いつか忘れるあなたの記憶

古蜂三分

いつか忘れるあなたの記憶

 物心ついたときから、わたしはぬいぐるみと話すことができた。


 別にお人形遊びが好きだったという訳じゃなくて、その言葉のまま、実際にぬいぐるみと言葉を交わしてコミュニケーションを取ることができたのだ。幼稚園の年長になるまで、わたしはそれがおかしなことだとは少しも思っていなくて、誰もがぬいぐるみと話せると思って疑うこともなかった。家でぬいぐるみと話していても両親は「子どもの想像力はすごいね」としか言わなかったし、幼稚園の自由時間になると、わたし以外のみんなもぬいぐるみと喋る素振りをしていたから、自分と周囲の違いに長いこと気付けないままだったのだ。


 それがおかしなことだと気付いたのは、当時親ぐるみで仲の良かったルイちゃんという女の子とシルバニアファミリーで遊んだときのことだったと思う。わたしが話せたのはぬいぐるみであってお人形ではないから、リカちゃん人形やシルバニアファミリーの兎、キャラクターのフィギュアなどとは基本的に話せなかった。

 けれど周りのみんなはぬいぐるみだけじゃなくてお人形とも喋っていて(もちろん本当に喋っていたわけじゃなくて、ただのお人形遊びだったのだろうけど)、わたしはいつもその様子を不思議に思って見ていた。あの人形は喋らないのに、みんなはどうして話しかけているんだろう。その頃のわたしはまだ幼かったから、周囲のみんなが実際には人形に話しかけている素振りをしているだけで、本当は誰一人として人形と喋れなかったことなど想像もつかなかった。


 その日、ルイちゃんとシルバニアファミリーで遊んだことで、わたしを取り巻く世界は大きく変化した。いつものように自由時間、わたしとルイちゃんは教室に残ってシルバニアファミリーをしていたのだけれど、そのとき、灰色の毛をした兎の人形だけがどこかへ消えてしまい、代わりとして、いつもおもちゃ箱に売れ残っているむすっとした顔のブルドッグのぬいぐるみを使うことになった。ルイちゃんがそれを持ってくると、そのブルドッグはわたしに向かって「ま、仲良くな」とふてぶてしく言った。


 そのときわたしは「よろしくね」と言ったのだけれど、何を勘違いしたのかルイちゃんはブルドッグの両手を大きく上げさせて「よろしくだワン!」と言った。当のブルドッグは「んなこと言わねーよ」とぼやいていた。それが最初に感じた違和感だった。


 ルイちゃんと遊んでいくに連れて、初めに抱いた違和感はどんどん大きくなっていった。積み木のご飯を出したときにブルドッグは「げ、よだれついてんじゃねーか」と嫌がっていたのに、ルイちゃんは構わず「おいしいワン!」と言わせていたし、リスと結婚することになったブルドッグが「こんな不細工いやだね」と言ったのに「二人は結婚し、幸せな人生を送りました」とナレーションを入れていた。


 わたしにはその光景が、ひどく不思議なものに見えて仕方なかった。ルイちゃんは意地悪しているのかと思った。けれど彼女には悪びれる素振りも一切ないし、むしろ自分は良いことをしたと喜んでいるようにすら見えた。そこでわたしはふと、ルイちゃんがブルドッグと一度も言葉を交わしていないことに気づいた。

 そのときだ。もしかして、ルイちゃんはぬいぐるみと話せないんじゃないかと思ったのは。実際それから、ぬいぐるみと話せないのは彼女だけでなくわたし以外のみんなだと気付くことになるのだけれど、このときのわたしはまだ希望というか願望というか、常識として信じてきた事実が異なるという世界を認められなくて、何かの勘違いだと思い込むように努めていた。


 けれどその数日後、「いてーよー」と言いながら、おままごとでルイちゃんたちにお腹の綿をすべて抜かれたブルドッグを見てわたしは、自分だけがぬいぐるみの声を聞くことができるのだと静かに悟った。だってみんな、こんな生々しい悲鳴を聞いても平然としているのだから、絶対にどこかおかしいと思った。けれど、現実はたぶん反対で、実際におかしいのはわたしの頭の方だった。


