下げているからフェリシアさんとお父さんの反応がどのようなものであったかはわからないが、随分長い間言葉を詰まらせていたので、おそらく真剣に悩んでいるようだった。
結局、先に口を開いたのはお父さんだった。
「……わかった。やってみよう。僕はこの日のために腕を上げてきたんだ!」
顔を上げると、そこには決意に満ちた表情のお父さんの姿があった。
「ありがとうございます!」
「お礼を言われる筋合いはどこにもないよ。こちらこそ、感謝してもしきれない。……絶対に成功させる」
そう宣言するお父さんの立ち姿は、とても心強いものだった。
「親御さんにはなんて言おうか」
「それなら今日は友達の家に泊まってくると伝えたので問題ありません。それより早く取り掛かりましょう。一刻の猶予もありません」
「そうか……わかった。それじゃあ別の部屋へ移動しよう」
「わかりました」
「ママはここで真珠のことを見といてくれ。ストイアンも」
お父さんの言葉に、フェリシアさんとストイアンは頷いて返した。
そして僕はお父さんについて行く。
「本当にごめんね……。こんなことに巻き込んじゃって……」
手術室を出て行く僕に、フェリシアさんが言ってきた。僕は首を横に振る。
「フェリシアさんは何も悪くないです。今は僕の血を頼ってください。きっとなんとかなりますよ」
僕は微笑みかけながら言った。
「ありがとう……本当に……」
礼を言うフェリシアさんの目は赤く腫れていた。もうこれ以上、フェリシアさんを泣かすわけにはいかない。
僕はフェリシアさんにしっかりと頷いてから手術室を後にする。
少し前まで厄介だと思っていた僕の血が、大事な人の命を救えるかもしれない。これほど自分の血に可能性を感じたのは、生まれて初めてのことだった。
今は何より、僕の血を信じるだけだ——。
※※※
採血をするためドナーチェアーに腰掛けた僕は、普段の定期検診で採血するのと同じ流れでお父さんに準備をしてもらった。ここまでは本当に普段の採血と変わらない。唯一普段と違うのは、この採血に身近な人の命がかかっているということだけだった。
やがて腕に採血用の太い針が刺さると、ドナーチェアーのすぐ横に置いてある機械が血液を採っていく。僕は心なしか普段の採血よりも緊張していた。おかげで心拍数も上がっているように感じる。
「体に異変とかが起きたらすぐに言ってね。孝介くんの健康が第一だから」
お父さんが優しい声でそう声をかけてくれた。
「はい、ありがとうございます。大丈夫です。何年採血していると思ってるんですか」
「それもそうか。でも油断は禁物だよ。なにせ状況が状況だから……」
「はい」
それからは何事もなく採血が行われていった。
僕はそんな中、やはりどうしても樹木さんのことが頭から離れなかった。そして考えれば考えるほど、樹木さんを襲ったあの男の言葉が脳裏をよぎる。採血中であっても、樹木さんを心配する思いと、男に対する怒りの感情はどうしても消すことができなかった。
……するとしばらくして、手術室にいるはずのストイアンがこちらの部屋にやって来た。
「真珠の容態が……!」
ストイアンの表情と声音はやけに焦っている。
「どうした! 具体的には!」
「脈拍数が下がってきていて……!」
「くそっ……! すまない孝介くん、ちょっと真珠の様子を見にいかなくちゃならない」
「僕のことはいいので早くいってください!」
僕がすぐさま答えると、お父さんはストイアンとともに手術室へ駆け込んで行った。
一人残された僕は、とりあえず目を瞑って冷静になるよう努める。樹木さんの容体が心配であることは間違いないが、今の僕にできることは採血を済ませることだ。しかしいくらそう言い聞かせても心臓の鼓動は言うことを聞かず、僕の不安をもろに反映する形でその速度を速めていく。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
心臓の鼓動が速くなっていくにつれて呼吸も荒くなり、しまいには頭がぼわぁっとし始めて視界がぐらついてきた。
ま、まずい……!
僕は必死に正気を保とうと呼吸を整えたが、そんな簡単に今の状態が改善することはなかった。
うっ……。
いよいよ意識が重くなり、視界にモザイクがかかる。
樹木さん……あんな男の勝手で……死んじゃだめだ……! まだまだもっと……一緒にいたい……!
いくら心の中で想いを叫んだところで、意識が遠のいていくことは避けられない。
そして僕は、完全に意識を失った——。
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