第30話 飾りだよ涙は

 僕が表へ出ると、鵜飼さんは「じゃあ、行こっか」と言い、有無を言わさず出発した。


「……それで、一体どこに向かうつもりなのさ?」


「うーん、あんまり考えてないけど、とりあえず河川敷あたりでよくない?あそこ涼しいし」


 僕の家から10分も歩けば河川敷の公園がある。

 夜なら良い風も流れてきて、割と心地よい。


 先を歩く鵜飼さんの少しだけ後ろを、僕はペンギンの赤ちゃんのようにそろりと付いていく。

 すると、不意に鵜飼さんは振り返って僕の方を向いた。


「あと、昼間渡せなかったけど、お店の新メニューの焼菓子を持ってきたんだよね。河川敷で夜のティータイムにしようよ」


 僕は『ティータイム』という言葉でなんとなくメイドさんが思い浮かんで、それに加えて『夜の』という枕詞のせいでスケベなことを想像してしまった。

 具体的に言えば、この間の夢の中に出てきた鵜飼さん。


 詳細を思い返そうとしたところで我に返って、すっかり遅くなってしまっていた歩く速さを元のスピードに戻す。


「あっ、ティータイムとか言いながら飲み物持ってくるの忘れた」


 鵜飼さんがそう言うと、それではまるで無計画に等しいじゃないかと、僕は思わずクスッと笑ってしまった。


「鵜飼さん……、変なところでおっちょこちょいだよね」


「そんなことないしー」


「途中、自販機があるからそこで何か買おうよ。僕、財布持ってきたし」


「ホント? 岡林くんデキる男っ!」


 鵜飼さんはニッコリ笑う。

 出かけるときはとにかく財布と携帯だけは持つようにする癖が、このとき初めて役に立ったように思えた。


 河川敷公園の近くにある赤い自動販売機の前にたどり着くと、僕は小銭を何枚か投入する。


「鵜飼さんは何にする?」


「えーっと、レモンティーにしようかな。岡林くんは?」


「僕はコーヒーで」


 最初に鵜飼さんのレモンティーのボタンを押して、出てきたボトルを取り出して渡す。その後お釣り出てきたお金をもう一度投入し直して、僕はブラックコーヒーの缶を買った。


「この時間のコーヒーって、眠れなくならない?」


 僕が黒いコーヒーの缶を取り出すのを見て、鵜飼さんは心配そうにそう言う。


「眠れなくなっちゃうけど、帰ったら曲作りの続きもあるしちょうどいいかなって」


「……あんまり無理しちゃ嫌だよ?」


「大丈夫大丈夫、いざとなれば3徹ぐらいまでなんとかなるから」


 こんなの日常茶飯事だよと僕は余裕を見せると、意に反して鵜飼さんは軽くため息をつく。


「そういうところ! 岡林くんって、自分を犠牲にして解決するってやり方を遠慮なくするんだもん。心配になっちゃうよ」


「……ご、ごめん」


 僕は改めてそう言われてハッとした。

 自分が身を削れば事が丸く収まるときは、いつの間にか自覚なく率先して犠牲になっていることに気がついたのだ。


 誰にも頼ることもせず、自分で完結させるという、ある意味自己満足。今まではひとりだったからそれで良かったかもしれない。でも、今はそうじゃない。

 僕は、鵜飼さんの存在をないがしろにしてしまっていた。


「ここ最近も忙しそうにしてて、なんだか私のことを避けてたっぽくて、ちょっと寂しかったんだから」


 心配そうに言う鵜飼さんを見て、改めて胸がキュッとなる。


 そうだ、僕はもうひとりではないんだ。

 鵜飼さんにはきちんと伝えるべきことを伝えなくては。


「ご、ごめん……。でも、それは別で事情があったんだよ」


「事情?」


「そ、その……、とある人から、僕が鵜飼さんを泣かせただろって言われて……」


「なにそれ、意味わかんないんだけど。私、岡林くんに泣かされたことなんてないのに。一体誰なの?」


 鵜飼さんはさっきまでの心配そうな表情が一変し、よどみなく怒った口調に変わっていく。


「や、山下だよ……。彼が泣いている鵜飼さんを見たって……」


「それ、いつの話?」


「ええっと、泣いているのを見たっていってたのは、ティーンエイジ・ライオットの応募について鵜飼さんが相談してきた日、かな」


 僕がそう言うと、鵜飼さんは数日前の記憶をたどり始めた。

 そうして何か思い出したのか、その表情は汚いものを見るかのようなものに変わっていく。


 表情豊かな鵜飼さんとはいえ、僕がこの顔を見るのは初めてかもしれない。


「うわっ……、もしかしてあいつ、そんなところまで見てたの……、気持ち悪っ……」


「鵜飼さん……? どういうこと?」


 鵜飼さんは、まるでお偉いさんのように軽く咳払いをして、改めて僕の方を向いた。

 何か彼女からの重大発表があるかのように、僕と鵜飼さんの間の空気は緊迫したものになる。


 まさか僕がひっくり返るようなカミングアウトがあるのではないか?


 山下と実は付き合っていましたとか、実は身体の関係まであるとか、家庭事情で実は許嫁なのだとか、そんな小説みたいなことばかり頭には浮かぶ。


 でも、鵜飼さんの口から出てきたのは肩透かしの一言だった。


「実はね、私花粉症持ちなの」


「花粉症? もう夏前なのに?」


「夏前にピークを迎える花粉があるの。イネ科の花粉」


「イネ科」


 その時の僕は、鵜飼さんの言葉があまりにも予想斜め下過ぎてポカンとしていた。

 驚くというよりは、スギとかヒノキ以外にも花粉症ってあるんだなととても呑気なことを考えていたと思う。


「あの日、ちょっと花粉の兆候があったからかかりつけのお医者さんに行こうと思ったの。そしたら放課後にバッチリ症状が出てきて……」


「そ、それをバッチリ山下に見られたと」


 鵜飼さんの涙の理由は、そういうことだったらしい。

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