ターゲット5/運び屋の『カルボナーラ』②



(ふふふっ、あははははっ、バカみたい、今日は何時に帰ってくるだとか、もう少し着飾った方がいいかしら、とか考えてたのがバカみたいじゃない――)


 玄関で硬直する雷蔵を前に、貴咲の機嫌は急速に下降していった。

 少しは妻らしく、帰ってきたら玄関でおかえりと言う所から始めてみようと。

 今日は何を作ってくれるのかと、悔しいが少しばかり浮かれていたというのに。


(嗚呼、間違いない、……私以外の、他のの女の匂いがするわ)


 驚いている、こんな思考をしてしまう自分に。

 驚いている、ふつふつと怒りが沸いてくる事に。

 あの惨劇の夜より、強い衝動が胸にあるのが。


「え、ええっと貴咲? いったい何を――」


「お黙りなさい旦那様? ふふっ、嗚呼――、貴方はどうしてこう、私の感情をかき乱すのが上手なの? これも駆け引きなのかしら? それとも…………捨てるの? あれだけ愛を囁いておいて? あれだけ熱心に毎晩抱いておいて? もう他の女に手を出しているのですか?」


「誤解ッ、誤解だから! 他の女の人と関係持ったりしてないって!! というか匂いって何なのさ!?」


「嗚呼、臭い、臭いわ、こんなにも臭いのに――、なんで旦那様は気づかないのかしら? ふふっ? 腹立たしくて、とてもおかしくて、ふふっ、くふふふふっ――――」


(ダメだ話を聞いてくれないッ!? 何でこうなってるのさ!? 何が原因で何に怒ってるワケ??)


 血走った目を見開き、口元を強く歪め、貴咲は己の首輪から延びる鎖を雷蔵の首に巻き付けて。

 事と次第によっては首を絞める、そう雰囲気が雄弁に物語っている。


(本当に、……嗚呼、本当に腹が立つわ)


 洗脳、とでも呼ぶべきだろう。

 かつての不破で貴咲に施された女としての教育が、男の不実を見逃せと囁く。

 甘く嫉妬し、寵愛を煽れと本能が訴える。


(けれど、――心は別なのよ)


 許せない、欲望のままに汚された事が。

 許せない、あれだけ愛を囁くならば他の女の陰すら見せないのが道理であろう。

 許せない、こんな男に絆されようとしている自分が。

 ――何より、誤解だと分かっていて止められない感情が。


「許せないの、――ねぇ、分かる雷蔵? 私が何故、許せないのか、貴方と引き裂いて殺したくて殺したくて堪らないのに、その腕に抱かれる事を意識してしまう気持ちが……理解できる? 出来ないでしょう??」


 譫言のように呪うように言葉を吐き出す彼女に、雷蔵は静かに一度、目を閉じて。

 彼女が側にいると、いつもそうだ。

 己が己でなくなっていく感覚、否、そうではない。


(気持ちがね……押さえられなくなるんだ)


 人形だった自分は壊れてしまった、僅かに残った堅い部分でさえ少しずつ壊れていく。


(ダメだ、たぶんさ、ダメなんだよこう思っちゃ。でも――)


 体に震えが走る、貴咲の声が耳朶に届く度に、その指が体温を伝える度に。


「何とか言ったらどうなのよっ!! それとも捨てる私なんかと話す言葉を持ち合わせていないとでも言うの?? ――震える程、笑っている癖に!!」


(心地良いんだ、君の声が、例えヒステリックに叫んでいても)


「なんでっ!! なんで何も言わないのよ!!」


(嬉しいんだ、君が離してくれない事が)


 何もかも持っていなかった雷蔵に、たった一つ手に入れた宝物。


「ううううううっ、殺すっ、殺すから、貴方なんか――――っ!?」


 苛立ちが頂点に達した貴咲が、雷蔵の首を絞めようとした時だった。

 彼の目尻に浮かぶ、大粒の水滴を発見してしまって。

 溢れ出したそれは、ぽろぽろと頬を伝って落ちる。


「…………ありがとう貴咲」


「え?」


「嬉しいんだ、どんな感情であれ君が僕を想ってくれてるのが。――何も無かったから、僕には何も無かったから、ううん、本来はあったのかもしれない、でも……そういうの無かったから、僕だけに向けた僕だけの感情が、嗚呼、嬉しいんだ」


 不破雷蔵、或いは、ら104、それとも殺戮人形か。

 己を表す呼び名はある、だがそれは本来の物ではなくて。

 あった筈だ、両親から送られた名が、想いと愛が込められた大切な名が、温もりが、家族が、あった筈なのだ。


(なんで……なんで泣くのよ)


