ターゲット2/妻に捧げる初めての『キーマカレー』②
とある地方の都心のマンション、その三階に一室を不破雷蔵とその妻は住処である。
三ヶ月前に引っ越してきたは良いか、室内は最低限の物しかなく殺風景で。
そんな中、彼の妻は家を出たときと同じく静かにソファーに座っていた。
「ただいま、貴咲」
「お帰りなさいませどうして死んでいないのです雷蔵、むしろ死んでいないとおかしいでしょう? 私を愛しているなら苦しんで今すぐ死ぬべきでは?」
「およよ……、妻が罵倒して心が壊れそうだ……、でも嬉しいよ、だってそれは貴咲が僕に関心を持ってくれてるって事だからね」
「…………ちッ、今すぐその減らず口を閉じて死ねばいいのよ旦那様」
「そうそう、晩ご飯はカレーを作ろうと思うんだ。食べてくれるよね?」
「………………はああああああああああああああああああああああああああああああああッ!? アナタが夕食を作るですって!? 本気で頭でも打ったの!? それとも毒を盛って私を殺――――あぐぁッ!? ああもうッ、いい加減に外しなさいよこの鎖!!」
洗面所で手洗いうがいをする雷蔵に駆け寄ろうとし、妻・不破貴咲(ふわ・きさき)は鎖に阻まれた。
そう、鎖である。
結婚三ヶ月目、新婚の妻である貴咲の首には大きな鋼鉄製の首輪と重たい鎖がついていた。
(まったく……このクソ男は何を考えてるの?)
彼女のとって、夫である雷蔵は不可解なクソ男に他ならなかった。
好感度はゼロ、結婚なんて以ての外の存在でもある。
そんな彼と、どうして貴咲は結婚しているのか。
(機嫌を取ろうとしてるの? ははッ、お笑い草ね、そんなコトで私の恨みは――絶対に晴れないし許すことなんて一生涯無いわ)
不破雷蔵こそ、貴咲にとっての怨敵であり宿敵であり、この世で一番嫌いな男だ。
どうして好きになれようか、どうして愛せようか。
(私は決して忘れないわ……、妹を、両親を、一族郎党に至るまで全て殺されて、何日も犯された挙げ句に無理矢理に妻にされて、嗚呼、嗚呼、嗚呼、――どうしてこの憎しみが消えると思うの?)
唇から血が出てしまいそうな程、強く噛みしめる。
そんな姿すら、雷蔵は美しいと褒め称えるのだろうと考えると。
一層、彼女の胸には憎悪が燃え上がり。
(雷蔵……ら104番、貴方など不破の人形でしかなかった癖に……!!)
彼女が雷蔵と名付けた男は、幼い頃に素質を見いだされ不破に拉致され育てられた男は。
三ヶ月前のあの時までは、不破に従順な子飼いの暗殺者の一人でしかなかった。
――とはいえ当代一の実力を持ち、次期当主である妹の婚約者に内定していた事も確かであったが。
(私にもっと力があれば……私が美しくなければ……ッ!!)
