第7話 季節の変わり目

 私の通う学校から歩いて数十秒、学校の敷地内にある学生寮。通学路なんてないに等しいそこで一年と半年近い年月を過ごした私は、がらんとした小さな一室で、染みついた懐かしさに感傷的になっていた。


 というのも、こことは二ヶ月近く離れていたから。夏休みになると、寮生は実家に帰る人がほとんどで、私もその一人だった。


 そして今日が夏休みの最終日で、始業式を明日に見据えている私は、またその馴染んだ生活へと戻るため、ここに来たというわけだった。


「春休み、以来か」


 生活の足跡がなにもない場所。実家に帰省する際自分のものは一度すべて持って帰り、残った机やベッドも寮母さんに整えられて、入学式の前この場所に初めて来たときと同じ状態だった。その、人がいた形跡がぽっかりと空く感覚を私は知っている。


「……るるちゃん」


 二段ベッドへと目を向ける。上の段は、私のベッド。これから私の色が嫌でも滲む。そして下の段は、まだなにもない。


 もしかしたら、ずっとこのままかもしれない、そんな空虚な気持ちを、私は知っている。


「帰ってきて早々ほかの女の人の名前を呼ぶなんて、浮気者ですね」

「うわぁっ!?」


 突然後ろから声が聞こえてオーバーリアクションのまま振り返る。


 そこにはルームメイトの、ここちゃんがいた。


「え、いつきたの?」

「今まさに来たところですけど」

「えぇ……? 扉開く音すら聞こえなかったんだけど、忍者?」

「なんでですか」


 ここちゃんが呆れた顔で返してくれる。それにどこか、でも確かに深く安心して、私は長い息を吐く。


「おっきなため息ですねぇ。そんなに夏休み中、会えないの寂しかったですか? もー、一緒に海へ遊びに行ったじゃないですか♪」

「まあ、それもあるけど……」


 そういいながら視線を二段ベッドの下段にやると、今度はここちゃんがため息を吐いて、視線を遮るように私の前に立った。


「浮気は厳禁ですっ! 今は、ここがいるじゃないですか。それに、るるさんと会えなくなっちゃったわけじゃないでしょう? またいつか遊びに誘えばいいじゃないですか。ま、そのときはここも絶っ対についていきますけど」

「……そっか、そうだね。というか、そんなにるるちゃんと仲良くなったんだ。また遊べたらいいね」

「むぅ……」


 ここちゃんがどうしてか頬を膨らませたので不思議に思っていると、ぐぅ~、とどこからか空虚な音が聞こえてきた。それと同時に、バッととっさにここちゃんはお腹を押さえて、顔を赤くした。


「ご、ごめんなさい」

「ううん、別に大丈夫だよ。そっか、もうお昼かぁ」


 スカートのポケットからスマホを出して、ロック画面の上部を見ながらそう呟く。私が家を出てからもう数時間経ってたんだなと時の流れを実感していると、ここちゃんが持ってきた荷物をベッドの横に置いて言った。


「先にご飯、食べちゃいましょうか。荷物の整理もあるので、前みたいにお外へ行くのはやめときましょう」

「そうだね。食堂、今日やってるよね?」

「やってましたよ。さっき美味しそうな匂いが漂ってきました♪」


 そう笑顔で答えるここちゃんの言葉に、本能的に自分も腹を空かせていることを直感した。


「それじゃあ、ぱぱっと食べて、ささっと荷物片づけちゃいましょう!」

「別にそんな急がなくてもいいよ?」

「もう! こういうのは勢いが大事なんです! ……でも、ご飯はよく噛んで、ですもんね♡」

「うん……? そういう、こと……かな?」



***



 始業式を明日に見据えた生徒たちのうち、私たちのようにお昼前に寮へと戻ってくる生徒はそれなりにいる。そんな生徒たちのために食堂は始業式の前日からやっている。


 そんな食堂へと足を運ぶと、学校があるときと遜色ないほどの人数がこの場で談笑とともに食事を取っていた。溢れ返らんばかりの勢いで席を埋め尽くしていて、二年生だけでもこの状況なのは改めてみると圧倒される。それなりにいるとはいったが、むしろ昼前に戻ってくる生徒の方が多いかもしれない。


「あ、ここちゃ~ん!」


 食堂に入るや否や、ここちゃんの存在に気づいた生徒の一人が手を振りながらこちらに近づいてきて、勢いそのままここちゃんに抱き着いた。


「会いたかったよ~!」

「も~、いきなり抱き着かれたらびっくりしちゃいますよ~」


 小柄なここちゃんは、その生徒の腕の中にすっぽりと収まりながら、まんざらでもない笑顔を浮かべている。その様子に気づいた他の生徒たちも、次々とここちゃんの元へと駆けよってきた。


「ここちゃんだー! 久しぶりでも可愛いなぁ~」

「ねぇねぇ、夏休み中なにしてた? 誰かと遊んだりした?」

「夏休み中に開発したお菓子の試作品、ずっと食べてもらいたかったんだ! あとで食べてみてよ!」


 その生徒の流れはいつしか大きなうねりとなり、私を呑み込んだ。けれどその中心にいるここちゃんは気圧されることすらなく、一人一人と楽しそうに話している。


 可愛らしくて、人当たりもよいここちゃんは、二年生ばかりのこの棟の中で唯一の一年生というのもあって、寮で過ごしている際ずっとみんなから可愛がられていた。


 その証明のように、今私の目の前でここちゃんを中心としたうねりが出来上がっている。流石にいつもはこんなになることはないのだが、夏休み中ここちゃんと会えなかったのもあってか、今日はこんなことになっている。


 渦の中心で笑顔で駆け寄ってきた生徒と話しているここちゃん。今日初めて私から目線が離れてほかの生徒にそれが向いた瞬間、胸のあたりがジンと滲むような、もやもやが広がっていく感覚を覚えた。


(……?)


 その違和感に自然と胸をさすった瞬間、ハッとして今の状況を思い出した。このまま券売機にすら到達できないのも困るので、罪悪感を感じながらもその違和感に突き動かされるようここちゃんのいる場所までうねりをかき分けていった。


「ここちゃん、ご飯、食べないとっ」

「あ、そうでした! 先輩方、ごめんなさい。ここたち、まだ荷物の整理終わってなくて。ご飯食べたらすぐ部屋に戻らないといけないんですよ」


 ここちゃんがそういうと「それならしょうがないね」と生徒たちはここちゃんから離れていった。


「さて、それじゃあ先輩、ささっと食べちゃいましょう♪」



***



 ここちゃんのご飯と言えば、見たら思考が数瞬停止するその量。今日もテーブルを埋め尽くさんばかりの品々に丼かと見紛うほど大盛りのご飯。そしてその中心にミスマッチな小柄の少女。しかし海水浴でのヤケ食いを見た私はあれの数倍はマシだなと驚くことすらなかった。


「びっくりしたねぇ、あんな人だかりできるとは。ここちゃんが人気者だからかな」


 テーブルに上がった話題は先ほどのうねりの話。今はみんな自分のご飯のためにそれを食堂のおばちゃんに向けている。受け取り口でその対応をしているおばちゃんは波を一身に受けても動じずに皆にご飯を届けている。あの圧を受けるものは総じて平然とできる強さがあるのかとここちゃんをもう一度見ると、きょとんとした顔でご飯を口に運んでいた。


「そういえば、四月の始業式だったかな。そのときもあんな感じだった」

「始業式……?」


 私は記憶の中にある今年の始業式の朝、ここちゃんと食堂に来たときのことを話す。そのときは二年生の寮に入ってきた噂の一年生という名目で先ほどと同じように人だかりができていた。