 わたしだけがぬいぐるみと話せると知った日、それはわたしにとって、世界から光という光が全て消えたような日に違いなかった。




 それから幼稚園を卒園して小学生になったわたしは、ぬいぐるみと話せることを誰にも言わなくなった。小学生にもなると人形遊びやおままごとは恥ずかしい遊びという認識になる。ぬいぐるみだって同じだ。幼稚園のようにぬいぐるみと話していたら、それは明らかにおかしな子だった。


 小学生になったわたしは、教室でいつも一人だった。話しかけてくれる子は何人かいたのだけれど、わたしは彼ら全員と積極的に喋ることができなかった。彼らの好意的な目を見ても、心のどこかでは「彼らだって、あのブルドッグが悲鳴を上げるところを見ても、眉一つ動かさないのだろうな」と考えてしまう自分がいたからだ。そのことで毎回、言葉の節々に軽蔑や罪悪感の混じった何かが意図せず紛れてしまうようになり、話しかけてくる人もそれを感じ取って、次第にわたしは一人になっていった。


 そんなわたしだったけれど、学校でたった一人だけ、腹を割って話せるような存在が確かにいた。


 彼女はマイちゃんと言って、わたしのランドセルの横側にぶら下がっている小さなカメのぬいぐるみだった。サイズはぬいぐるみと言うよりはストラップに近くて、従妹の一家が九州に旅行へ行った際のお土産としてもらったものだった。


 休み時間や下校途中、まわりが友達と大声で騒いでいるときに、わたしは決まってマイちゃんに小声で話しかけた。マイちゃん、今日もね、牛乳残しちゃった。わたしが彼女の大きな瞳に問いかけると、マイちゃんはしばらくして起き上がるように返事をしてくれる。


「牛乳を飲まないと背は伸びないんだよぉ。その身長のまま大きくなりたくないでしょう?」


 マイちゃんは語尾に延ばし棒が入るような、ゆったりとした喋り方をした。お皿でも数えさせたらすごく怖いねとわたしが言うと、夜中にマイちゃんはいたずらで「いちまぁい……にまぁい……さんまぁい……」とランドセルの横で言い出し、こわくなったわたしは泣きながら耳をふさいで寝たのだった。翌朝にわたしが口を聞いてあげないでいると、マイちゃんは「ごめんねぇ」と申し訳なさそうに言い、仲直りをした。


 また、マイちゃんはよく「夢はある?」と訊いてきた。まだわたしは小学生だったから「夢」という言葉に込められた妙なスケール感に気圧されて、どうにも答えることができなかった。本当はお花屋さんになりたいけれど、現実的に言ったら看護師なのかなと思ったり、お花屋さんが夢というのは夢にしては小さすぎないかなと悩んだり。答えられないわたしがマイちゃんに訊き返すと、彼女は嬉しそうなトーンで「お嫁さんになりたい」と言った。

 うん、お嫁さんね、なれるよ、マイちゃんやさしいし。わたしがそう言うだけで、マイちゃんは本当に嬉しそうにしていた。


 マイちゃんの夢を聞いたのは、小学五年生の秋だった。わたしはマイちゃんと窓際の席でこそこそと、いわゆる恋バナというのをするようになった。机に突っ伏してながらクラスの男子たちを二人で盗み見て、「あの子は二組の子が好きらしいよ」などと情報交換をしたり、目でも合った日には二人で静かにキャーキャー言ったりもした。それまではどうしてクラスの女子がこぞって恋バナをするのか理解できなかったけれど、マイちゃんと石川くんの噂話をしているとき、西山くんと波木くんのどちらがカッコいいかを議論しているとき、たしかにそれは楽しかった。


 傍から見たら、高学年にもなってぬいぐるみと話しているおかしな子と思われているのだろうなという自覚はあった。けれどわたしは別に、それでもいいや、と思っていた。だって、目の前には、わたしと恋バナでこんなにも盛り上がってくれる友だちがいるのだから、どこにも不思議なんてなかった。


