ターゲット8/夫へ贈る『おにぎり』②
時は少し巻き戻る、具体的には雷蔵が離婚を切り出す少し前。
家路への道にて、千鳥足の彼の脳に飲み会で言われた言葉がこびり付いて離れず。
ようやく見慣れてきた通勤路が、知らない土地にすら思えた。
『……悪いこたぁ言わねぇ、な、一度奥さんと距離を置いてみねぇか?』
『嫁さんを愛してるのはコッチにも伝わってくるんですけど、ちょい重すぎません? まー、そんなに大事ならもっと感情ぶつけても良さそうですけど』
『素直に聞けばいいと思う、でも距離を置くかどうかは別問題かな』
(僕は……いったいどうすればいいんだッ!!)
ぐらぐら揺れる視界、ゆらゆら傾く思考。
久しぶりにアルコールで鈍った頭は、雷蔵に暗い考えをもたらして。
「貴咲ぃ~~、僕は、僕は……」
正直な所、彼女が他の男を愛する、愛している可能性は覚悟していた。
否、覚悟していたつもりだった。
だってそうだ、雷蔵は暴力にまかせて無理矢理に結婚した訳で。
(そりゃあさ、こんな男なんて好きになる筈ないよねぇ……)
こんなどうしようもない男でも、少しぐらいはという甘い考えでいたのは認めるしかない。
違う、少しぐらいどころか大きく期待していたのだ。
だからこそ今、こんなに衝撃を受けてる訳であり。
(――――そもそも)
何故、どうして、なんで、貴咲という女性を殺さなかったのだろうか。
強姦した挙げ句に鎖に繋いで、結婚を強要したのか。
(美人だから? 性欲? 復讐……ははッ、そうだね否定はしない、だって)
弱いものを好きなように嬲るのは、憎しみに満ちた心を癒して。
不破の一族を殺し尽くし屋敷を焼いてなお慟哭した心は、貴咲を犯すことで最後の満足を得た。
手放すことなんて出来ない、どうしようもない執着があって。
(でもさ、愛おしいって思ったのは確かなんだ。笑っちゃうよね、犯して初めて、誰かを愛してたんだって理解するなんて)
いつから愛していたのか、彼女は世界一綺麗で、可憐で、妖艶で、淫猥で、語り尽くせぬほどの魅力を備えている。
しかし雷蔵は知っている、彼女がまだそうで無かった時代を。
その全てを覚えている訳ではない、だが最初に彼女に感じたことは。
「なんて――哀れだったんだろうね」
芸術品のように美しく、目を背けたくなるほど卑猥な道具として調教される姿に、その生活に。
同情や憐憫を抱いた、そして同時に怒りと苛立ちを。
(あの全てを諦めた目がさ、すっごい嫌だったんだ)
他に誰が、それを気づいていただろう。
例え彼女の親兄弟を誤魔化せても、雷蔵の目は誤魔化せない。
活力に満ちた意志の強そうな瞳の輝き、そんなものは演技で。
(同じだったんだ、彼女が一人になった時に見せた目がさ。殺してきた奴らの死に全てを諦めた目と同じだったんだよ)
その瞬間、彼は「――ぁ」と小さな呻き声をだした。
気づいたのだ、だからこそ貴咲という存在を。
「そっか……僕は、幸せにしたかったんだ」
嗚呼、と観念したように立ち止まり雷蔵は天を仰いだ。
今更気づいても遅すぎる、彼女に対して犯した過ちは大きく多い。
本当に彼女の事を想うなら、もっと方法があった筈なのだ。
(でも、僕は止まれなかったから)
――本当の親を殺された恨みを。
――両親から送られた名前を奪われた怒りを。
――あり得た筈の人生を滅茶苦茶にされたの報いを。
でも、不和に罪はあっても貴咲には罪はなくて。
(僕がやったのは……ただの八つ当たりだッ)
その自覚があった、負い目があった。
そうだ、だからこそ。
「ははッ、僕に聞く資格なんてなかったんだ」
誰を本当は愛してるか、なんて。