 大量のご飯に囲まれ、人だかりに囲まれ、その中心に笑顔で人だかりと話しながらも周りのご飯を着々と食べ進めていく光景は、おそらく二つと見ない景色だったので鮮烈に頭の中へと刻まれている。


「そんなことありましたねー。でもいつもそんな感じじゃなかったですか? ほら、最初の頃はよく晩御飯のときに色々な人来てたじゃないですか」


 それはその始業式のときから後のこと。その日の晩御飯からここちゃんと話したい子たちが毎日日替わりでここちゃんの横の席に座りご飯をともにしていた。


 自己紹介をし、趣味の話をしたり、「可愛い!」と褒められたり……そんな光景が毎日あって、数週間後にその一連の流れが収まり久しぶりに二人きりで晩御飯を食べたときにはなんとなく物足りなく感じたくらいだ。


「さっき囲まれたときは久しぶりに一緒にご飯食べると思ってたんですけど、誰も来ないですねー」

「ここちゃんが忙しいってさっき言ったからじゃない? みんな慮ってくれてるんだよ」

「そんな遠慮しなくてもいいのに……みなさん優しいですよね♪ そんな皆さんに囲まれてるここは幸せ者だなぁ……♡」


 物理的に囲まれてるのはいいのだろうか。そんな疑問は幸せと言ったここちゃんの笑顔と先ほど囲まれてた時の笑顔が重なったことで消え失せた。


 けど、上級生に囲まれて、囲まれていなくても私がずっと近くにいて。それって……。


「ごちそうさまでした」

「……えっはや」


 手を合わせて食事の終わりを告げるここちゃんに気づくと、私は急に焦りが背中を駆け上がってきた。それもそのはず、空っぽになった器の数々を並べているここちゃんよりも、定食一人前を頼んだだけの私の方が遅れていたのだから。


「ごめん、すぐ食べ終わるね!」

「大丈夫ですよ、ゆっくり食べてください。先輩の食べてる姿見るのも好きなので♡」

「食べてるところ?」

「はい♪ 小動物的可愛さ、あるじゃないですか♡」


 私はなんだと思われてるんだろう。ここちゃんの中での私の人物像の不明さに元々遅かった手がぴたりと止まった。


 なんとかなるはやで食べ終わった私は、話しかけないでいてくれたみんなの気持ちを無下にしないためにも、荷物整理を早く終わらせて話せなかった分を取り戻そうとせっせと自室へ戻った。


「よぉし。それじゃ、荷物整理、がんば――」


 コンコン。


 扉を叩く硬質な音が天井に着きだそうとした私の拳を強制的に下ろさせ、同時に首もがっくしと落とした。


「くそぅ。柄にもなく私がやる気を出そうとしているというのに」

「あはは……にしてもなんですかね? 忘れ物とかしました?」

「さあ? 私が出るよ。ここちゃんは自分の荷物整理しててね」


 私は玄関と部屋を仕切る中扉を開け、そのまま玄関へと駆けつけた。


 その瞬間今度はドンドン! としびれを切らしたような荒いノックになって、訪ねてきたのが誰か瞬時にわかった。


「はぁーい……なんだ、やっぱりか」

「なんだとはなんだ。そしてやっぱりとはなんだ」


 扉を開くと、そこには見知った顔が二つ。隣の二〇一号室の住人であり、私と高一からの友達の知世と円だった。おそらく最初の優しいノックは円ので、荒いノックはせっかちな知世のだ。


 私と会った矢先に苦言から入る知世も、その後ろで苦笑いしてる円もいつも通り。夏休み中もここちゃんと二人と私の四人で海に遊びに行ったのもあって、代わり映えのしない光景……なのだけど、どこか困った様子がうっすらと二人に染みついていた。


「……どうしたの、なんかあった?」

「あー、やっぱり気づく? さすがだね、恵莉花ちゃんは。人のことには敏感だ」

「その調子でここちゃんにもできればなぁ」

「なんかよくわかんないけどとりあえずディスられてることはわかる」

 

 目を細めて二人に視線を送っていると、知世が思い出したようにハッとする。その様子に私と円は少しビクッとしてしまった。


「そうだ! こんな漫才未満なことしに来たわけじゃないんだよ!」

「未満って、まず漫才をした覚えないけど」

「あのね恵莉花ちゃん、今ここちゃんいるかな? いたら呼んできてもらえる?」

「いいけど……どうしたの?」

「えっとね……」


 そこまで言うと、急に円が言い淀んだ。私が首を傾げてその場にしばらく沈黙が流れると、円は頬を搔きながら苦笑い、というより愛想笑いに近いそれを浮かべながら口を開いた。


「校長と副校長が……ここちゃんのお父さんとお母さんが来てるの」

「……ん?」



***



「なんでですかぁー!?」


 ここちゃんの驚きは、私の薄めたお茶のような味気ないものよりも何千倍と濃いものだった。


 先ほど円の口から聞かされたものを、ここちゃんを呼んできてもう一度円から一緒に聞いた。


「なんで……学校来るならここがわざわざバスに乗らなくても送ってもらえばよかったじゃないですかー!」

「そっちかよ」

「ここちゃん、バスで来たんだ」

「恵莉花も突っ込むところそこじゃない」


 ここちゃんの家が学校からどのくらいの距離あるのかは知らないけれど、目の前でがっくり崩れ落ちているここちゃんを見るあたりそれなりの長旅をバスでしてきたのだろう。……ただの大げさなリアクションかもしれないけど。


「まあ言いたいことはわかりますよ」

「あ、立ち直った」


 ここちゃんががっくり落としていた身体をひょいと起き上がらせて、目の前の二人に頷きながら言う。


「おそらく、先輩とここにお話があるんでしょう?」

「まあ……おそらく、ね。私は寮に来たときすれ違った校長に『心愛と恵莉花君の友達だね。二人を呼んできてくれないか』って頼まれただけだから」

「あれ? お二人とも父と母に会ったんですか?」

「ああ、ラウンジ横切ったときにな。多分今もそこの椅子に座ってる」

「二人とも、今来たの?」

「うん。私たちはお外でお昼ご飯食べてから寮に行こうって話してたの」

「ちなみに、みーんな校長の圧に負けて今ラウンジには人っ子一人いない」

「お父さん……」


 ここちゃんが頭を抱えて今日一番大きなため息をついた。そのため息を吐いているここちゃんに先ほどから頭に上っていた疑問に首を傾げた。


「校長はわかるけど、どうしてお母さんまで?」

「あれ、もしや恵莉花知らない?」

「そういえば、母のことは話してなかったかもしれませんね。祖父と父のことは話しましたけど」


 それは忘れるわけもない夏休みに入るちょっと前の話。ここちゃんのおじいちゃんはこの学校の理事長で、お父さんはこの学校の校長というもの。肩書をとりあえず上から順につけていったようなそれは、紛れもない事実で私の思考は停止した。


 ここでおじいちゃんとお父さんの話が出てくるということは、もしや……。


「ここのお母さんは、この学校の副校長ですよ」


 そういわれても、もう驚くことはなかった。代わりに少し固まっただけ。


「恵莉花固まっちゃってんじゃねぇか。おーい、戻ってこーい」

「……はっ」


 目の前で知世に手を振られて、それにハッとさせられて、意識が返ってくる。


「いや、驚いてないよ。さっき円も言ってたもんね。それにもう三回目だからね、慣れてる慣れてる」

「今のお前写真撮って見せてやればよかったか。まあ驚くのも無理はないよなぁ、実質この学校は天羽家に掌握されてるわけだ」

「掌握って……人聞き悪い言い方しないでください」


 校長の名前はパッと思い出せたけど、副校長の名前はパッと思い出せない。そのくらいあまり存在感のあるイメージがなかったから、名字がここちゃんと同じ「天羽」であるかすらわからない。


