ロバと幸せの遊園地

古蜂三分

ロバと幸せの遊園地

「ロバになってしまう遊園地がある」


 そんな噂話を聞いて大学と反対方面の電車に乗り、東京から故郷へ向けて出発したのは、今から二時間も前の昼下がりのことだった。


 私は窓辺に頬杖をついて流れる景色を眺めながら、さっき聞いた話を反芻する。近所の大学に通う女子大生の、何気ない世間話だった。


「楽しくて幸せになれる遊園地があるの。だけど、そこで楽しみ過ぎるとロバになっちゃうんだって」

 彼女は笑い飛ばしていた。私もそう思う。そしてたぶん、故郷にいる彼も「ばかだね」と微笑んでくれる。そんな気がした。




「何を言ってるか分からないかもしれないけど」


 そう前置きをしてから、隣の少年は鉛のような曇天を見上げて呟く。息をするだけで悲しいんだ、と。


 私と彼しかいない川岸から、対岸の夏祭りを眺める。暖色系の明かりに灯された屋台は、お面をつけてはしゃぐ子供や浴衣姿のカップルで賑わっていた。


「あの中に混ざれたら楽しいのかな」と彼は呟く。


「楽しいと思わないの?」


「思わない」と彼は言う。「はしゃいだ分だけ、悲しくなるんだ」


 違いない、と思う。いつも彼の言うことは、私が胸の奥底で感じている感情を言葉にしたようなものだった。


「どうして、悲しくなってしまうのだろう」と私は呟く。


 その言葉を聞いて、隣の彼は頬を和らげた。私は彼のこういう表情がいつも好きだった。


「きっと僕たちは、幸せになるのが怖いんだ」


「そうなのかな」


 うん、そうだよ。彼はそう言って目を細める。


「僕たちは、幸せが現実にないと知っているんだ。『夢のような時間』や『嘘みたいな幸せ』と言うように、幸せはいつだって現実味がない」


 だから僕たちは幸せを知らないし、知ることができないんだ。彼はそう言って、私の頭を撫でてくれた。




 気がつくと私は眠っていた。目を擦ると、窓の外には見慣れた故郷が見える。


 私は目的地の駅で降りて市街地を通り抜ける。しばらく歩くと、懐かしい田舎道に辿り着いた。当時彼と一緒に肩を並べて歩いた、何気ない田んぼ道だ。


 かつて私と彼はこの道をのろのろと歩いて、この間見かけたサインポールの回っていない美容院とか、子供の声が聞こえなくなった夜の公園とかについてよく話した。私たちは、熱を帯びていたものが冷めてしまった姿がとても好きだった。時には写真に撮って、絵に描いて、二人でそれを見せあったりしたこともあった。


 けれど逆に、冷たいものが熱を帯びた姿は嫌いなのだと、この道を歩いて分かる。


 今歩いているのは、彼との思い出の道だ。でも昔のような田んぼ道ではなく、家々が建って住宅地になっていた。もうあの頃、彼と一緒に帰っていたときこの道でどんな虫が鳴いていたかも、どんな花が咲いていたかも思い出せない。


 それに気づいて、私はだんだんと早足になった。


 歩き続けていると、今度は海沿いに出た。潮風で錆びついたフェンスの向こう側に海原が広がっている。だけど彼と一緒に眺めていたあの海岸はなくて、代わりに埋め立てられた土地が広がっていた。


 そして私の目的地は、皮肉にもその上に建てられていた。


 高い高い観覧車を見上げながら、私はゲートを潜る。陽気なテーマ曲を耳にして、私は一人でこんな場所に来て馬鹿じゃないかと自嘲した 。


 園内は家族連れやカップルたちで溢れていて、楽園を具現化したような場所だった。弾けるポップコーンやジェットコースターの絶叫を横目に、私は園内を歩く。


 ロバのカチューシャをした女子高生たちが前を通って、その後ろ姿を目で追う。


「ロバになってしまう遊園地がある」


 その言葉を思い出して、彼女たちに目を凝らす。だけどすぐにやめた。確かめなくても、いずれ分かることだ。


 少し歩くと疲れて、私はアイスクリームを買った。アイスは冷たいだけで、美味しくなかった。何の行列かも知らずにとりあえず列に並んで、知りもしないロバの着ぐるみと写真を撮る。つまらない。パレードやショーを見ても、面白くない。


 私はおおよそ、何も楽しめていなかった。アトラクションやお化け屋敷に行ってもそれは同じで、雨の街に私だけ傘を持たず立っているような孤立感だけを感じた。私はいつも自意識過剰だった。


 けれど、面白い物を見られたのも事実だった。


 園内を回ると、周囲の人々はまるでクリスマスのイルミネーションみたいに楽しそうだった。輝いていて、ひどく眩しい。


 そしてそんな彼らは、だんだんとロバに近づいていた。


 恋人と腕を組みながら、だらしなく耳を長く垂らしている少年。子供を抱っこして、ズボンから細い尻尾を覗かせたおじさん。友人と喋りながら、出っ張った口と鼻でヒヒーンと笑い声を上げる女子高生。


