ターゲット9/夫へ贈る『おにぎり』③



 キスとはこんなにも羞恥心を引き起こすものであったか、雷蔵も貴咲も赤面し俯いたまま無言で。

 けれど彼の両手は、しっかりと彼女の両手で包まれている。

 この雰囲気はどういう事なのだろうか、さっきまで愁嘆場だったのに。


(き、きききききキスッ!? 今キス、僕キスされたの!? え? 夢? 夢なのこれ!? というか――なんで??)


(ううっ、セックスなんて散々してきたのに……なんでキス如きでこんなに恥ずかしいのよ……知らないわ、聞いてないわよこんなのぉ)


(これって、そういう事だよね? 聞いていいのかな? で、でも)


(向こうが口を開く前に私が先に話すのよ、こっちのペースにするの、……処女じゃないんだからキスひとつで狼狽えないっ!!)


 すぅはぁと深呼吸を一度、貴咲はおもむろに語り始める。

 この忘れん坊の夫に、過去を思い出させなくてはならない。

 そう恥ずかしげに睨む妻の姿に、雷蔵は思わず見とれてしまって。


「……ねぇ、覚えているかしら。私と貴方が初めて直接話した日のコト」


「え、ええっと……、初めて話した日? それって中学の時に君の登下校の護衛担当になった時のことかい?」


「ふふっ、やっぱり覚えてない。ええ、ええ、そんな事だろうと思ってましたわ」


「その言い方、もしかしてそれより前に話したことがあるの? 覚えてないなぁ……」


 首を傾げてうんうん唸る雷蔵、しかして心当たりはない。

 彼女が言うなら真実なのだろうと思うし、そして彼自身としては子供の頃の記憶は余り思い出さないようにしていた。

 きっとその中にあるのだ、とはいえ。


「――――ごめん、思い出せないというか思い出したくないって言うか。……小さな頃はは今ほど強くなかったし、その分、辛いことが多かったから恨みだけ忘れないようにしてたんだ」


 寂しそうに笑う夫に、貴咲は意地悪に詰ることをせず。


(私とのコトも……記憶に残さなかったのね。私にとってはあんなに大切でも、貴方にとっては――)


 でも、それを口にはしない。

 貴咲とて、心の拠り所にしていたから大切な想い出として記憶に残っているのだ。

 それが復讐だった雷蔵には、残念だが無理からぬことで。


「お互い、子供の頃は辛いこともあったわ。……でも知っていて欲しいの。貴方が復讐を胸に生きてきたように。…………旦那様との想い出が私の心を支えていたってコトを」


「うん、教えて欲しい。僕と君の間にあった事をさ」


「そうね、なら――――おにぎり握ってあげるから。それを食べながら話しましょうか」


「……………………ええッ!? 今日はどうしちゃったの貴咲!? 自分からキスするだけじゃなくて、あんなに拒否してたのに料理まで!?」


 どういう風の吹き回しだろうか、雷蔵には妻の心が分からず。

 同時に、とても嬉しい事で。

 初めてなのだ、貴咲の作った何かを食べるのは。


「そんな日もあるってコトよ、それに――ううん、後で話すわ。着替えて待ってなさい、それと冷蔵庫の中は知ってるでしょ。中の具はあまり期待しないで」


「う、うん分かった……」


 どんな品なのだろうか、雷蔵は後ろ髪を引かれつつ律儀に手洗いうがいと着替えに向かい。

 一方で貴咲は口元に笑みを浮かべつつ、自分用のエプロンを手に取る。


「女性だからってピンクは安直よね旦那様?」


 とはいえ悪い気はしない、彼女は着ながら炊飯器の前に向かい。

 何を作るかは決まっているのだ、彼は忘れてしまっているがかつて作ったそれであり。

 また、酔っぱらいがシメに食べるのにも丁度良い。


「海苔はあった筈、なら塩と、梅と、……うん、シーチキンとマヨネーズもあるわね」


 そんなに多く作るわけではないが、己も少しは食べるつもりだ。

 日付が変わりそうな時間だが、気持ち多めに作っても大丈夫だろうと。

 貴咲はラップと皿を用意し、ならば後は作るだけである。


「――――おにぎりを作ります」


 誰に言うでもなく宣言する、不思議と口元に笑みが浮かび。

 誰かの為に、何かを作るのは何時ぶりだろうか。


(少し楽しいって、そんな感情残ってたのね私。……いえ、閉じこめてたのを旦那様が解放したのかしら?)