 不破に奪われた者、不破であるから奪われた者、どちらも一度ゼロになって、ひとつを手に入れた。

 同じなのだ、雷蔵も貴咲も、なのにこんなにも違って。


(私にこの人しか居ないように、この人は私しか居ない、――それって)


 度し難い、本当に度し難い、目の前の男が怖くて憎くて仕方がないのに。

 執着されるのが、己の言葉、一挙一動で右往左往する彼の存在が。


(楽しいだなんて、憐れんで優越感を感じてしまうなんて)


 ダメなのに、こんな感情抱いてはいけないのに。

 貴咲の背筋はゾクゾクと震え、下腹から熱い何かがこみ上げてくる。

 ――きっと壊れてしまったのだ、彼に鎖をつけられて。


「………………はぁ、今回は不問にしておいてあげるわ。次、他の女の痕跡があったら覚悟しなさい」


「やった!! 貴咲がデレた!!」


「うわキモっ!? 泣いてたのに満面の笑顔で言うんじゃなうわよ!!」


「バカにしないで欲しい、――君の言葉があるなら僕は絶望の淵にいても希望を抱いて立ち上がろう!! …………ところでお腹減ったね、晩ご飯作ろうか」


「大丈夫旦那様?? そこでそれはサイコパスすぎない??」


 妻の言葉を華麗にスルーして、彼はいそいそと玄関から移動する。

 着替える夫の背中を見ながら、不安を隠せない妻はジトっと睨みつけ。


(うーん、このまま食事の支度をさせていいの?)


 彼が調理に移るまでの時間は、余り残されていない。

 なにせ、着替えてエプロンを付けたら終わりだ。

 今は手洗いうがいをしているが、この隙に何か出来ないものか。


(教えて貰ったカルボナーラ、上手く作れるといいなぁ、貴咲も喜んでくれるといいんだけど)


(考えなさい、このサイコパスに本当に料理させていいの?? 一昨日みたいに監視する?? それとも私が作る? ――いいえ違う、先ずは時間稼ぎよ)


(この前みたいに一緒に作ってくれるのかな、うーん、でも普通に待ってて貰いたい気もする)


(私に何が出来る? 力でも技でも敵わないひ弱な女に、男に媚びるしか能がな…………これよ!! 手段は選んでいられないわ!!)


 貴咲が決心したと同時に、雷蔵は意気揚々とエプロンをつけ。

 それ故に、今がラストチャンス。

 取りあえず不安だから調理を止めるのだ、と彼女はふわっと微笑み。


「そこ、座りなさい」


「え?」


「ね、いいから、そこのソファーに座って? お願い……ダメ??」


 貴咲は上目遣いで、可愛く小首を傾げてみせる。

 その際、さり気ないボディタッチと胸を押しつけるのは忘れない。

 普通の男だと確実に勘違いしそうな行為、ましてやそれが雷蔵なら。


「――オッケェ!! 座る!! 座った!! 次は何をすれば良い!!」


「ふふっ、素直な旦那様は好きよ」


「ッッッ!? ……ッ!? い、今ッ、僕のコト好きって!?」


「はぁい、そのまま動かないで――よいしょっ」


「膝の上に乗ったぁッ!? ゆ、夢!? もしや僕はもう死んでて幸せな幻想を見ている…………ッ!?」


 愛する妻に膝の上に乗られたとあれば、その上で彼女は額をぐりぐりと彼の胸板に擦りつけて。

 彼女はまるで猫が匂いを上書きするように、雷蔵を染め上げようとする。

 

(し、幸せだ……、こんなコトがあっても良いのか??)


(このまま何時間か膝の上に居れば、今日は料理させずに済むわよね?)


(――――嗚呼、だからこそ)


(頬にキスぐらいしてやろうかしら? それとも寝たふりでも?)


 幸せで、幸せだから、すっと雷蔵の心は冷え込んでいって。

 だってそうだ、あり得ない。

 彼は貴咲に向ける愛が一方的であると知っている、彼女が雷蔵を愛していないのを知っている、故に。


(残酷だねぇ、貴咲もさ)


 嗚呼、と溜息が漏れそうになる。

 思わず殺意すら浮かび上がってくる、腹立たしい、とてもイライラする。

 幸せの重みを感じているのに、彼女の白い首筋に手を伸ばしたくなって。


(君も――僕を弄ぶのかな? 僕を人形として、玩具として、便利な道具として使う気かい? 嗚呼、そうさ、君が僕に笑いかけるなんてあり得ない)


 忘れかけていた憎悪がチロリと弱火で燃え始める、そうだ、愛しているから、美しいから、立場は違えど彼女もまた不破の被害者であるから。

 そんな理由で、彼女を殺さなかった訳ではない。

 そんな理由で、彼女を犯した訳ではない。


(不破の最後の直系。僕こそ許せるものか、嗚呼、君の罪じゃない、けど……)