 でもまあ、今更そう言われてもおかしい気がする段階はとうに超えているので、ただ受け入れるのみだった。


 ただ、受け入れた先にこれから会いに行くのが校長と副校長であるという事実を受け入れる段階があるのだけど。退学するような不祥事でも起こさない限りそんな状況に出くわさないだろう。そのレベルの不祥事を起こしても出くわすのかはやったことないのでわからないけど。


「って、こんな話してないで……とりあえず、父と母のもとに行きましょうか、先輩」

「う、うん」


 結局動揺したまんまの私はここちゃんに腕を強めに引っ張られながら、思い出したように後ろを振り返り部屋の中を見る。そこにはまだ手を一切つけられていない荷物たちがあって、それらが私を引き留めようとする。


「もしかして、荷物の整理……終わってない?」

「うん、実は」

「あら……。まあそれは後でやろ? 私たちも手伝うからさ」

「ありがとう、円」


 笑ってそう言ってくれた円に感謝を述べて、私は腕を引くその力に身を任せた。



***



 ラウンジに行ってみると、いつも雑談であふれかえっているその場所には一言も転がっておらず、代わりに空間の真ん中にある長方形のテーブルをはさんで長いソファが二つ向き合っている場所に、重々しい雰囲気をまとった男女二人が鎮座していた。


 その二人は見たことのある顔で、先ほど知世と円も言っていた、私の通う学校の校長と副校長だった。副校長は顔を見た瞬間、ようやくその存在を思い出せた。言われた後に見ると、確かにここちゃんに少し似ている気がする。


「ど、どうも……」


 あ、これは私から挨拶しないとダメだな、と本能で感じ取り、二人の座っている椅子のそばまで早足で近寄ると、できる限り頭を深く下げて挨拶しようとした。


 けれど二人の圧に負けて先の一言以外なにも出てこなくなった。


「君が、藤田君だね」

「はいっ! そう、です……」


 忘れかけてしまいそうなほど久しぶりに自分の名字で呼ばれて、この場に流れる空気の硬さを実感する。


「お父さん、先輩にそんなに圧かけないで」


 そんな空気の中ここちゃんは一切臆さずに私を庇うように前に出た。その様子を見た校長の目がギロリと私に向いた気がして、背中にぞわぞわっと寒気が駆け上ってきた。


「とりあえず、座ってくれ」


 校長の手が向かいのソファに伸びて、私たちをそこに座るよう動かす。私は「失礼します……!」と窮鼠のようにおびえ切って重たくなったゲームのようなカクカクした動きで座った。


 座ったら座ったで、背もたれに寄りかかるのは失礼だとか目線をどこにやったらいいだとか細かいところがどんどんわからなくなっていって、ますます挙動不審さが加速していった。


 いつもなら癒しに沈められるソファのふかふかさが、今は底なし沼にどんどん溺れていく感覚に思える。


「まず、心愛のルームメイトを引き受けてくれたことについて、今更ながら感謝を述べさせてくれ」

「……はい?」


 予想外の言葉が聞こえてきて、私はぽかんとした表情で首を傾げた。その態度が失礼極まりないことにハッと気づくと漏れ出た声を抑えようと口に手を当てた。


「君にとっては急な話だった上、学年も違う生徒と一緒に過ごすというのは、かなり心の準備が必要だったろう」


 目の前の人の表情は、椅子に座る前となんら変わりはない。けれどその言葉から内にある優しさが伝わってきて、それだけなのに人が変わったように感じられた。


「……あっ、いえ! そんなことないです、全然。ここちゃんと一緒にいるの、楽しいですし」


 目の前の人が変わったことに気を取られて、返答が遅くなってしまった。返答を口にした際、横にいたここちゃんの表情が少し和らいだ。


 校長はというと、目を伏して私の言葉を咀嚼している様子。横にいる副校長は表情を一切変えず聞き役に徹している。


「そうか……そう言ってくれると、こちらも嬉しい」


 その返答に私はとりあえず無難な返答ができていることを確認して少しだけ安堵する。けれど前を向きなおしてもう一度校長と目が合ったとき、ぶり返すように私の身体は硬直した。


「夏休み中、よく君のことが娘の口から出ていてね。楽しそうに君と毎日を過ごしているそうじゃないか。ただ、そのことが少々心配になったんだ……遊びにかまけて、学生の本分である勉学をおろそかにしているのではないかとね」

「お父さんっ……!」

「心愛」


 反論しようとしたここちゃんを鋭い視線とその言葉だけで鎮めたのは、横に座っている副校長。私はその冷たい視線に完全に背筋が凍りついた。


 その私を逃がしまいと校長の視線が完全に私をとらえる。


「場合によっては、心愛のルームメイトを変える必要がある」

「……っ! お父さんっ、それは酷すぎるよ! ちゃんと勉強してるじゃん! 期末試験だって全教科で学年一位だったでしょ!? なにが不満なの!?」

「ここちゃん、落ち着いてっ……」


 怒っているような、悲しいような、そんな顔でここちゃんが椅子から跳び上がってお父さんに言葉を投げつける。熱くなってるここちゃんを落ち着かせなきゃと私の手がここちゃんを引っ張った。苦しい顔をしたのち、観念したようにここちゃんは私の手に引かれもう一度椅子に収まった。


「……それで、一度藤田君に話を聞きに来た。このままでいいかとね」

「……」


 三人分の視線が、私に突き刺さる。校長の選定をする視線、副校長の冷たい視線、ここちゃんの悲痛な視線。それら全部が、私を痛くする。


 ルームメイトを変える? ここちゃんと離れ離れになるってこと? るるちゃんみたいに、もう一度、私は誰かと遠く離れなければいけないの……?


「藤田君は、どう思う。このままでいいか。このまま心愛のルームメイトを君に任せていいか」


 任せる。その言葉に私は圧し潰される。ここちゃんのルームメイトを、高校三年間のパートナーを任せられるほど、私は強くない。隣にいて、なにかできるわけでもないだろう。


 けれど、離れ離れになりたくない、そう思ってる自分はいて、それがただのわがままなのがタチ悪くて。今どうにか言わないと、このまま私たちは離れ離れになってしまう。それだけはわかった。


「……ここちゃ……えっと、心愛さんは、私のことをとても慕っててくれて、私が困っていたらすぐに助けてくれて、とっても優しい子なんです。それに、それに……えっと……」


 言葉を出す最中に、これじゃない、今言うべきはこんなことじゃないと気づいた。もっと、もっと、言うべきことがあるはずだ。あるはずなのにっ……!