 くすりと笑って、先ずはラップにご飯を乗せる。

 昼は余り食べなかった故に、白米は丁度良く残っていて。

 恐らく、二人分合わせて六個は出来るだろう。


「梅干しの種は取っておきましょうか、食べるとき手間ですものね」


 口から種を出す、というのも風情がある気もするが。

 ともあれ梅の果肉だけを入れたら、次は握ればいい。

 彼女はそのまま、ぎゅ、ぎゅと軽く俵型へと変化させていく。


「――そういえば、どうしてコンビニには俵型が置いていないのかしらね?」


 形が整ったら、ラップを外して海苔を巻くだけだ。

 不破に居たころ、というかその地域では家庭で作るおにぎりの形は三角ではなく俵型。

 何故、外で買えるおのぎりは三角と丸しかないのか。


「ま、食べれればいいのよ。……梅が二個完成、次の二個ツナマヨで――」


 ツナマヨを作っている途中、着替えた雷蔵が興味深そうに後ろから覗いて。

 その事に、苦笑がひとつこぼれた。

 彼はきっと覚えていないだろうが、あの時も同じように後ろから覗いていたのだ。


「最後は塩ね、…………よし、完成っ!」


「やった! 貴咲のおにぎりだ!! いやぁ感激だなぁ、君のおにぎりが食べれるなんて……くぅ、こんなの初めてだよ!!」


「やっぱり覚えてないのね、ま、いいわ。――言っておくけど、これで二回目よ旦那様」


「え? 何それ僕知らないよ!?」


 目を丸くして首を捻る夫を置き去りに、貴咲は出来上がったおにぎりをテーブルへ。

 お供に麦茶をコップに注いだら、席に着き。


「「――――いただきます!!」」


 ならば、後は食べるだけである。

 雷蔵は待ってましたと言わんばかりに手を伸ばして、迷う。

 右から梅、ツナマヨ、塩であるが。

 どれから食べるのがベストか、これは重要な問題である。


(くッ、どれも美味しそうだ!! うーん、コンビニでもおにぎりって買わないというか。仕事中は相変わらず匂いのしない系しか食べないし)


 初体験とは言わないが、どれも物珍しい。

 一方でそんな彼の様子に気づいたのか、貴咲は微笑ましく見ながら塩おにぎりを頬張る。


「もぐもぐ……、我ながら良い出来ね」


 花嫁修業の一環で、和食も洋食も仕込まれている。

 もっとも、積極的に使っていないので腕は確実に錆付いているだろうが。

 おにぎりぐらいなら、普通に美味しく出来ていると。


(――――“上”を目指すなら、炊き立てご飯の方がよかったわね。うん、でも)