 殺して、殺して、全て燃やして、己はそこで共に死のうと思っていた。

 だが最後に残った彼女を目にした途端、愛とも憎悪とも分からない何かに。

 ――始めて、感情に体が支配された。


「ねぇ貴咲……、君は良い奥さんだね」


「はい? 食事も作らない妻ですけど? その目は節穴ですか旦那様?」


「違うよ、――君を見る度に、美しいと思う。愛おしいと思う、とても幸せだと思うんだ…………僕の中にある憎しみがまだ、燃えているコトにだって気づかせてくれてさ」


「ッ!? ――――ははっ、心の底から壊れてるのですね旦那様?」


「そうさ、君たちが生み出した壊れた人形だ、嬉しいんだ、君への愛が、その血への憎悪が、僕を人間にする」


 その時、貴咲は腑に落ちた気がした。

 やはり、そんな感情すら浮かぶ。

 執着は愛だけではない、復讐だ、無理矢理に妻にし囲っている事こそが彼の復讐なのだ。


(可哀想なヒト……、痛めつける事すら出来ずに、中途半場に妻としか扱えず、復讐心がなければ、私への愛がなければ死んでしまう生き物)


 誰よりも強いのに、滑稽なほど弱くて不器用。


(愛してる、なんて一生言ってあげないわ)


 その言葉は貴咲の敗北であり、雷蔵の心の死である。

 満たされたいのに、満たされたら死んでしまうのだ。

 だからきっと、料理を始めたのも貴咲の関心を、愛を得たいからで。

 ――誘うように、謡うように、彼女は囁く。


「私の為に食事を作るのも、復讐ですか旦那様? 権力者の妻として栄華を極める筈だった私への、意趣返し……」


「そうかもしれない、でも……分からないんだ、愛してると口にしてもさ、それが復讐心なのか本当に愛なのか、誰も何も教えてくれなかったから」


「愚かね、そんなの誰も教わらないし、分からない事だわ」


「じゃあ、僕はどうしたら良いと思う?」


 結婚したなんて形だけの事だ、雷蔵は夫として愛してないし、貴咲も妻として愛していない。

 何もかも終わった後に始まった関係は、とても歪で。

 

(だから藻掻いているのね、貴方も、私も、夫婦として、人として、欠落した人生を歩いてきたから……)


 全てが手探り、二人っきりで暮らす事だって初めてだ。

 その事に気が付くのですら、三ヶ月経った今であり。

 という事は、だ。 


「…………バカの考え休むに似たりよ、今日はこのまま過ごしましょう。夕食は適当にピザでも頼むとして」


「ええッ!? 作らせてくれないの!?」


「だって貴方、作るの見てて怖いのだもの。きっとこの前のはまぐれで完成したとしか思えないし」


「えー、折角教えて貰ったのにカルボナーラの作り方……」


 しょんぼりする雷蔵に、貴咲は軽く眉を動かして。


「どうせ女の方なのでしょう? 他の女に習った料理を妻に味あわせるなんて良い趣味をしてますね??」


「誤解だよ、教えてくれたのはジェイムズの方。あ、君は知らなかったっけ運び屋の二人のコト」


「……ああ、そういえば誰かが言ってましたっけ。腕は良いけれど珍妙な運び屋の二人組の事を」


「そうそれ、運び屋M&J。昔から個人的に利用してるんだ」


 三ヶ月前の惨劇の準備にも関わっているのだろう、と貴咲は直感したが。

 ともあれ、彼から他の女の匂いがした理由も見えてきた。


(確か……外国の男女の二人組だったわね。なら、挨拶にキスぐらい、うん、するかも)


 心にモヤっとした何かを感じながら、はぁと溜息を一つ。


(私は……雷蔵が好きなのかしら? それとも既に愛して? 分からない、分からないけれど……)


 憎悪や愛を別として、彼に頼らないと生活が成り立たないのも確かだ。

 正確に言うと、彼の妻でいること、それそのものが彼女なりの意趣返しでもあり。

 つまり、適度な飴は必要であるとも認識している。


「…………では問題です、カルボナーラのソースを作るときの火加減は?」


「え? 早く食べたいし強火で良くない??」


「はいダメ!! あー、もう……、私が側で見てますから、ちゃんと美味しく作ってくださいよ?」


「それってオッケーってコト!! やったーー!!」


「きゃっ!? いきなり抱き抱えて立ち上がらないで!? そのまま調理する気ですかおバカ!!」


 貴咲は不安しか無かったが、ともあれカルボナーラを作ることになったのだった。


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