雷蔵には、それを聞く資格が砂粒ほども無い。
(指輪のことを、聞けない筈だよ)
きっと己は、それを無意識に自覚していたのだろう。
ならば、彼女に対して出来る事はなんだろうか。
悪酔いした頭脳は、飲み会での会話を思い出して。
「今までゴメン、別れよう貴咲。……君を解放するよ」
帰宅するなり、第一声がこれである。
目を丸くして驚く妻に、雷蔵は続けて。
「離婚しよう、うん、君が望むなら新しい戸籍を用意するし、今の戸籍が気に入ってるなら役所に行って離婚届を貰ってくるよ」
「え? は? ちょ、ちょっと旦那様っ!? いきなり何なのよっ!?」
「僕は君を幸せに出来ない、――愛している男が他にいるんだろう? 僕がそいつを嫉妬で殺す前に、そいつと僕の知らない所で幸せになってくれ!!」
そう言うと、おいおい鳴き始めた雷蔵に貴咲としては困惑しかない。
本当に何なのだろうか、二人の関係はこれからであるのに。
肝心の雷蔵がこの様であり、ならば貴咲の気持ちはどこへ行くのだ。
「お、落ち着きましょう雷蔵? こんなに酒精の臭いをさせて……ね、呑みすぎたのね、水でも飲んで落ち着きましょう?」
「僕は酔ってないし正気だよ!! ――昨日さ、見ちゃったんだ。君が指輪を見て愛おしそうにしてたのを!! 嗚呼、嘘は言わないでくれッ、覚悟はしてる……僕をさ、好きじゃないんだろう? 愛情なんて欠片もないんだろう? ははッ、当たり前だよね、僕は君に愛されるようなコトとは真逆の行為しかしてないもの――――」
(物凄く酔ってるし、誤解されてるうううううううううううううううううっ??)
事態を把握した貴咲は、その美しい顔をさっと青ざめた。
確かに昨日寝る前から、問いたげな視線を送られていた。
けれど何も言ってこないし、指輪の事で浮かれていて聞き出すことをしなかったのだ。
「まさか、こんな事になっているなんて……」
「うう、ごめん、ごめんよう貴咲ぃ~~。僕はあの家に囚われて絶望してた君を、幸せにしようって想ってたのに、君が僕の他の男を愛してるだなんて考えないようにしてた……嗚呼、こんな僕なんて君を幸せにできないんだ、ごめんよぅ、今まで八つ当たりで辛いことをして、貴咲が僕に何かをした訳じゃないのに――」
抱きつきながら泣きながら謝罪を繰り返す夫に、妻はどうすればいいのだろうか。
何より、酷く酔っぱらっているのだ。
この言葉が本心である証拠もなく、けれど。
(…………たぶん、これが本当なのね)
貴咲は雷蔵の様子を、本心だと確信した。
悪い酔い方をしていると思う、それ故に偏った思考で言葉を出しているとも思う。
けれど、それは。
(いつも思ってなければ、離婚だとか、幸せにしたいとか、出ないものね)
その事を、嬉しく思ってしまう。
酔っていないと口に出せないとか、なんてダメな人なのだろうと。
側にいて欲しいと、想われている事が何より嬉しくて。
――――でも。
「よしよし、よしよし、……一端、落ち着きましょう旦那様。私達は話し合う必要があると思うの」
「言わなくても分かるさッ、あんなに指輪と大切そうに見ててさ!!」
「誤解しているのよ、覚えてないと言うべきかもしれないわね」
「誤解? 覚えてない? くッ、なんて優しいヒトなんだ貴咲! こんな僕を傷つけまいと……ううッ、それにくらべて僕は――ッ!!」
あ、ダメだこれ、と貴咲は直感を得た。
彼の思考はネガティブの坩堝にはまっており、口で言って理解して貰えるだろうか。
本当の本当に誤解であるのに、離婚する必要などないのに。
(………………ああもうっ!! どうすればいいってのよ!!)
