三十件目 報われないリーマン

生臭い匂いと、飲んだら時差という言葉が不必要な速度で嘔吐と体内異常が引き起こしそうな、何とも言い難い不衛生の核とも言える下水道に一人佇む男がいた。







彼の名は、松岡貴浩。

つい最近、顔の皺と白髪が目立つようになってきた年を迎えた頃だが、数年前から自分の容姿に気を遣う必要性を皆無と感じるようになり、現在の年齢よりも少々年老いて見えるのが現状だ。


衣食住はと言うと、たまに一ヶ月に一度程度コインランドリーで服を洗浄、そして松岡はコインルームで身体に染み付いた汚れを落とす。当たり前が亡くなって孤独を感じるようになった今、分程度の時間ではあるが松岡にとっては数少ない安らぎの時間であった。


本人は特に気にしていないのか、コンビニで廃棄処分としてゴミ捨て場に置かれたゴミから漁って持ってきたものを食べ、日々命を繋げている。


仕事も妻も、子も信頼できる友人も頼りになる上司や部下もいない。否、正確に言うならば“いない“、ではなく“見えなくなった“という言葉がふさわしいかもしれない。無一文の自分を救済してくれる賢者のような人物などいるはずがない、それがいつしか松岡の口癖となり、そして呪縛ともなった。














裏切られ、見捨てられ、家にも職場にも居場所がなくなってしまった。























もう今の自分を救おうとしてくれる自分などいない。





















最近までは、自分が根性で働き続けた仕事の給料でなんとか生を紡いで過ごしていたものの、ちょうど今朝久しぶりにコンビニに買い物に行こうと確認したとき、“金が尽きた“という事実を目の当たりにした。


親の脛を齧るようにして生活をやりくりすることもあったし、保健所や心機一転仕事探しをしようと決心した日もあったが、今じゃ鼻で笑える話だ。



*フィクションですので、此処に書かれている人物はあくまで架空の人物です。










逆に、此処まで金を繋げて生きてきた自分の呆れるほどの吝嗇な性格をドキュメンタリー番組で取り上げるなりして褒め称えてほしいとまでは言わないが、それなりに頑張ったなと自画自賛しながら、いつ開けたか覚えていない水を気管に流し込む。

















そういえば自分がこうなった理由といえば、なんだろう。

確か、大体三年前位だったような気がするが、実際のところしばらく電子機器と時代から切り離されて生活している身には之と言って見当もつかない。

誰かと仕事の話でもしたのか?いやそれは違うな、では何だろう、トラックに巻き込まれそうになった歩きスマホをしていた女子高生を庇った際に背負った後遺症のときに何か白衣を着た少々年老いた老医師に言われた何かだろうか。いや、それでもない。


だめだ、ちっとも思い出せない。アルコールが体内を這い巡っているのかと思いたくなるほど、意識がうまく回ってこない。


あれもこれも違う、それだって違う。まるで今この状態が、喉に痰が絡まって息がしにくくなるみたいだ。



俺の何がこうさせているんだ。






どうしてこうも思い出せないんだ。







分からない。


後少しで思い出せそうなのに、思い出そうとすると、何か重い物体で押しつぶされるような頭痛で何も考えられなくなってしまう。


自分のこと位は、自分が一番知っておきたいだけなんだ。俺のことを理解してほしいだなんて、そんな他所の得体の知れないような輩に、“自分はこういう人間なので、こうこうこうしてください。“と、その人物専用の取扱説明書を基準にして、自分を誰かに評価して欲しいだとか、自分のことを理解されようだとか周囲の人間が優位に立てる場をわざわざ設けてやるなんて溜まったもんじゃない。


他人にどれだけ裏切られても、どんなに心を抉られるような事をされても自分自身の中でどうにか解決すれば、普段通りの生活をやり抜き通せるのに変わりは無いし、人間関係など到底理解ができない様な迷宮じみた心理学の良い意味でも悪い意味でも醜怪という言葉が似つかわしい。


溜息が出るような自分の奇怪的な思考に少し反吐が出る。

そう、全ては  が悪いんだ。



















ねえ、なんでそんなに元気がないの?























元気はあるよ?ほら、今の俺の顔の表情筋なんかこんなに緩んでるし
























硬いシリコンみたいに全然動いてないけど






というか怖い




















怖い?




























そうか






















































うん、最期にしよう。























                










彼は油汚れのように頑固で落ちない脳裏に染み付いた記憶を思い出す度、癇癪に何もかも任せて、昔よりも見窄らしくなりジジイ臭くなった自分に対する憎悪なのか、他者に対する憤懣を玩具を買ってもらえず物に当たり散らす子供ように呻くような産声のような奇声を上げることが多々ある。


それこそが今回の事件の正体である。







何故此処に彼がいて、何故彼は自分で自分のことが分からないのか?

そんなの彼だって知らない。気づいたら此処でネズミの寝床にされるように身体を横に倒して居座っていたのだ。

女がゴキブリを見ると汚い汚いと同じ言葉を繰り返しながら、まだ何も危害を加えている訳でもないのに騒ぎ立てる、言わば今回の事件に当てはめるのならば、ゴキブリのように扱われるのがこの“元“会社員の男。そして、悲劇のヒロインの席に座るのが世間体だ。


彼は別に之と言って、誰かに危害を加えている訳ではないし、強いて言うのならば、“コンビニの食品廃棄物から鴉のように食べ物を漁った“ それが理由としてあたえられるのだろう。


その一方、悲劇のヒロインの席に座り、お茶の間でくつろぎながら誰が発言したかなんてわからない事を良いことに、自分の意見を毒と共に気が済むまで吐き出し、相手の被害者の意見なんて気にもとめず、自分達の都合のいいように解釈し事実をすり替えていく。そして、松岡自身はこの事実を何も知らない。

ただ毎日訪れる終わらない日曜日と希死念慮、鳥かごの隙間からうっすら見える真偽のつかない情報、言葉では言い表せない喪失感に孤独感に袋叩きにされる事実を受け止める以外今の彼に選択肢はなかった。

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