「どうした?」

「いえ、なにも……」

「先輩……」


 横を見ると捨てられそうな仔猫みたいに寂しい顔をするここちゃんがいた。この子を手放してしまったら、私はどうなってしまうんだろう。一度じゃなく二度までも、ともに歩んできたパートナーを失ってしまったら。そして、ここちゃんは……。


「……心愛、さんは……私といるだけで勉強をおろそかにするような人じゃない、です……いっつも頑張ってますし、ちゃんと学校にだって行ってます。だから……」


 弱い。こんな言葉じゃ、校長には響かない。こんな言葉しか出ない、私は弱い。


 時間切れ、そう告げるように、校長の口が開かれる。


「それなら、君のもとでなくたってやっていけるだろう」

「お父さん……! どうして先輩とここを引き離そうとするのっ!」

「心愛。いま校長は藤田さんに訊いているの」

「お母さんもっ、なんでなにも言わないのっ!?」


 このままじゃ、壊れる。ここちゃんの家族の関係も、私も、なにもかも。


 視界の端で、ここちゃんの目から雫が零れたのが見えた。その一滴が、私の心を溢れさせた。


「……ここちゃんが、好きなんです……」

「はい? なんと言った?」

「ここちゃんが、好きなんです……!」


 その溢れた感情たちは、私の口から言葉となって出て、奔流のように止まらなかった。その流れ出る言葉がなんなのか、その意味も、自分じゃわからなかった。


 ただ、堰き止められない感情を、全部押し出してしまわないといけない、そんな使命感に駆られた。


「ここちゃんの笑ってる姿が好きです! いっぱい食べる食欲旺盛なところも、みんなから愛されてるところも、無邪気で元気いっぱいなところも、全部……!」


 今私は相手の目を見て話せているだろうか、相手の飲み込むペースを考えているだろうか。そんな会話の基本すら、今は成り立たなかった。意識できる余裕だってなかった。


「ここちゃんは毎日、私と一緒に帰ってくれるんです。私が迎えに来るのを教室でずっと待っててくれるんです。学校から寮なんて三分もかからないのに、部屋に戻ればいくらでも私と会えるのに、その三分のために私を待っててくれるんです。どうしても時間が合わないときは部屋で私の帰りを待っててくれるんです。どれほど遅くなっちゃっても『おかえりなさい』って笑顔で暖かく迎えてくれるんです。こんな私のためにそれまでしてくれて、私といる時間が楽しいって言ってくれるここちゃんが、大好きなんです!」


 その声がラウンジに反響して、消えていくまで誰もなにも言わなかった。壁にその言葉が消え入った瞬間。私は自分が手を付けられないほどにヒートアップしていたことに気がついた。自分一人でだらだらとしゃべり続け、途中からここちゃんと呼んでしまってもいた。


「す、すみません……!」


 離れたくない一心で暴走してしまった自分に嫌気が差す。知らず知らずのうちに前のめりになっていた体勢を元に戻す。ここちゃんの表情をちらと見ると、目を丸くして驚いていた。どういう気持ちなのかはわからなかったけど、悲しそうな表情は消えていたから、それだけ安心した。


「……藤田君」

「――もう、十分でしょう」


 なにかを告げようとした校長の言葉を遮ったのは、副校長だった。副校長の方を見ると、先ほどまでの冷たい目線がもう一度刺さる……気がしたのだけど、先ほどと違いどこか暖かみを帯びたそれに、私は戸惑った。


「こんなにも心愛のことを想ってくれている、それで十分ではありませんか」

「しかし……」

「先ほど藤田さんが言いましたよ。心愛は勉学をおろそかにするような子ではないと。学校での暮らしを一番近くで見てきた藤田さんが言っているのです。……自分の娘が、そんなに信じられませんか?」


 戸惑いが晴れないままさらに戸惑う。てっきり副校長もここちゃんと私が一緒にいることを反対しているものだと思ってたけど……さっきの私の暴走で考えが変わった、とか……? そうは考えにくい気がするけど……。


 そして先ほどまで私に向けられていた副校長の視線は、今校長へと向けられている。それはどことなく冷たさを増している気がする。


「いや……そうだな。そのようなことは、心愛に限って考えられにくいか……わかった。ルームメイトはそのまま、藤田君に任せよう」

「ほんと……!?」


 ここちゃんが前のめりになりながら校長に食いつく。校長はそれに一つ頷いて返すと、ここちゃんは笑顔になって私に飛びついた。


「やりましたね、先輩っ! もう先輩と一緒にいられないかと思いましたっ……!」

「う、うん……よかった、ほんとに」


 そんなここちゃんの様子を見て、私は初めて肩の力が抜けた。けれど、私の中には、また別のもやもやが溜まっていって、手放しに喜べそうにはなかった。


「それでは、私たちはこれで。……急に訪ねてきて、このような話をしてすまなかった」


 校長は立ち上がるや否や、私たちに向かって頭を下げた。とっさに私も立ち上がって、両手をぶんぶんと振って顔を上げるように促す。


 そのまま校長はこの場を去ろう、としたのだが。


「……副校長?」


 横にはいまだ厳かな雰囲気のまま座った副校長がいた。


「……校長、先に戻っていてください」

「は?」

「それと心愛。あなたも先に自室へ戻っていなさい」

「えっ、先輩は……?」


 淡々と告げる副校長にこの場の誰もが戸惑った。そしてその標的は最後に私へと回ってきて。


「藤田さんは……この後二人きりで話があります」

「え……」



***



 副校長の言葉で校長とここちゃんがこの場から去り、ラウンジには副校長と私の二人っきりになった。


 この広い空間に人間二人はあまりにちっぽけで、私の目にはラウンジが果てしない平原のように感じられた。


 そんな中私の目の前に静かに座っている副校長。この平原に誰の助けも来ないことは明確で、私は真正面から厳かなオーラとそのすべてを受けないといけないことを直感して息を呑む。


「……二人とも、行ったかしら」


 副校長がぽつりとつぶやいたその言葉に私はぎこちなく頷く。本当は「はい」と言葉に出したつもりだったけど、弱々しいその声は喉を通りこせなかったようで、途中で霧散した。


「そう」


 目の前の人物が静かに目を瞑ったのを見て、私は今度は霧散した言葉ごとごくりと唾を呑んだ。なにが来るのかわからず、心の準備もうまくできないうちに、副校長がもう一度口を開いた。


「それじゃあ……肩肘張らなくて済むわね~♪」

「……は、い?」


 目の前の人物が口を開いた瞬間、纏っていた厳かなオーラはどこかへと消えてしまって、ただあるのは、ここちゃんの天使のような笑顔によく似た笑みを浮かべる、一人の女性だった。


「そうだ、喉は渇いてなぁい? なにか買ってくる?」

「い、いえっ! いいです!」


 状況が呑み込めなくて、とっさに首を横に振ってしまった。「そう?」と言って副校長はラウンジの端にある自販機に向けた人差し指を下ろした。


「ごめんなさいね、怖がらせるような真似をして。校長としてのあの人の横にいる以上、副校長としてあなたに接さないとと思ってね」

「はあ……。そんなに、怖がってました? 私」

「怖がってたというか、怯えてたというか、これ以上ないほど緊張した様子だったもの」


 そ、そんなにあからさまだったかな……。隠しきれていない自分の内側をしっかりと見られていて、少し恥ずかしくなる。


「でも、あの人もあんなに圧かけなくたっていいのにね。でも責めないであげて。それくらいここちゃんが心配だったのよ」

「心配、ですか」

「親だもの。まあそれでも、あの人は過保護すぎるけどね。あんなだけど、中はここちゃん大好きなのよ」


 目の前で両手の指を絡ませ握るお母さんに、先ほどの校長の姿を重ねてみる。……これ以上ないほどのミスマッチ。恋する乙女のようにきゅんきゅんしているその人を想像できない。というより、イメージが粉々になるのが怖くて想像したくない。そこまであの校長に愛があるかと言われればうーん。……自分で思っておいて失礼だ。


「夏休み中、ここちゃんずっと恵莉花ちゃんのこと話してたの。海水浴から帰ってきたときなんて特に。あの人、ああ見えて親バカだから、ここちゃんに悪い虫がついたんじゃないかーって」

