ROOF HOUSE

百舌

ROOF HOUSE

 湾岸戦争中にぼくはマレーシアにいた。

 マレーはイスラム教を国教としていて、その当時はイスラム圏の渡航は避けられていたので、格安航空券が香港で飛び交っていた。

 マレーシアは他民族国家でもある。

 マレー人が人口の6割強を占め、マレー語が柱でもあるが、かつて英連邦の一角でもあり、アジア圏では見事なキングズイングリッシュが聞こえてくる。

 それに続いて3割弱の華人、インド系が1割弱を占め、中国語とタミル語が交わされ、ヒンデゥの神も大乗仏教の仏もそれぞれに祀られている。

 果たしてマレー系の人口が多く、特に戒律の厳しい東海岸では、24時間をモスクから流れるコーランの音と、藍色の幾何学模様に染め上げられていた。

 密林と焼き畑とゴムの木のプランテーションを抜けてディーゼル列車は、うらぶれた熱帯のパシル・マスへ乗り入れていく。そこから乗り合いバスを乗り継いで、東海岸最大の都市の都市コタ・バルが目的地だ。

 ぼくは小さなディパックを片手に、そのバス・ステーションの待合室を探索していた。海外放浪の最大の楽しみが、現地の風習を観察することだ。

 男たちは白いサロンを着ていて、黒いソンコを被り、歩き回りながら声高にしゃべっていた。

 女たちは極彩色の、ときには真っ黒のバジュ・クルンを着ていて、白いヒジャブで髪を隠している。彼女らは犬の警察官に引率されてきた猫のように、慎み深く長距離バスの待合室に並んで座っていた。

 ぼくが無精ひげを撫でながらそこに入っていくと、一斉に瞳をあげたその瞬間の美しさには、はっと息を呑んだのを覚えている。

 まるで修道院に、うっかり道を間違えて入り込んだ破戒者のような気分がしたものだ。


 29番の路線バスでコタ・バルに到着した。

 バス・ステーションに降り立つと、暇を持て余した3輪タクシードライバーが、生魚と蠅の親密さを思わせるような態度と密度で集まってくる。ぼくの彼らに対する態度も、不謹慎ながら煩そうに手を振る横柄さだ。事実上、うるさいは五月蠅とも書くのだ。

 その場所に好感を持てる謙虚さで、ひとりの少年がチラシを持ってやってきた。

 タウン・ゲストハウス。

 彼の手にしたチラシにはそうあった。

 聞けばここから歩くのにはやや遠いが、3輪タクを勧めてくることもなく、かませではなさそうだった。いい宿というのはフレンドリーさが一番ということが、旅人にはよくわかっていた。赤道近くの炎天下の午後であり、アスファルトには陽炎が立っている状況なので、ぼくは即座に決断していた。


 ゲストハウスのチェックインを済ませて、軽くシャワーを浴びた。

 もちろん露天天井に受ける太陽熱で炙られた温水シャワーだ。夜には冷えて心地よいくらいだろう。

 水を身体に受けて、ちゃんと頭が働き出した。

 露天天井の一角に、木造の屋台が設置されていた。白と青のストライプの幌屋根が屋台を覆っていて、取りあえず直射日光だけは防げそうだった。

「若いの、なんにするね?」とカウンターのなかにいた白人系の親父が声をかけてきた。

「もっとも最初の一杯は、ゲストハウスのおごりだぜ」

 いきなりブルウ・アイズ、若いの、ときたものだ。

 もう日本では若造でもなかったが、彼にはそう見えるのだろう。

「ちゃんと豆から挽いてくれるのかい。それともネスカフェのことを珈琲と言っているのかな?」

 当時のマレーのCaféでは、焙煎豆に並んでインスタントものが、誇らしくメニューに掲載されていた。このような格上げは中近東でもよく見られていて、むしろ焙煎豆よりブランド性があったくらいだ。

「挽きためた奴だけど、豆には違いないぜ、若いの」

「それは嬉しいね。ただしそんなに子供でもないので、ストレートでくれないか」

 懐かしい芳香とともに、珈琲をネルドリップしてくれた。ああ、貴重な場所を得たと思った。ただしひと口含んでみると、熱帯の湿気を吸って、渋みが強い出来栄えではあったが、本物の珈琲には違いなかった。

 その様子を親父は遠目で見つめていた。催促をされたわけではなかったが、「腹が減ってきたよ。フライド・ライスをつくってくれ」と注文した。

 初老の親父は、はっはぁと快活に笑ってフライパンを手に取った。

 これがぼくとアンドレアの出合いだった。


 親父は、自分はイタリア人だと言った。

 名はアンドレアだという。

 この名前さえ彼はなかなか明かそうとはしなかったし、写真の一枚さえ撮らせてはもらえなかった。

「おれはな、坊主が想像もつかないようなトラブルを抱えているのさ。もう20年もタイとマレーを回っている。だから写真だけは勘弁してくれないか」

 そう語ったときの彼は、不摂生がたたった007のような表情をして、ぱちんとウィンクしたものだ。実際に禿げ上がった丸い額に、深い年輪を刻んだ目元の皺さえ、彼はショーン・コネリーにそっくりだった。