 誰かと、目の前の不器用な夫とならどんな物でも美味しく感じる。

 そんな、確信すらあるのだ。

 貴咲が梅に手を伸ばした時、ツナマヨを食べていた雷蔵は。


「うまッ!? え、おにぎりってこんなに美味しかったっけ? え、これを僕が以前食べたことがあったって本当??」


 マヨネーズとシーチキンの組み合わせは、最強ではなかろうか。

 特に複雑な工程もなしに、この美味しさ。

 そして何より。


「んぐんぐ――――嗚呼、なんか……安心する味だ」


「安心する味って、誉められているのかしら?」


「うん、誉めてる。今すっごく、……なんて言えばいいかな、感謝っていうか、嬉しいっていうか」


 言葉にした瞬間、雷蔵の目頭が熱くなり喉の奥がキュっとなった。

 こんなにも、そう、こんなにも。


「君が、貴咲が僕の妻でよかった。ひとつ食べただけなのに、何故だか強く思うんだ。ありがとうって……僕は、ここに帰れる家があったんだって」


「…………そう、よかったわね」


 穏やかな幸せ、普通の幸せ、そういう物が己にもあったのだと。

 雷蔵は今、真の意味で理解したのかもしれない。

 おのぎりは涙で少し塩気が増して、でもほっとする味で。


「そうか……そうだったんだ」


「旦那様?」


「僕はね、きっと君を救いたかったんだ。復讐とは別に、君を救えば僕も救われるって心の何処かに思いこんでた。――でも、やり方なんて分からなくて、君への想いに気づかなくて、色々間違った」


「………………それでも」


 貴咲は拳をぎゅっと握った、言っていない事がある。

 恨みがあった、怒りがあった、だから言えなかった。

 今が言うときだと、貴咲は雷蔵をまっすぐ見て。


「――――ありがとう雷蔵、私の旦那様、そして……初恋の人」


「ぇ……ッ!?」


「言うのが遅くなったわ、ありがとう、私を救ってくれて、あの家の呪縛から解放してくれて、――私を道具として扱ったあの家の全てを殺してくれてありがとう、恨みや怒りはまだあるわ、でも……私を初恋のヒトの奥さんにしてくれて……ありがとう」


「………………………………え?」


 それは思わぬ感謝であった、彼女には彼に対する憎悪しかなくて。

 だってそうだ、雷蔵こそが全てを奪ったのだ。

 その上、彼女が本来辿るであろう運命と似たような仕打ちしかしていない。


「なん、で……、え? なんで感謝するの? 僕、君の親兄弟を殺したんだよ? 妹だって、君が嫁ぐ筈の家の男だって、無理矢理犯したし、今でも鎖をつけて逃がさないようにしてさ、どうして――――??」


「それでも、私は貴方に感謝しているの。……ねぇ、知っていた? あの指輪、私が初めてあの家から抜け出して夏祭りに行ったとき。貴方が買ってくれたのよ?」


「…………僕が、そんな事を?」


「ええ、私を連れ戻しにきた貴方は必要な事は何も言わず。……でも、屋台を楽しむお金を出してくれて」


 懐かしむように語りかける貴咲の姿に、雷蔵は思わず覚えてると言いたくなった。

 でも、嘘はつけない。

 愛する妻にだけは、嘘はつきたくない。


「ごめん……覚えてない」


「じゃあ、最後にこの指輪を買ってくれて。……頑張れって言ってくれた事も?」


「…………」


「そう、……そうよね、貴方にとっては私も憎しみの対象だったのよね。きっとあの頃から」


 しゅんとする貴咲に、雷蔵は慌てて。

 言わなければいけない、訳があるのだ覚えていない訳が。

 記憶力には自身がある、きっと己にとってもそれは大切な思い出で。


「違うッ! たぶん、あの頃から君をきっと――」


「なら、なんで覚えていないの?」


「………………あの頃はさ、ある意味一番辛かったんだよ。だから連鎖的に思い出すかもしれないから、思い出さないようにしてたんだ」


「辛いこと?」


 一番辛いこととは何か、とても気になる奥様は夫をジトっと見つめ。

 言うまで見つめ続けるぞ、そう受け取った雷蔵はしぶしぶ口を開く。

 脳裏に嫌な思い出ばかりが蘇って、食事の時にする話ではないのに。


「……………………あの頃はさ、幼さを利用した暗殺しかできないっていうか、そう指示されててさ」


「つまり?」


「…………………………抱かれてた、んで、その後に殺してた」


「もっと具体的に」


「……………………………………、幼い男の子が趣味の、それも太ったハゲデブとか、しわくちゃのお婆さんとか、そういうのに笑顔で抱かれて、色々聞き出すように言われてたケースも多かったし、事が終わって向こうが疲れた後に殺すしかなくて」