「わ、悪い虫……」

「勉学がおろそか、とか言ってたけど、単純にここちゃんが誰かのものになっちゃうのが寂しいだけよ。職権乱用よねー」


 この一家は時々職権乱用をするなと微妙な顔が表に滲む。というか校長が主だけど。いいのか、校長。


「ここちゃん、今まで誰かの話をずっとするなんてなかったから。それで心配になって、『その男はどこのどいつだ、直接会って確かめに行ってやる』って」

「お、男?」

「直接会うまで男の子だと思ってたみたいよ? ルームメイトだってちゃんと説明したはずなのにね」

「……ああ」


 ようやく理解できた。だから悪い虫か。ドラマとか、漫画とかでもよくいる娘に恋人ができたときにその恋人をよく思わないお父さん。まさか人生でその場面に出くわすとは思わなかった。しかも当事者どっちも女の子で。そもそも恵莉花という名前で男の子と間違えられるのは予想していなかった。


「それなのにあの人、いきなりルームメイトを解消させようなんてして、びっくりしちゃったわ。会って話をするだけって、そう言ってたのに」


 やれやれと呆れ果てるようにここちゃんのお母さんは首を振る。そのことはお母さんも知らなかったのか。報連相ができていないけどいいのか、校長。


「恵莉花ちゃんと話してればあの人も諦めるかなーと思ったけど、最後まで曲げないから、しびれ切らして私が強引に話つけちゃった。あの人、頭が固いから、感情論が通らないのよね。人間だれしもにあるものだっていうのに」

「あはは……」


 笑っていいのかわからなかったけど、正直どう反応すればいいのかわからなかったので微妙な笑みが滲み出た。


「でもあの人なりにここちゃんを心配した結果なの。やり方は確かに悪いけど、その気持ちまでは否定しないであげて」

「はあ……大丈夫です。そんな悪い人じゃないと感じたので」


 最初に声を聞いたときの、言葉の内に感じた優しさ。あんなにも緊張した中で感じたそれは、嘘じゃないと思う。それに、ここちゃんとお父さんの通話を覗き見してしまったときもそう。ここちゃんがあんなにも砕けて話せるほど、人柄がいいという証拠だろう。……そのときの罪悪感が今蘇ったけど。


「そう。それなら嬉しい♪ まあでも、悪い虫っていうのは、私はあながち間違いじゃないと思ってるけど……ね♪」

「へ?」


 手を合わせて浮かべる笑みは、ここちゃんのいたずらっぽいそれと綺麗に重なって、この人はほんとにここちゃんのお母さんなんだなって思うのと同時に、本能的になにかある、と身構えてしまう。


「なぁ~んてね♪ 大丈夫。恵莉花ちゃんは悪い虫なんかじゃない、むしろこれ以上ないほどいい子だものね♪ だって、あんなにもここちゃんのことを想ってくれる子が悪い子なわけないもの♪」

「そ、そうです、か……」


 その言葉に先ほどの暴走がまた脳裏に叩きつけられる。人生であそこまで冷や汗と罪悪感と命の危機を同時に感じたのは初めてだし、今後もないだろう。ないでほしい、ほんとうに。


 けど不思議と後悔は薄かった。比較対象が先の三つなだけで、十分に押しつぶされそうなほど感じてはいるけれど。校長にあまり悪いようにとられなかったのと、喋った言葉自体は本心からくるものだったから、苦しむほど感じてはいない。


「これからも、ここちゃんのことよろしくね♪」

「は、はい……。……」

「……?」


 威勢よく返事をしたつもりだったけど、私にハッタリをかませるほどの器用さはないみたいだ、すぐに剥がれ落ちて、自身のない顔にお母さんの首を傾げさせてしまった。


「……どうしたの、心配事?」

「心配というか、なんといえばいいのか……」

「まとまらなくてもいいよ、言える範囲で言ってみてくれないかしら。これでも私、相談に乗るのは得意よ?」


 腕を捲り上げるようなポーズで、胸を張って任せろと伝えてくれる。その優しさに背中を押されて、頭の中で突っかかりながらも突っかかった言葉のまま強引に口に出した。


「校長に訊かれて、気づいたんですけど……私なんかが一緒にいて、いいのかなって……」


 ここちゃんのお母さんが腕を捲り上げたまま、きょとんとした顔になる。その顔を見て瞬時に手を振り訂正しようとする。


「えっと、そういう意味じゃなくて! いや、言葉のままの意味もあるんですけど、なんというか、えと……」


 近しい言葉は出てくるけどそれは言いたいこととは全くの別物で、ぐるぐる回る思考と言葉が引っかかる不快感に焦燥を覚える。


 そんな私を見つめているお母さんは、捲り上げた腕を下ろすと、一つ柔らかく微笑んで、なにも言わずにそのまま見つめ続けてきた。


 どうしてか、自然とその眼差しは私の焦りを和らげた。見つめられればさらに焦るはずなのに、その柔らかい視線はいつでもいい、と言ってくれているようで、気長に待ってくれているというのが直感でわかった。


「……私は時々、ここちゃんが疲れてないかなって思うんです」


 回る思考の中ようやく妥協できるほどの言葉を見つけて、それを口から吐き出す。やっと話せるという安堵からか、心がそのまま口から出たように感じた。


「ここ、本当は二年生の寮じゃないですか。その中に一人だけ下級生で、周りは全員年上で。ここちゃんいい子だから、周りの人たちにも、私にも、ずっと敬語で話してくれるし……私が一緒にいる部屋で、肩の力抜く時間、あるのかなって」


 それは今までも、今日だって、そう。ここちゃんの周りには必ず誰かがいて、唯一休める自分のテリトリーにも、私がいる。敬語を崩したここちゃんを私は見たことがない。そんな世界で、ここちゃんは知らず知らずのうちに独りになってしまっているんじゃないか。


「私なんかが近くにいちゃ、邪魔じゃないかなって」


 最後は、最初の言葉と同じようなものに帰結した。けれど意味合いは少し変わったはずと信じて、ここちゃんのお母さんを見る。


 柔らかい表情のまま、目を伏して。流れた沈黙に、次にくる言葉を待つ私の胸が少し高鳴っていたのに気づいた。


「……やっぱり、あなたがルームメイトで良かったわ」

「え……?」


 少し拍子抜けした。こんなにも卑屈になってるパートナーに、それでも任せてよかったと言われて、私の胸に少し痛みが走った。今の私にとって、それは重圧に感じたから。パートナーを務められるほど自分を、信じられない。


「そんな、私はだって、なにもできてない……」

「……恵莉花ちゃん。さっきお父さんに伝えてくれた、あの熱い想いは本心じゃないの?」

「違います! 違うん、です、けど……ただ……」


 俯きがちになった顔を勢いよく挙げて否定したけど、またずるずると頭が下がっていった。


「あれは、私の願望で、わがままで……ただ一緒にいたいってだけで、でもその気持ちがここちゃんを困らせてて……」


 さっきから同じ場所をぐるぐると廻っている気がする。言いたいことは、終着点はすべて一緒なのに、遠回りして、道に迷ってる。


「それでいいのよ」

「え……?」


 もう一度呆けた声を上げて顔を上げる。


「なにかすることだけがパートナーじゃないでしょ?」

「どういう……」

「恵莉花ちゃん。パートナーっていうのはね、相手に尽くすことで成立するんじゃないのよ。頼ったり頼られたりして、かけがえない二人になっていくの。一方向の矢印だけで終わっちゃ、寂しいでしょ?」