美しさは罪、とは誰が言い出したのか。
彼女にとって腹立たしい事に、それは正しい言葉で。
だってそうだ、雷蔵は貴咲に一目惚れしたが故に彼女だけを殺さなかったのだ。
(言い換えれば、私を手に入れる為に……みんな、みんな殺されてしまった)
そんな憎い相手が、しつこく愛を囁き毎夜犯してくる夫が、料理だと。
今更なんの風の吹き回しだろうか、それとも彼女を苦しめる企みの一環であるのか。
憎悪を瞳に携え貴咲がソファーに座り直した数分後、部屋着に着替えた彼がエプロンをして戻ってくる。
「…………何のつもり?」
「え? もしかしてカレー嫌だった?」
「そうじゃないッ、何でッ、何でそんな――ッ」
「ああ、僕が料理するのが不思議と?」
得心がいったと雷蔵はにこやかに頷いて、愛しい妻に笑いかけた。
「だっていつも出前かカップ麺でしょ? そろそろ普通のご飯を食べようよ」
「へぇ、そう思うのなら妻である私に、貴方が強引に妻にしたこの私に命じれば良いでしょう? ええ、勿論、一族の敵討ちとして毒を盛らせてもらいますが? 貴方が欲しがってる私の、愛する妻の愛ですよ? 本望ではありませんか?」
「まだ死ぬのはちょっと……、それに、ちゃんと栄養つけない君の美貌に悪いからね」
「くッ、ふざけないでください雷蔵!! 貴方の為に私は美しく在るのではありませんッ!!」
キレ気味にまくしたてる貴咲に、しかして雷蔵は顔色変えず。
(嗚呼――今夜も貴咲は綺麗だなぁ……)
うっとりとした眼差しを向ける、重く粘ついた愛情はあって。
不破貴咲、世界の何よりも愛する妻はとても美しい存在であった。
壮絶な色気のある女、と言い換えても。
――長い髪は艶やかで目を楽しませる上に、触り心地が良い。
――大きな切れ長の目は、常に誘われてるような蠱惑的な印象で。
――思わず吸いつきたくなる、厚ぼったく柔らかな唇はリップを塗らずとも朱色に煌めき。
(誰にも渡さない、貴咲は僕の妻だ)
胸は大きくしかして形が良く、腰はくびれ、臀部はスカートを盛り上げる様にボリュームがあって勿論、美しい形をしていた。
太股も足も、芸術とエロスを両立させた美術品の如く。
――否、正しく芸術品なのだ。
(例え、僕を好きにならなくても、愛してくれなくても、……ごめんよ、もう君を離せないんだ)
不破という黴びて腐り落ちた名家が生み出した、美しさの怪物。
時の権力者との結びつきを強くするために、代々の当主が美しい女性を妾にして『配合』を繰り返し。
男に取り入るために、男を悦ばせる為だけに、作り出された高価な商品なのだ。
「…………気持ち悪い、そんな目で見ないでくれませんか?」
「ごめん、君がそういうのを嫌ってるのは百も承知なんだけどね。――もう、僕は手遅れだから」
「ええ、そうでしょうとも。素直に操り人形で居たなら当主に次ぐ権力すら得られたのに、そうしてから私を奪い返す事すら可能だったのに。……ふふッ、死体が散らばる中で私を無理矢理犯した気持ちはどうでした? ええ、さぞ心地よかったのでしょうね?」
「この世の天国かと思ったよ、復讐の達成と、君という至宝を手に入れる事ができてさ。あのままセックスし続けて焼け死んでも良いとすら思ったよ」
「――――本当に、度し難いほど狂っているのですね旦那様は」
不機嫌そうに睨みつける貴咲に近づくと、雷蔵はそっとその頬に触れる。
彼女はとても嫌そうに顔をしかめて視線を反らすも、抵抗はせず。
無駄だという事が、この三ヶ月間で十二分に理解してしまったからだ。
「帰宅早々、また抱くのですか?」
「お腹減ってるから食事が優先だね、それにさ……」
「何か? 私が美しいのは変わらないので食事とやらを作ったらどうです?」
「……今日は、その服を着てくれたんだ。ありがとう貴咲」
「ッ!? あ、貴方の為ではありません! ええ、いつもの格好に飽きただけです!!」
彼女はいつも、当てつけの様に無地のTシャツとジーパンという格好だけをしていた。
雷蔵に向けて着飾る事などしないと、口に出してまで言っていた。
だが今は、彼が買ってきたボーダーのトップスとロングスカートを着ている。
「マネキンが着てた一式を買ってきただけだけど、君が着るとオーダーメイドみたいに見えるね」