 彼らは姿をロバに変えられて、けれどどこまでも幸せそうだった。はしゃいだ分だけロバになるのに。私は噂の真相に驚くと同時に、「ばかだな」と思う。


 私は園に入ってから、特に変わっていなかった。鼻も口も耳も、全てが人間のままだった。


 化粧室の鏡でそれを確認すると、近くにあったベンチに腰かける。


 昔から、人が集まるような場所は苦手だった。ましてや楽しむような場所なんて尚更だった。私は文化祭や体育祭などのお祭り行事に参加したことがない。いつだって彼と一緒に行事をサボって、夏の夜空に浮かんだ月を見上げるみたいに、屋上から騒ぐ人々を眺めるのが常だった。


「ばかだね」と私が言う。あんなにはしゃいでばかだね、と。


「悲しくならないようにしてるんだよ」と彼が返す。


「どうして?」


「悲しくなるのが怖いんだ」彼は下の人々に目を細める。「だから、ああやって幸せを偽って演じているんだ」


「じゃあ、君は幸せを演じなくていいの?」と私は聞く。「悲しいままでいいの?」


 彼は「隣に、僕と一緒に悲しんでくれる人がいるからいいんだ」と微笑んだ。


 今になって、きっと私は彼のことが好きだったんだなと思った。それは白昼夢の中身みたいに曖昧で、言葉にしにくい感情だったけど、最も近しい言葉で表すのなら「恋」と言う以外になかった。


 彼とは、私の上京を機に離れ離れになった。私は、この先ずっと一人なんだろうなと途方もなく思った。彼以外の人と仲良くなれる気がしなくて、悲しくなった。だけど隣に彼はいなくて、私は一人で悲しむしかなかった。


 でも、もしも、と考える。もしも今、私の隣に彼がいたのなら、彼はまた、まるで蜘蛛の巣にかかった蝶を眺めるみたいに、悲しく笑ってくれるのだろう。


 ばかだね、みんなこれからロバになるのに。そんな風に微笑みを浮かべるのだ。目も髪も鼻も耳も、全て人間のままの姿で。そして何年経った後も、この遊園地に来て、決まったやり取りをするのだ。ばかだね、みんなこれからロバになるのに。二人とも人間の姿のままで言うのだ。


 その横で私はこう呟くのだろう。私たちはいつまで経ってもロバになれないんだね、と。


「よし」


 私は暖かくなったベンチから腰を動かした。どこか清々しくて、体が軽くなった気さえする。彼が隣にいる想像をするだけで私はいつだって楽しくなった。


 ベンチを去る。前から歩いてくる人影を見て、私は世界が何故こんなにも残酷なのだろうと思った。


 観覧車から降りてくる人影を見て、私はふいに死にたくなった。いや、消えたくなった。だから私は咄嗟に、ゴミ箱の後ろに身を隠した。


 見たら悲しくなると分かる。けれど、見なくても悲しくなるのも分かっていて、私は彼らを覗き見ることを選ぶ。


 彼は相変わらず、カーキー色のジャケットがよく似合っていた。やたらと汚れたコンバースも以前と変わらない。だけど指先で前髪を器用に直す仕草と、人受けのよさそうな弾むトーンの声は、まるで私の知らない人を見ているようだった。


 ああモテるんだろうな、と思う。


 その証拠に、隣には同じ年頃の女の子がいた。髪を三つ編みにまとめていて丸眼鏡をかけている。一見すると地味で大人しそうに見えるけど顔立ちはしっかりとしていて、きっと放課後の図書室が似合うのだろうという印象を受けた。


 二人は映画の中から出てきたみたいな空気を纏っていた。現実的でない程に、二人は幸せそうだった。そしてそれは本物の「幸せ」である証だった。「夢のような時間」「嘘みたいな幸せ」と表現するように、現実的でない幸せほど、それが本物であるということを私は知っている。彼が教えてくれた。


 それから暫くの間、私は二人の後ろをついて歩いた。けれど二人が物陰に隠れてキスをし、耳が長くなったのを目にして、私は踵を返した。


 少し歩いて、目を瞑る。二人のズボンから飛び出た尻尾と、毛深い脚が見えないふりをした。


 また数歩歩いて、今度は耳を塞いだ。荒々しく震える鼻息と、ヒヒーンという鳴き声は、私の耳に届かない。そう演じた。


 「幸せは知ることができない」と言っていたじゃないか。一緒に悲しんでくれる人がいるからいいと、言っていたじゃないか。そう言いたかった。けれど、今の彼に人の言葉は伝わらない気がして、その台詞は喉の奥底に引っ込んだ。


 ロバの群れを通り抜けて、出入り口に差し掛かる。近くに人はいなくて、幸せそうなロバたちだけがいた。


 そこで私はまた、もしもと考える。もしも私と彼が離れないでいて、そして二人でこの遊園地に来たとして、私は、彼は、はたしてロバになっていただろうか。


 いやそんなことないな、とすぐに分かる。私と彼の仲はいつだって一緒に悲しむためにあって、一緒に幸せになるためじゃなかった。寒くて毛布をかけ合うのではなくて、寒くても大丈夫だと言い合う仲。そんなのだった。


 だから、あの頃の私たちがここに来ても結局ロバにはなれない。互いに手のひらを繋ぎあって、つまらなかったと笑い合って、遊園地を後にするのだろう。そう思った。


 私は人間の姿のまま、遊園地を跡にする。去る背は振り返らなかった。振り返ったらきっと、今ごろ四足歩行になってしまった二人、もしくは二頭と、目があってしまう。そんな気がしてならなかった。

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