 微笑むここちゃんのお母さんの表情に、胸にジンとなにかが滲む。今私からここちゃんに向けた矢印は、ここちゃんを痛くしてしまっていないだろうか。ここちゃんから向けられた矢印を、私は拒絶してしまっていないだろうか。


「それに、むしろここちゃんは恵莉花といることが大事なんだと思うわ」

「私が……それ、友達にも前、似たようなこと言われました」


 それは夏休み中の海水浴でのこと。四人でビーチバレーをしている際、ここちゃんと知世についていけなくなった円と私は戦線を離脱して、近くの自販機で休んでいた。


 そのときに「ここちゃんは、恵莉花ちゃんと仲良くなりたいんだよ?」と円に言われた。


 どうして、私を……ここちゃんは、私の何を求めているんだろう。ここちゃんから向けられた矢印は、どうやったら私は受け止められるのだろう。


「どうして、私なんでしょう。それに、私がいるだけでなにが……」

「う~ん。ほら、ペットとかいるだけで癒されるでしょ?」

「愛玩動物的な意味ですか……!?」

「嘘嘘じょ~だん。……そうね、これ以上は、本人に訊いた方がいいんじゃないかしら」

「ここちゃんに、ってことですか? 迷惑じゃ……」


 ないですか、そう言おうとした私の口元に人差し指が差し出された。


「今はまず、失礼とか迷惑とか考えない! キリがないでしょ? ……もらったら、返せばいいじゃない。あなたにはできるはずよ」


 ここちゃんのお母さんは、私の口元から手を下ろして、その手を胸の前へと持って行った。


「それに、お互いの気持ちを確かめ合うのも、パートナーには必要なことよ? 一緒にいるっていっても二人は別人。言葉にしないと気持ちは伝わらないもの」


 その言葉に、私の心は窓を開けたように澄んだ空気が入ってきて、少しずつもやもやが薄くなっていく。


 そっか。勝手にここちゃんの気持ちを決めつけちゃう方が、悪い。なら、ここちゃんに一度訊いてみよう。どうして私と一緒にいてくれるのか、そして、これからも私はずっとここちゃんの隣にいていいのか。


 私はまだ少し怯えてる心をなだめるように、目を閉じて深呼吸をして、胸の前で拳をきゅっと握る。


「……わかりました。直接、訊いてみます」

「うん。がんばれ~っ♪」


 にこっ、と無邪気に笑うお母さんの姿は、天使のような笑顔を見せるここちゃんと重なった。


 その姿に、一つだけ心に残ったもやもやが広がった。


 もらったら、返せばいい。ここちゃんのお母さんはそう言ってくれたけど、今の私に返せるものなんてなんにもない。


 どすればいいかわからない。また不安が少しずつ滲んでいって、助けを求めるようにここちゃんのお母さんの顔を見つめた。ここちゃんと重なって見えるその表情に、ハッとして、気づいたら私の体は突き動かされていた。


「あ、あのっ!」


 私は一つ思い浮かんだものがあって、前のめりになりながらここちゃんのお母さんと目を合わせる。その勢いに驚いたのかここちゃんのお母さんは目を見開いている。


「――耳かきを、教えてくれませんか?」



***



 いつだったか、初めてここちゃんに耳かきをねだられたときのこと。記憶が正しければ、私が二年生になってすぐ、ここちゃんと一緒に部活動見学に行ったときのことだ。あのとき私はここちゃんとなぜか勝負をすることになって、その勝負に負けてここちゃんの言うことをなんでも一つ聞くことになった。


 実はそのときから二週間に一回程度、ここちゃんに耳かきをやっていたのだが、そのときも、その後のときも必ずと言っていいほどお母さんの話が出てきていた。


 ここちゃんが言うには、お母さんの耳かきはとても気持ちいいらしく、よくやってもらっていたという。その話が出るたび、ここちゃんはどこか遠い場所を見るような眼をしていて、少しホームシックになっているような感じがしていた。その表情を見るたび、私じゃここちゃんを本当に満足させられるような耳かきはできないと思うようになっていた。


 だから、ここちゃんが一番安心できる耳かきをお母さんにやってもらおうと思い、それと同時に私もお母さんに耳かきを教えてもらうことで、できるだけここちゃんが大好きな耳かきを習得しようと思った。……私にできる、唯一のお返しだと思った。


「なんで先輩とお母さんが一緒にいるんですか……!?」


 耳かきをするため自室にお母さんと一緒に赴くと、扉を開けてくれたここちゃんが口を大きく開けた。


「ここちゃん、おじゃましま~す♪」

「えっ!? えっと、いいけど……なんで?」



***



「……本当になんで!?」


 ここちゃんのお母さんは、私たちの部屋に入るや否や持ち前のお母さん力ですべてを言いくるめ、有無を言わさずここちゃんを自分の膝の上に寝かせた。


 気づいたときにはもう膝の上に頭をのせていたここちゃんは、横になりながら異議を唱えている。


「久しぶりに耳かき、しようと思ってね」

「いや、耳かきしようとしてるのはわかってるけど、どうしてそうなったの!?」


 あまりのスムーズさに違和感を覚えることすらなく、ここちゃんの声にようやく私は目の前の光景の異様さに気がついた。


「ああえっと、ごめんね。私が頼んだの」

「先輩が……?」

「うん。ここちゃん、耳かき好きでしょ? お母さんによくやってもらってたって言ってたから、その耳かきを伝授してもらおうかと」

「そうなの〜。だから、ここちゃんはそのまま横になってるだけでいいのよ」

「そ、それなら、いいけど……」

「よぉし。ではさっそく、始めて行きま~す♪」



***



 かり、かり、と優しく動かされる耳かき棒が、ここちゃんの耳をゆっくり綺麗にしていく。


「耳かきするのはね、一センチくらいの深さまで。それ以上行っちゃうと、不必要に耳を傷つけたりしちゃうから気をつけてね」

「そうなんですか? もしかしたら、今までやっちゃってたかも……」

「大丈夫よ。傷なんてついてない。十分綺麗だわ♪」


 そういう問題なんだろうか。けれど小心者の私は奥に棒を入れるのが怖くてあまり奥まで挿し込んでいないのでそこまで心配する必要はないとは自分でも思う。


「ママの耳かき、気持ちいい~……」

「ふふっ、ママも久しぶりに耳かきできてうれしいわよ♡」


 これ以上ないほどに幸せそうに微睡むここちゃんは、お母さんの呼び方が自然とママになってしまうほどに安らいでいる。お父さんのこともパパって呼んでたし、本当はこっちがいつも通りの呼び方なんだろう。自然と私の頬も緩んだ。こんなに幸せそうなここちゃん、私の耳かきじゃ見られなかった。


「すぅ、すぅ……」


 そのまま右耳、左耳とお母さんの施しを受けたここちゃんは、終わったときには眠りに落ちていた。


「ふふっ。ここちゃん、いっつも耳かきすると眠っちゃうの」

「実は、私のときもそうなんです。ものすごくリラックスしてるみたいで」


 ここちゃんを起こしてしまわないように小声でお母さんと話す。お母さんに頭を撫でられながら穏やかに寝息を立てるここちゃんはまるで赤ちゃんみたいで、二人顔を合わせて小さく笑う。


 お母さんは慣れた動きでここちゃんを抱えて、そのままベッドへと移動させる。「ここちゃんのベッドはどっち?」と訊かれてとっさに下といったけど、いつもは上で私と一緒に寝てるから本当はどっちなのだろう。でも上だとお母さんが大変だったろうし、まあいっか。