 20年もの間、査証をどうしているのだろう、と怪訝に思った。やはり映画のようなご都合が彼には通用しているのかな。

 付け加えるならば彼はコネリーよりも15ポンドは重そうな下腹をブルーのTシャツに包み、油染みのついた灰緑色のエプロンを掛けていた。

 同類項をあげるならば、緩くなったTシャツの首元から密生した胸毛を覗かせていたことだろう。


「・・・アンドレアって、麻薬の運び屋でもやってたんじゃないか」

 ぼくよりも数日前からこのゲストハウスに逗留していたケンが言った。無国籍な顔だちをした日本人だが、漢字が似合わないほど英語が堪能だった。

「東南アジアでお尋ね者といったら、運び屋か詐欺師が相場だぜ。それにアンドレアは本国を食い詰めたフランス野郎と親しいじゃないか。今でも葉っぱあたりを連中に分けているのかもしれないぜ」

 この国では麻薬の所持や密売は、厳罰だ。

 量にもよりけりだが、麻薬犯罪で死刑判決が下るほど、過酷な処分が待っている。

 しかし国から麻薬を一掃するなんてできやしない。

 麻薬を生産する三日月地帯がタイ・ラオス・カンボジアの国境山脈に跨っている、それが理由だけではない。

 他民族国家の習いとして、社会の排他意識は根強い。麻薬に溺れていくだけの、冷たい現実がしっかりと庶民の生活に根を下ろしているのだ。

 仮にそれが事実だとしても、ぼくのアンドレアに感じた好意は揺るぎもしないだろう。

 ぼくはこの町にいる間、全ての食事を彼の手料理で摂っていた。

 彼はぼくが生人参を一本は食べられないことや、オムレツには必ずケチャップソースをかけることを一回注文するだけで察してしまった。

 だから二回目からは何も言わずとも適量の人参を刻み、ケチャップソースの瓶をカウンターに置いた。そんな距離感を保つ姿勢には、彼の人柄が溢れていた。



 アンドレアのレストランは屋上にある。

  熱帯の地平の向こうに、夕日が燃え尽きるのを見ていることが、彼にはある。しかし海はそこからは見えない。

 そのカウンターでぼくは、ドイツ系スイス人のアイリーナを口説いたことがある。

 彼女はきらきらとした緑の瞳を持っていて、ぼくの話に身体を乗り出して聞き入ったものだ。ただ問題があって、それは彼女は英語が上手く操れないということだった。

 ぼくが英語で冗談を言い、アンドレアがそれをアルプス訛りのフランス語に訳して彼女に伝えるといった、まるでゴルバチョフ政権下のモスクワで牛の脂身を買うような手間暇がかかった。

「・・・・ひどい失恋をしてね」とぼくは切り出した。「自分の気持ちがどこにあるのか、全くつかめないほど悩んだんだ。でも最近になってね、ようやく立ち直ったのさ」

「よかったわ。そんな話は聞いていてとても嬉しい」

「当時は自分のことしか視界に無かった。そのなかに誰かを包む余裕が無かったんだ。なんのことはない。壁をつくっていたのは、紛れも無いぼく自身だったのさ」

「ベルリンの壁みたいに?」

「そうベルリンの壁みたいに、気づいた時にはもう遅い壁。しかし壁というものは。ある日に突然に崩れる。そのことが存在意義だったみたいに」

「羨ましいな。そんな体験」

「キミにもすぐに実感できるはずさ。一歩踏み込んだらいい。そうしたら、ぼくたちの間には、もう壁はないんだぜ」

 彼女が部屋に帰ったあと、アンドレアは沈痛な表情をして首を振った。「構わないさ。おれはタフだからね」

アンドレアは苦笑し、ぼくのおごりのパイナップルのジュースを飲んだ。

「聞いた風な台詞だな。イタリアから来たカメラマンもそう言っていたものさ。そいつはここで夢に敗れてしまってね。変に大人ぶった仕事に手を染めて、とうとう愛する母国にまで振られちまったのさ」

 彼はくたくたの皮製の名刺入れを、半ズボンの尻ポケットから取り出した。それから彼は変色してしまった写真を名刺入れからちらりと見せた。

「・・・・そいつの娘が結婚前に送ってきた写真だよ。もうそいつは孫をこの手で抱くことすら一生できねえのさ」

 栗色がかった長い髪を束ねて、ミラノあたりの石畳を大股に歩く女の写真だった。どことなくアンドレアの面影を伝えていた。

「・・・・馬鹿な意地っ張りだったよ、そいつは・・・・」

 呟くような声、遠い視線。

 そして重い沈黙。

「パスタが食べたいな、それもミラノーゼがいい。トマトの格別にきいた奴。そしてパルメザン・チーズがここにあったら完璧、なやつをさ」と、沈黙を破るためにぼくは言い、「お安いご用さ」と、快活なはずのイタリア人は湿っぽく笑って厨房に立った。

 やけに小さく見えたその背中をいたわるように、そして自分自身さえ励ますようにぼくはこう続けた。

「それから珈琲も頼む。今夜は長くなりそうだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ROOF HOUSE 百舌 @mozu75ts

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