第六章 今を守るために

第25話 男の正体

 フェリシアさんと樹木さんのお父さんがやって来たのは、電話を切ってから十五分ほどが経過した頃だった。


 そして車に運び込まれた樹木さんは、そのまま実家の病院へ運ばれて行った。そこまでに至る一連の流れはいたってスムーズで、僕はその様子をただ黙って見ていることしかできなかった。


 それでも僕は思い切って、フェリシアさんに樹木さんの容態について尋ねてみた。するとフェリシアさんは、ただひたすら「大丈夫だから、孝介くんは心配しないで」と言うばかりであった。しかしそう言うフェリシアさんの表情は、やはりいつもより随分険しく見えたのは間違いなかった。


 時間も遅かったので僕は帰宅することになったのだが、一人で帰らせるのは不用心ということでストイアンが家まで送ってくれることになった。


 帰路に就いて最初の方は僕もストイアンもただ黙って歩みを進める他なかったが、しばらくしてストイアンの方から話しかけてきてくれた。


 「なんかごめんな。こんなことに巻き込んじまって」


 僕は突然そんなことを言われたので、反射的に首を横に振った。


 「ううん。たぶん、そういう運命だったんだと思う。だからストイアンは何も気にしないで。それよりこちらこそ、全く力になれなくて、ごめん」

 「お前が気にすることじゃない。これは完全にこっちの問題だ。真珠が巻き込まれてしまった責任も、こっちにある」

 「でも……! ストイアンもフェリシアさんもお父さんも、何も悪くないじゃん……! もちろん、樹木さんだって……」

 「仕方ない、これが現実だ」


 ストイアンはきっぱりと言った。ふとそんなストイアンの顔を見上げてみると、その目はどこか遠くの方を見ているようだった。


 「吸血鬼の世界の決まりを破った俺やフェリシアが制裁を受けることは、やむ負えない。……ただ今回、なんの罪もない真珠が被害を受けた。このことは本当に情けないし、悔しい……」


 歯を食いしばるストイアンを目の前にして、僕はとてもやるせない気持ちになる。今の僕がストイアンに何か言葉をかけるには、あまりに無知なような気がした。僕は吸血鬼の世界のことについて、ほとんど何も知らない。だから励ます言葉すらもまともに思いつくことができなかった。


 「……とにかく、今は真珠の無事を信じよう。大丈夫、ちゃんと脈はあったし、あの二人の腕ならきっとなんとかなる」

 「……うん」


 それから僕たちは特に会話を交わすことなく夜道を歩いて行った。


 秋も深まってきたからか、いつもより随分と肌寒く感じる。ふと夜空の満月が目に入ると、さっきまで横にいた樹木さんのことを思い出す。僕は一歩一歩進む度に、やり場のない不安な気持ちを募らせていた。


 ——その時だった。


 隣を歩いていたストイアンが突然後ろを振り返り、その長い手で僕を庇ってから何者かと対峙した。その動作のスピードは常人の域を超えていた。


 僕が遅れて振り返ると、そこには見覚えのある男の姿があった。


 「ほほぉー。気配で私の接近を感知するとは、なかなか鋭い感覚をお持ちなのですねぇ」


 その男は不敵な笑みを浮かべながら見下すような眼差しを向けてそう言ってきた。


 黒いロング丈の薄手のコートを見に纏い、頭にハット帽を乗っけた大柄な男。近くで見ると目は青く、口元には八重歯が見える。間違いなく、樹木さんを襲ったあの男が目の前にいた。


 「……さっきもう二度と俺に近づくなって言ったよな」


 ストイアンが怒りに満ちた声音で尋ねた。


 「協会から派遣された身としては、簡単に引き下がるわけにはいかないのですよ。どうしてわたくしがここにいるかは、当然おわかりでしょう?」

 「ああ、そりゃあもちろん。……お前、これ以上何をするつもりだ。大体どうして、フェリシアの娘を襲ったんだ……!」

 「なにも、不思議なことではありません」


 男はいたって冷静な口調でそう言った。それを聞いたストイアンは、ついに怒りを露わにさせる。


 「ふざけるな! あの娘にはなんの罪もない!」


 ストイアンの言葉を聞いて、僕も黙ってはいられなかった。


 「そうだよ! 樹木さんは……樹木さんは何も悪くない! 大体、フェリシアさんが人間と結婚したことのどこが悪いことなの! 誰かを愛することに、罪も悪もないよ……!」


 僕が思いの丈を叫ぶと、男はそんな僕のことを嘲笑ってきた。


 「おやおやぁ、君は人間だよねぇ? 随分と物知りだねぇ」


 見下されているというか、もはや相手にされていないような感じだった。それでも僕は込み上げてくる怒りをなるべく抑えて、彼の目を見る。


 「僕は人間だから、吸血鬼の世界のことをわからない。でもそのやり方は間違ってる。フェリシアさんにはフェリシアさんの、ストイアンにはストイアンの生き方があるんだ! 誰かの生き方を誰かが規制するなんて……そんなの絶対に間違ってる!」


 僕が言うと、男の表情は一転して険しいものになった。


 「部外者にものを言われる筋合いはないですよ。こちらの世界にはこちらの世界のルールがあるのです。禁忌を犯したフェリシア・メリンテには、ルールに乗っ取って制裁を与えなければなりません。当たり前のことです」