「……せんぱぁい……」


 ベッドに寝かされ、布団をかけられたここちゃんは起きる素振り一つ見せない。ただその寝顔がとても幸せそうで、見てると胸がぽかぽかする。


「ふふっ……ほら、こんなリラックスしてる顔で、恵莉花ちゃんのこと考えてるんだもの、心配しなくてもちゃんと休めてると思うわよ?」

「……すごいですね、お母さん」


 自然とその言葉が口から出ていた。それにここちゃんのお母さんは小さく笑って返してくれた。


「それじゃ、ここちゃんも寝ちゃったことだし……恵莉花ちゃんも、お膝の上にいらっしゃ~い♡」

「え」


 ここちゃんを下のベッドに寝かせたお母さんは、もう一度床に座り直すとぽんぽん、と自身の膝を叩いた。


「なんでですかっ……?」

「だって、こういうのは実際に経験するのが一番よ? だから恵莉花ちゃんも耳かきされるべし♪」

「私はする側を学びたいのであって、される側じゃ……」

「つべこべ言わない。ほら、こっちへいらっしゃ~い♡」

「あ、ぅあ、え……」


 あまりにも自然な流れで、異様な力に流されて、抵抗しようとする力もすべて無に帰され私はお母さんの膝の上に頭を乗せていた。


「ふふっ、緊張してるわね」

「そ、そりゃあ、そうです……」


 後輩が寝ている横で、後輩のお母さんに膝枕で耳かきをされる。なんともいけないことをしている気分になる。というか実際色々とおかしいのでは? 一番怖いのは副校長に耳かきされるということである。


「力抜いて? そんなに怖くないわ」


 ぽん、ぽん、と柔らかく頭を撫でられる。それだけで全身から力が抜けるような、微睡むような、そんな暖かさに包まれる。


「これはお礼でもあるしね」

「お礼、ですか?」

「そう。いつもここちゃんがお世話になってるお礼。それと今後もここちゃんと一緒にいてくれるって言ってくれたお礼。少しおかしなお礼かもしれないけれど、私ができるのはこれくらいしかないから」


 そう言われて少し顔を上に向ける。お母さんの優しさを帯びたその表情に、私の中で抵抗しようとしていた心がすべて消え去った。


 お礼なんてされるほどのことはしてないし、悪いはするけれど、その表情を見ていると、愛娘を想う気持ちも含んだそれを撥ね除けてしまう方がもっと悪い、そう感じた。


「ふふっ、ありがと。それじゃあ始めるわね」

「はぃ……ひゃっ!」


 耳かき棒を耳に入れられた瞬間、慣れないくすぐったさに跳ねてしまった。


「あら~? もしや、お耳敏感さん?」

「み、耳かきあまりされたことないので……」

「そっかそっか。それじゃあ、めいっぱい優しくしてあげないとね~♡」

「あぇ……」


 もうここに頭を乗せた時点で、いや、そもそもお母さんを私たちの部屋に挙げてしまった時点で、もう逃げられなかった。


 私はそのことを悟ると、ここちゃんのお母さんの耳かきをへろへろになるまでその身で一心に受けたのだった。



***



「はい、お~わり♪ ……寝ちゃったか~」


 今自分の膝の上で目を瞑っているのは、愛する娘の先輩さん。愛する娘の、愛する人。本人はそれに気づいてないみたいだけど。


 少しいたずら心が芽生えて軽くつん、つん、と頬を人差し指でつついてみる。一切の抵抗をせずにもちもちと指を撥ねる感触は、なんとも心地いい。まじまじと顔を見つめてみると、娘と同じくらい赤ちゃんのような顔をしていて、可愛らしい。


「……と、これ以上はここちゃんに怒られちゃうわね」


 私は先ほどと同じく膝の上で眠る人物を抱えて、二段ベッドの下の段へと寝かせる。寝かせた瞬間、娘の顔がさらに幸せそうになった気がした。


 二人並んで眠っている姿は、それだけで画になる。私はそんな幸せの光景を少しだけ眺めて、この場を立ち去ることにした。


「……あら?」


 ふとベッドの横にある大きなカバンとキャリーケースを見つけた。おそらく二人のものだ。部屋の中を見渡した限り、二人はまだ荷物整理が終わってないのだろう。


「ふふっ……お節介、焼いちゃおうかしら」



***



「……ん…………は……あれ……寝てた……?」


 いつ飛んだのかわからない意識が頭の中に戻ってきて目を開くと、広がった光景が頭にある最後の記憶とズレが生じていて混乱する。


 状況を把握するために周りを見る。暗い世界は私たちの部屋のもので、電気がついておらずカーテンも締まっている。それ以外は寝ぼけた目じゃわからなかった。


「あだっ」


 そちらとは反対側を向くように寝返りを打つと、こつんとおでこがなにかとぶつかった。


「ん……なに……?」

「えっここちゃん?」


 その正体はルームメイトのここちゃんだった。ここちゃんも同じベッドで寝ていたようで、今起きたらしい彼女は寝ぼけ目をこすっている。


 一緒に寝てるってことは、今は夜……? いや、けどベッドから部屋を見たときになんか違和感を感じた…………そうだ、目線が低いんだ。それじゃあ、今私たちが寝てるのは下のベッド……?


 時間が経つにつれて頭が冴えてきて、なんとなく寝る前の状況を思い出してきた。そうだ、ここちゃんのお母さんが部屋に来て、ここちゃんは耳かきで眠っちゃって、そのあと私も耳かきされて……なるほど、そこで眠ったのか。


「せんぱぁい……?」

「ここちゃん。おはよ」

「もしかして……寝て……ふわぁ……」

「……ふわーっ」

「あ……あくびうつった……♪ えへへ……」


 まだ頭が完全に起きてない今に幸せそうなここちゃんの笑顔が不意打ちで私の心に入り込んできて、胸がきゅっとなった。


「天使かな……」

「……? なんて言いました?」

「えっ、私今なんか言った?」


 寝ぼけすぎているのか無意識下の自分が勝手に身体が動かした恐怖から口をふさぐ。なに、なに言った私……変なこと言ってないだろうな……!


「そうだ……なんとなく思い出してきました。ここ、お母さんに耳かきされて寝ちゃったんですね。耳かきされるとどうも……でも、どうして先輩まで一緒のベッドに?」

「え? ああ、いや。ここちゃんの寝顔、幸せそうだったから。寝てる横で荷物整理して物音立てて起こしたら悪いかなーって」


 同じくお母さんに耳かきされて寝た、と言ってもよかったけれど、なんとなくいけない気がしたので伏せた。あなたのお母さんに耳かきされた、という言葉だけ見るとなんともおかしな感じだし。


「ここのことを想ってくれたんですね、嬉しい……♡ ここの寝顔、可愛かったですか?」

「うん。すっごく可愛かったよ」

「なっ……先輩、そういうとこですよ」

「……?」

「はぁ……ほかの子にはそう簡単に可愛いって言ったりしないでくださいね?」

「はい……?」


 少し不機嫌そうに頬を膨らませるここちゃん。その顔を見ていると、ふと今日のラウンジでのことを思い出した。


 私が、ここちゃんと一緒にいてもいいのだろうか。今だってこうやってここちゃんを怒らせてしまって、怒らせてしまった理由すら私にはわからない。そんな私が。


「本人に訊いた方がいいんじゃないかしら」


 そんなここちゃんのお母さんの声が、私の頭の中で再び響いた。


「って、そうだ荷物の整理。やんなきゃですね……」

「ここちゃん」


 衝動に突き動かされるまま、私はここちゃんに顔を合わせる。突然名前を呼ばれたここちゃんはきょとんとした顔で見つめ返してくれる。


「ここちゃんはさ、どうして私とルームメイトになってくれたの?」

「? 好きだからですよ?」

「えっ、それだけ?」


 拍子抜けだった。頭のいいここちゃんのことだから、もっと私の考えるよりもすごい理由があると思ってた。この理由も予想外だったけど。


 でも人気者なここちゃんなら、好きな人くらいほかにもいっぱいいるだろうに。私なんかよりも好きな人だってたくさんいるだろうに。どうして……?