このままだと、今にも離婚届を取りに行きそうであるし。
明日の朝、正気に戻っても離婚する決意を固めてそうである。
その姿は想像するに容易く、貴咲の中でふつふつとした怒りが沸き上がって。
「あははっ、ままならないわね人生って」
「ごめん、僕が全部悪いんだ!!」
「ええ、そうね、そうよね、貴方が全部悪いの」
「ううッ、どうして僕は殺すコトしか能がないんだ……ッ」
言葉での説得には夫の酔いを醒まさなければならない、暴力では無理だ貴咲は雷蔵に敵わない。
自然にアルコールが抜けるのを待つのは悪手、絶対に誤解したままで。
故に、――彼女は大輪の花のように微笑み。
「…………貴咲??」
「あら、嫌だわ旦那様? どうして離れるの? もっと側にいて欲しいわ?」
「ええっと、その……なんで??」
「何で、とは? さ、貴方の顔をもっと近くで見たいのよ、――近くに来なさい」
刹那、雷蔵の酔いはいっきに醒めた。
もはや職業病と言っても過言ではない、そして同時に大きな困惑に襲われる。
何故ならば。
(うえええええええええええッ!? 僕には分かるッ、殺す気だよこの雰囲気!! よく知ってるよこの殺気!! 今日も散々浴びてきたし!!)
(――――殺す、殺す気で挑むわ)
(そんなに憎まれて……いや憎むよね普通!! 僕だったら憎んで殺す算段してるだろうし!!)
(嗚呼、なんて憎たらしいのでしょうね旦那様?? 私が初めて、そう、貴方に初めて――自分からキスしようとしてるのに)
貴咲は彼を正気にするため、人生産まれて初めて己からキスしようと意気込み。
その意気込みは今までの鬱憤や過去の慕情、何より大いなる恥ずかしさが混じり合い殺気となって。
殺気を向けられたなら、雷蔵としては殺し屋家業として正気に戻らずにはいられず。
(ど、どうするッ!? 逃げる……何処へ? 僕はこのまま殺されるべきでは? いや、でも、貴咲にさせるの? 何も罪を犯してない貴咲に、僕を殺すという罪を見逃すのか??)
(きっとチャンスは一度だけよ、まだ体はアルコールが残って動きが鈍いはず、向こうは不破が生み出した最高傑作、――殺す気でキスしないと、キスさせてくれないわ)
(何か反撃、い、いやどんな攻撃か確かめてからでも――??)
(ええ、ええ、ええ、この部屋から逃げ出しても世界中追いかけてキスしてやるわよ!! 私のプライドにかけて!!)
貴咲は大きく美しい目をギンギンに見開き、じわじわと近づく。
包容を強請るように差し出された両の腕は、雷蔵には死神のそれに見えて。
一歩彼女が踏み出すと、彼はそれに合わせて一歩後退する。
「ね、ねぇ貴咲? 僕達は話し合う必要があると思うんだ!」
「あら奇遇ね、話し合う為に側にいて欲しいのよ旦那様??」
「――――愛してる貴咲、僕の言葉なんて信じちゃ貰えないだろうけど。心の底から愛してる」
「では雷蔵、貴方はこの指輪を私に送った時そう思ってくれてましたか?」
え、と彼は思わず足を止め思考がそちらへ割かれてしまう。
指輪、あの玩具の指輪は雷蔵が送ったらしい。
本当にそうなのか彼にその記憶などなく、しかして彼女が嘘を言っている様には見えない。
(どういうコトだ?? 僕がアレを? 何時何処で? そんな関係じゃなかったし、昔は惚れてるとか思って――)
(動きが止まったわっ、今!!)
「――ぁ、しまっ――――ッ」
貴咲の腕がふわりと雷蔵の首に回される、隙をつかれた。
普段なら、素面の時ならあり得ない意表を突かれ。
思わず目を瞑り硬直、痛みを覚悟し反撃の時を待ち。
「……………………あれ?」
「ふふっ、――――ちゅっ」
「………………………………んん?? んんんんんんんんんんんんんんんんんんんんッ!?」
「正気に戻るにはまだ足りない? なら……ちゅっ、わ、私からキスするのはこれでお終いなんだからね!! もう二度としないんだからっ!!」
キスされた、しかも二回も。
今まで貴咲から一度もなく、無理矢理キスしては冷たい視線を送られてきた。
その彼女が、恥ずかしそうにもじもじして。
(どうなってんのコレぇッ!?)
事実を認識したとたん、雷蔵の脳味噌はオーバーヒートしてフリーズしたのであった。
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