 「だからそんなの……!」

 「もういい、十分だ」


 ストイアンが僕を制御してきた。僕はなんとか男に対する怒りを抑え込む。


 「それでお前、あの娘に何をした」


 睨みを効かせたストイアンが鋭い声で尋ねると、男は「あぁ」と言って答える。


 「少しばかり注射器で血を抜きました。あなたが現れなければ難なく命を奪えたのですがねぇ……」


 男の口から発せられた衝撃の言葉に、僕もストイアンも言葉を失った。


 「……どこに娘を殺す意味がある! ……あの娘だけは間違いなく無実だ!」

 「簡単ですよ。吸血鬼である母のフェリシア・メリンテを殺害するより娘を殺した方が、人間と吸血鬼の間に生まれた禁忌な存在を抹消させることができ、さらに禁忌を犯したフェリシア・メリンテにも制裁としてこれ以上ない精神的なダメージを与えることができるのです。もともとはフェリシア・メリンテだけを殺害するつもりだったのですが、今日の午後に娘が人間世界に溶け込んでいる様子を見て、心変わりしました。もとい、殺害しきれなかったのは痛恨の極みですが……」


 男は淡々と説明してから、心底悔しそうな顔をした。


 僕は男の言葉を聞いて、やはりこのまま黙ったままでいることはできなかった。


 「樹木さんが——彼女が、人間世界に溶け込むことのどこかがいけないだ! 彼女は僕と同じ一人の高校生なんだよ! そんな理屈は通らない!」

 「……だからぁ、言ったじゃないですか。こちらにはこちらの世界のルールがあるのです。人間と吸血鬼の子どもという存在がそもそも禁忌であるにもかかわらず、ましてやその禁忌な存在が人間世界に溶け込んでいるなど、言語道断。そのような吸血鬼の誇りに泥を塗るような存在は排除されて然るべきなのですよ」

 「そんなのなんの何も理由にもなってない! そっちの世界にルールがあるってなら、こっちの世界にだってルールがあるんだ! 彼女を勝手にそっちの世界のルールで規定するな! 彼女はこっちの世界の人間だ!」


 僕は喉がはち切れんばかりに叫んだ。もう今の僕に、目の前にいる男の事情など関係なかった。樹木さんをそんな風にして卑劣に扱われていることが、何よりも許せなかった。


 一方で男は、異様なほど目を見開いて怒り狂ったような眼差しを僕に向けてきた。


 「人間ふぜいに何がわかる! これ以上こちらの世界に踏み込んこで来ようもんなら、どうなっても知らないぞ! 小僧が舐めた口を利くなぁ!」


 男は口調を変えて怒鳴ってきた。しかしそれでも、僕にはやはり男のことは理解しかねた。


 僕と男はしばらく睨み合っていた。男の目力は僕のそれとは比べものにならないほど威圧的だったが、僕も負けじと睨み返し続けた。


 ……すると、僕の隣で黙っていたストイアンが突然ドスに効いた声で「おいお前」と言って男を睨んだ。


 「……なんです」

 「用が済んだのなら早く消えろ。そしてこれ以上俺たちの前に現れるな。さもなければ、俺がお前を殺す」

 「はぁ? 随分と調子のいいことを言ってくれますねぇ……。でもまあ、とりあえずは撤退しておくのもありかもしれません。完全に目的は達成できませんでしたが、ある程度のダメージは与えられたので結果的にあの娘が命を落とす可能性は十分にありますしね……ふふふっ……ガハハハハっ……!」

 「テメぇ……!」

 「それではわたくしはこのあたりで一旦失礼いたします。まあせいぜい悪あがきでもしていてくださいな。もとい、普通の輸血をしたところで簡単に意識が戻ることはないでしょうけど……ふふふっ……」

 「黙れ! お前の望み通りにはならない!」

 「さぁ、どうでしょう? 陰ながら健闘を祈っております……ふふふっ……。それでは」


 男は不敵な笑みを浮かべながらそう言うと、身に纏っていたコートをまるでマントのように大きく翻して去って行った。


 僕とストイアンはその後ろ姿を見送ってから、しばらくその場に立ち尽くした。


 僕はふと、男の言っていたセリフを思い出す。


 ——あの娘が命を落とす可能性は十分にある。


 ——普通の輸血をしたところで簡単に意識が戻ることはない。


 頭の中で反芻する度、僕は自分の唇を強く噛み締めていた。


 そうしていると、やがて口の中に血の味がしてくる。樹木さんは僕の血を飲んでいると言っていたが、こんな無味な血が本当に役に立っているのだろうか。僕は自分の血に甚だ疑問を感じるばかりであったが、それと同時に、これが頼みの綱であるようにも思えた。


 ——僕の血ならば、樹木さんを救えるかもしれない。


 直感がそう告げていた。


 「……僕、樹木さんの元へ行くよ」


 僕が呟くと、ストイアンは無言でこちらを向いた。僕はそんなストイアンの目をしっかりと見て言う。


 「僕の血を輸血してほしいんだ」


 ストイアンは最初こそ驚きのあまり固まっいていたが、やがて僕の言っていることの意味——僕の血が持つ意味を理解したのか、小さな声で「そうか……」と言った。


 「……本当にいいのか? 大量の輸血をしたら、お前の身だって持たないかもしれないんだぞ」

 「構わないよ。僕の血で誰かが救われるかもしれないんだったら、僕は喜んで自分の血を提供する。できる限りのことはしたいんだ。後悔だけはしたくないから……」


 僕の決意を聞いたストイアンは少し悩むような素振りを見せた後で、僕の目を見て言う。


 「……わかった。お前の血で真珠を救ってやってくれ」

 「もちろんだよ。さあ行こう、時間がない」

 「ああ」


 それから僕たちは大通りでタクシーを拾い、『樹木内科』へ直行した。


 移動している間、僕の血潮は間違いなく騒いでいた。


 

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