「それだけって、それ以上の理由あります? 好きだから、一緒にいるんです!」

「いや、だって、え……?」

「いやもだってもありません! ここは、先輩が大好きなんです!」

「……それじゃあ、これからもここちゃんと一緒にいてもいいってこと……?」

「そうですよ。むしろ、これからもずっと一緒にいてほしいです! 好きな人とは、一緒にいたいものじゃないですか」

「えっ、だって、私なんかなにもできないよ? ほら、いっつもここちゃん怒らせちゃうし、今だって! それに、迷惑かけてばっかだし……」


 混乱で思考がまとまらない。思考がまとまらないから、言葉がうまく紡げない。たどたどしい言葉が口からこぼれてく。


「そんなことないです!」


 そんな思考を一喝するようにここちゃんが声を張る。


「……先輩、前から思ってましたけど、けっこう卑屈さんですよね」

「ごめんなさい……」

「大丈夫です、そんな先輩も好きです。迷惑なら、ここの方がかけてるじゃないですか。わがままばっかりですよ?」

「えっ、そう……?」

「先輩は優しいからそう思わないだけです。ここのわがままにいっつも応えてくれるじゃないですか。ここはそんな先輩が大好きです。怒らせちゃうのは、先輩が超がつくほどの鈍感さんだからです! そこは、確かにやきもきしますけど……」

「ごめん……」

「謝っちゃめっ、ですよ? 大好きって言ったじゃないですか。そんな先輩も含めて全部大好きなんです。……先輩はどうですか? ここのこと、嫌いですか?」

「ううん、そんなことない! 大好きだよ!」


 反射的に全否定したくて、前のめりになってまたここちゃんとおでこがぶつかりそうになる。ここちゃんは驚いてぴくっとするけど、顔の近さはそのままでくすっ、と笑った。


「それじゃあ、両想いじゃないですか」

「……そ、っか……一緒にいて、いいんだ……」

「そうですよ。さっきからそう言ってます。ようやく気づいたんですか? 鈍感さん♪」


 それに気づいた瞬間、恥ずかしがるように俯いて、ここちゃんから視線を逸らした。


 どうしてだろう、涙が零れてくる気がした。


「先輩?」

「ううん、ごめん。なんでもない」

「なんでもって……わっ!」


 どうしてだろう、抱き着きたくなって、ここちゃんにぎゅっとしがみついた。


「今日の先輩、甘えんぼさんですね……♡ ここと一緒にいられるの、そんなにうれしいんですか?」


 こく、こく、と勢いのあるような、それでいてどこか弱々しく首を縦に振った。「うん、うん」と声に出したかったけど、涙ぐんでそうで怖かった。


 するとどこかから「ぐぅ~う」と空洞に響くような声が聞こえた。それは今私が手をまわして抱き着いてるここちゃんのお腹から聞こえた。


「わあっ……! 直に聞かれたっ……!」


 顔を上げると、ここちゃんが暗がりでもわかるくらい顔を赤くしていた。


「そういえば、今何時なんだろう」

「わからないです。スマホ……もどこかわかんないですね。けど、ここの腹時計は正確な自信があるので、おそらく夜ご飯の時間です」


 あれだけ食べているのにその時間にはしっかりと空かせてくれるここちゃんのお腹は働き者だなと思った。感心したというよりは、未知のものを目の前にしてる感覚。


「結局荷物の整理全然終わってないですね。とりあえず、夜ご飯食べに行きましょうか」


 私はここちゃんから離れて、ベッド横にあるリモコンで電気をつけ二人一緒に起き上がる。するとその光景に口がぽかんと開いた。


「あれ!? 荷物整理終わってる!?」

「なんで……? 私たち夢遊病?」

「そんなことないしこんなきめ細やかな動作をできるものじゃないです。……考えられるとしたら、ここのお母さんですね」


 私たちの部屋の唯一の来訪者。私たち以外ならば、自然とその人がやったことになる。


「ひとのものを勝手に……」

「でもあるあるじゃない? 子どものかばんの中勝手にお母さんが整理するの」

「ここはまだわかりますけど先輩のまではデリカシーないじゃないですか! はぁ……困ったお母さんです……」

「まあまあ、助かったし、いいんじゃない? それより」


 私は頭を抱えるここちゃんの目の前に手のひらを上に向けて差し出す。


「ご飯食べに行こ? お昼のとき、みんなともちゃんと話せなかったしさ」

「……そうですね。行きますか♪」


 笑顔でここちゃんは自分の手を私の手に重ねてくれる。私はその手を離さないようにしっかり取ると、二人一緒にベッドから起き上がって、部屋を後にした。


 これからも、一緒にいられる。だからもしかするとこの手はいつでも握ることができるのかもしれない。けれど今の私は、食堂に着くまででいいから、離したくなかった。



 続





***





 学校祭。大半の学校で年に一度あるそれは、うちでは少し変わった方法で開催される。


 それはグランプリ制度。その名の通り、学年ごとに各クラスの出し物で競い、その中でグランプリと準グランプリを決めるというものだ。


 それなりに伝統のあるこの学校の第一回目からあると言われているこのグランプリ制度。毎年どのクラスも高品質な出し物を生徒自ら作り出している故に、グランプリの名誉はどんなものにも代えがたいものであるというのが生徒、先生、来校者含めこの学内での共通認識である。


 そのため学校祭に向けちょうど一ヶ月くらい前の新学期早々、今私たちはホームルームの時間にクラスでいろいろ話し合っているというわけだ。


 そんな中私は、なんとなく身が入らずぼーっとしていた。というのも、去年一度グランプリを取ってしまっているから。


 一年生はクラス展示、二年生は学校内にあるホールで劇やダンスなどステージでの出し物、三年生は体育館で演劇という出し物の決まりがある中、去年の私たちはクラスの中を謎解きアトラクションに魔改造してグランプリを取った。


 リーダーシップのある知世とそれを支える円、そしてなんでもできてしまうるるちゃんを主軸にクラス全員が一致団結して作り上げたそれは、我ながらそこらのテーマパークと遜色ないものだったと感じる。


 その経験があって、あのクラスだから頑張ることのできたと感じている私は、今のクラスでグランプリを狙えるか正直不安、というよりは、私自身が心からやる気を出して取り組めるかが不安だった。知世と円はもちろんやる気十分だけど、肝心のるるちゃんがいない今、私はどうにも身が入らなかった。


(そういえば、ここちゃんはなにやるんだろう……)


 一年生はクラス展示だから、お化け屋敷とかは定番だよね。毎年一クラスは必ずあるし。それと毎年前年度のグランプリにあやかるところも多いから、今年は謎解きも多くなるかな。あ、あと喫茶店とか……。


「それじゃあ、恵莉花ちゃんに決定します。みんな異議はない?」


 クラス委員として教壇に立って話し合いをまとめている円の口から、私の名前が出た。それに賛同するように、周りから拍手が巻き起こる。それが耳に入ってきた私は、ぽかんと円の方を向く。


「恵莉花ちゃん、よろしくね」

「ふぇ? なにが?」

「おい、聞いてなかったのかー? ――主役、お前がやるんだぞー」

「…………え?」

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