「………………ごめんなさい、本当に嫌な事を思い出させたわね」


 貴咲は激しく同情した、道具として使われていたのは彼も一緒だったのだ。

 殺し屋としての腕だけではなく、文字通り体を使って。


(不破の一族が殺し尽くされたのも、ええ、本当に自業自得なのね)


 思い出さないようにしていた筈だ、それに先ほど言った言葉。

 救えば救われると思った、その意味も理解した。

 ある意味、同じ境遇だったのだ。


「私は……幸せ者ね」


「貴咲?」


「理解のある旦那様で、初恋の人で、私を救ってくれた酷い……本当に酷いヒト。ふふっ、じゃあおにぎりを作ってあげた時も似たような理由で覚えていないのでしょうね」


「めんぼくない……」


 頭を下げる夫を、妻は抱きしめたい衝動にかられた。

 でも片手におにぎりを握ったままだったし、今なお残る憎悪の火がそれを押しとどめる。

 だから、それでも。


「――――本当に酷い旦那様ね? 無理矢理結婚しておいて離婚だなんて。私は何処へ憎しみを向ければいいの? 私は誰に感謝すればいいの? …………側に居て抱きしめて愛を囁いて欲しいのに、その相手と離れろって言うの?」


「………………ッ!! ぼ、僕は君の側に居てもいいの!?」


「バカね、死んだ方がマシな愚かさだわ。この世に存在する他の誰にその権利があるっていうのよ」


「~~~~ッ!! き、貴咲ぃ~~~!!」


「もう泣いちゃって……貴方って本当に手が掛かるヒトなんだから。……さ、残りも食べたら寝ましょう」


 うん、うん、と泣きながら食べる雷蔵。

 その顔は悲しそうではなく、嬉しさと美味しさと安堵と。

 とても満ち足りた顔をしていて、だから。


(意地悪しても……少し、我が儘を言ってもいいわよね?)


 なんて幸せそうなのだろうと、嫉妬のような嬉しさのような何かが彼女の中に産まれる。


「は~~~ぁ、今日はとても傷ついたわ~~、旦那様は離婚しようって言い出すし。大切な思い出も忘れてるし、ええ、とても傷ついてしまったわ」


「ッ!? ご、ごめん!! おにぎりのも必ず思い出すから!!」


「そんな事で埋め合わせになると思っているの? ああ、なんて愚鈍なの旦那様? あーあ、今日は寂しくて寝れないかもしれないわ。誰か一緒に、優しく抱きしめて寝てくれるヒトがいないかしら??」


「はいッ!! はい!! 立候補します! 是非、是非ともさせてください!!」


「愛を?」


「囁きます!!」


「明日は仕事を休んで、ずっと抱きしめてくれる? それ以上はさせないけど」


「喜んで!! 後でヨシダさんにメールしておくよ!!」


 仕事と私、どっちが大切なの? という問いに秒で妻を優先して。

 かくして、二人はまた一つ本当の夫婦に近づいた。

 そしてその週の金曜日、仕事終わりの事である。


「え? なんですヨシダさん? バーベキュー?」


「ああ、ここに居るメンツと社長の別荘でな? まー、休日出勤扱いになって手当が出るし、な? 親善を深めると思ってお前も出てくれないか?」


「でも……パートナーも一緒って」


「この業界、横の繋がりは大事だからな。妻同士の交流も必要だって事さ。――仲直りしたんだろう? 浮気はまったくの誤解でお前が色々忘れてただけだって」


 あの美しい妻を外に出す、それはとても不安で。

 しかし、思うところもある。

 彼女とて友人が必要で、外に出ないと不健康でもあると。


「…………分かりました、嫁には伝えておきます」


「ああ、嫁さんがもしダメって言ったらそれでも良いからお前さんだけでも出てくれよ」


「ええ、分かりました。日曜日のお昼に社長の別荘でバーキューですね」


 そんな訳で、週末は貴咲と一緒にバーベキューに行くことになったのであった。


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