「ふぅん、貴方の好みの服ではないと?」
「適当だった事は認めるけどね、君に似合うかなって選んだんだ!」
子犬の様な無邪気な笑顔を向ける雷蔵に、貴咲は深く溜息を吐き出した。
今だに慣れない、不破に居た頃の彼は本当に無表情の極みで。
あの惨劇の夜だって、顔色ひとつ変えずに彼は同じ境遇の義兄弟すら殺していたのに。
「…………サイズ」
「え?」
「サイズ合ってなかったわ、今度から服を買うなら私も連れて行きなさい。――逃げないから」
「………………ありがとう貴咲、うん、じゃあ僕はカレーを作ってくるよ。君も食べてくれると嬉しいな」
機嫌良く台所に向かう雷蔵を、貴咲はボヤっと見送る。
無意識に首輪と鎖を指でなぞって、己自信を嗤う。
(馬鹿なのは、狂ってるのは私もね)
彼は毎朝、起きると同時に首輪を付ける。
不安そうに、懇願するように。
(鍵も付いてない首輪なんて、本当に愚かだわ)
逃げだそうと思えば逃げれる、服を自由に着替えられるし、買い物だって行ける。
でも、そうした所で何になるのだろうか。
貴咲には何もない、男を慰めるだけに作られた彼女は一人では生きていけない、居場所もない、作り方も分からない。
(外に一歩踏み出すのと、雷蔵に……いえ、考えても無駄ね。どうせ逃げても追いかけて捕まるもの)
彼の妻という居場所以外に、己には何もない。
この美貌が衰えた時、彼に捨てられるのだろうか。
彼が他に愛する何かが出来たら、きっと捨てられてしまうだろう。
(脂ぎったクソジジィの妾として飼い殺しになるのと、どっちがマシだったのかしらね)
そう考えた瞬間だった、貴咲の目は驚きに見開いて。
「――――ちょっとちょっと雷蔵ッ!? 貴方いったい何をしようとしている訳ッ!?」
「え? 何って、今から玉葱を切ろうと思ってるんだえど?」
「なんで玉葱切るのに刀を持ち出してるのよッ!?」
「ああ、安心してよ。この刀は新品だからさ」
「そういう問題じゃないッ!?」
貴咲の全身へとても悪い予感が襲う、まさか、もしかして、聞きたくないけれど聞かなければいけない。
彼は、雷蔵は本当に。
「――――ね、ねぇ旦那様? 調理のご経験は?」
「今日が初めてだね、でも安心してよヨシダさん達に色々教えてもらって来たから」
「うわあああああああッ!? 玉葱は皮を向いてから! まな板はどうしたのよッ!?」
「え? 玉葱って皮を剥かなきゃいけないんだ、これは知らなかったなぁ……」
関心するように頷く夫に、妻の額に盛大な冷や汗が流れ始める。
失念していた、あまりにも自然に作ろうとするから、てっきり経験があるものと思いこんでいた。
(殺ししか教えられてこなかった人が、小学校すら通ってない人が、料理なんてやったコトあるわけないでしょうにぃッ!!)
その時、初めて貴咲は痛感した。
(もしかしてこの人、……私が居ないと本当に生きていけないッ!?)
思い返せば、彼には知識の偏りが大きく見られた。
金銭感覚も大ざっぱで、掃除だって今の同僚に教えて貰ったと言っていた気がする。
各種契約書類のアドバイスを求めていたのも、妻としての自覚を促すのではなく、判断が付かなかったからではないか。
「貴咲? なんでそんな変な顔してるんだい?」
(お、落ち着きなさい私ッ、大丈夫、この三ヶ月の間で会社勤めは何とかなってたじゃない。……いえ違うわ、仕事をする知識だけ与えられてたってコト!? なんて教育してるのよウチは! もう全員死んでるし屋敷ごと全部燃えて無いけども!!)
「――玉葱の皮って、どこまで剥けば良いのかな。ああ、迷ったらスマホで動画探せって言ってたっけ」
(あわわわわッ、私が何とかしないと!!)
今ならまだ間に合う、貴咲はひきつった顔で雷蔵に告げた。
否、命令した。
この際、手段は選んでいられない。
「ね、ねぇ旦那様? 貴方の愛しい妻が側で指導してあげるから、私の指示通りに作らない? 作ってくださいまし、作れ」
「え、ホント!? やった! 夫婦の共同作業だ!!」
満面の笑みでお揃いのエプロンを差し出す雷蔵の額を、貴咲はどんよりした目でデコピンしたのだった。
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