第14話 母の香り
☆
(お風呂……)
(どうして入れって、言ってくれたんだろう……)
ユイカはそれがよく分からなかった。何故なら、見ず知らずの人の家に行ってお風呂を借りたためしがなかったからである。
「顔見知りや親戚であれば貸してくれることもある」ということは、六歳のユイカの中でも、「何となく」という感覚で分かっている。
だが、初めて来た家なのに、お風呂を貸してもらえると言うのが不思議でならなかったのだ。
しかも、リビングやキッチンならまだしも、お風呂というのは何だか秘密の場所のような感じがして、一人で入るのは気が引けた。
「……」
ユイカは着替え用の服を見下ろす。
白とネイビーの太いボーダーのTシャツと、ベージュの長ズボン。そして下着。
それらをじっと見てから、ぎゅうっと抱きしめ、顔を埋めた。
(おうちのにおいがする……)
家で使っている洗濯用洗剤の香りに交じって、ほんのり別の上品な香りがするのは、間違いなく母の香りだ。
「……」
ユイカがその状態でいると、脱衣所と廊下を隔てる簡易的な扉の向こうから、バタバタと足音が聞こえてきた。ユイカはぱっと着替えから顔を離す。
(お風呂、入らなくちゃ)
ユイカはいそいそと服を脱ぎ、小さな浴室に入っていった。
☆
一方のナミは、ダイヤル式の電話を使ってスイピーに電話を掛ける。何度かのコールを聞いたのち受話器を取る音がすると、元気で明るいララの声が電話越しに聞こえてきた。
「はい、こちらは雑貨屋のスイピーです!」
普段と変わらない快活なララの声を聞くと、何故だかほっとした気持ちになる。そのお陰か、ナミから慌てた気持ちが不思議と消えていった。
「おはようございます、ララさん。ナミです」
「おはよう、ナミ。どうかした?」
「実はあの、ちょっと困ったことあって、遅刻させてください。すみません」
「困ったこと?」
ララの声のトーンが、心なしか低くなったような気がする。ナミは思わず受話器を強く握りしめた。
「実は知り合いの子を預かることになってしまって。ただ、事情があって私が面倒を見なくてはいけない状態なんです。両親にも言えないので、職場に着いたら相談したいのですが」
「大変そうね」
「はい……。お店にも迷惑を掛けてしまって申し訳ありません」
「こっちは大丈夫よ。それより、何時ごろまでに来られそう?」
ナミは時計を振り向いた。今から自分も支度をしなくてはならず、スイピーまでの所要時間を考えると、八時くらいまでは行けそうだったが、それは自分一人の場合の計算である。
ユイカのことを考えたら、もう一時間余裕を持った方がいいと思った。
「すみません。九時くらいになりそうです」
「そう、分かったわ」
「それと一つお願いが……」
「何?」
「職場にその子供を連れていくつもりなんですけど、許してもらえますか?」
ララが電話越しでふっと笑うのが聞こえる。
「他に預けられるところがないんでしょう。まずは一緒にいらっしゃい」
優しくそう言われ、とりあえずユイカを一人にさせないで済むと思うとほっとした。
「はい」
ナミは静かにうなずくと、そっと受話器を置くのだった。
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