「あたしねぇ、ウエディングドレスが欲しいなぁ」とマイちゃんが言い出したのは、六年生の夏だったと思う。わたしは学校の帰りに近場のショッピングモールの三階にある家具屋に立ち寄って、カーテンコーナーに張り付いた。ぬいぐるみ用のウエディングドレスがあるとは思わなかったし、あってもカメ用のウエディングドレスなんてとても稀だと思ったので、わたしは思い切って手作りすることに決めたのだ。

 丸一週間ほど通って悩み抜いた末、二番目に安いもの(それでも五千円くらいしたけれど)を買い、家庭科の裁縫の授業中にそれを完成させた。出来上がったのはもう卒業間近の二月だった。少しサイズが大きめになってしまったけれどマイちゃんはそれでも十分に喜んでくれて、昼寝をすれば気持ち良さそうな平日の午後に、わたしたちは結婚式の予行練習をした。ドレスが完成してすぐにそれをしなかったのは、「結婚式は春がいいな」というマイちゃんの要望からだった。マイちゃんはすっかりはしゃいでスーパーフライの「愛をこめて花束を」を熱唱し、わたしはわたしで、友人スピーチとしてマイちゃんとのエピソードを送った。


「でも、こんなにきれいなドレス、本当にもらっていいのぉ?」


 マイちゃんは身体を横に揺らし、フリルをなびかせながら言う。そのフリル、めちゃくちゃ頑張ったんだよ、と言おうとしたけれど、わたしはその代わりに「あげるよ、マイちゃんに」と笑う。


「そのドレスは、もうマイちゃんのもの。わたしのオリジナル作品だから、失くしたら世界中のどこを探したって絶対に手に入らないよ。このドレスで結婚式を挙げるのは、世界でマイちゃんひとりってこと」


 わたしは意気揚々と話した。


「すごぉい」とマイちゃんはその大きな瞳で鏡に映ったドレスを見つめる。「こんなにおしゃれしたのって、初めてだよぉ。ほんとにもらっていいのぉ?」


「いいんだよ。マイちゃんにしか着こなせないんだもの」


「でも、あたしってばぬいぐるみのカメなのよぉ?」マイちゃんは言いながら、けれど鏡の中の自分に見惚れている。


「ぬいぐるみのカメだから、だよ」


 わたしが鏡の中のマイちゃんにまっすぐ目を合わせて言うと、マイちゃんは「そっか」と言葉を溢し、それから、ゆっくり振り向いて「ありがとねぇ」と語尾に伸ばし棒の付きそうないつもの口調でお礼を言った。




 結婚式の予行練習を終えた翌日、中学校の入学式があった。いつにも増して緊張しながら朝の身支度を整えていると、昨日と同じウエディングドレスを着たままのマイちゃんが目に入った。「おはよう」と声をかけると、まだ夢の中にいるような声で「いい朝だねぇ」と返ってくる。いつもの日課だった。朝ごはんの納豆ごはんを食べて顔を洗い、歯を磨いて着替えたら、マイちゃんがつるされた赤いランドセルを背負って「いってきます」と母親に声をかける。そしてマイちゃんと一緒に学校へ向かう。


 けれど今日からは、マイちゃんとの登校ではなかった。中学校には校則というのがあって、それによると、鞄にキーホルダーやお守りを付けてはいけないらしい。破ればおっかない生活指導の先生に怒られると、入学説明会で聞いたのだ。


「帰ったら、学校のこといっぱい話してあげるからね」わたしは学校指定のやたらと長い白靴下を履きながら言う。「カッコいい男子がいたら、教えてあげるから」


「カッコいい男子じゃなくてやさしい男子がいいなぁ」


「じゃあ、かっこ良くてやさしい男子ね」


「そうねぇ」マイちゃんはうんうんとうなずく。「理想は高く持つべきだからねぇ」


 それから、マイちゃんはお母さんのようにわたしに語りかけた。

 筆箱は持った? 持ったよ。この前買った手鏡は? もちろん。教科書は? いちおう入れた。上履きは? あ、忘れてた。自由帳は? そんなの持っていけないよ。

 普段はランドセルに何を入れたのかを真横で見ていたマイちゃんだけど、それができないからとても気になるらしい。おせっかいだなぁと思った。


 最後に、マイちゃんは「ねぇ」と口を開いた。


「夢はある?」


「夢?」とわたしはマイちゃんに向き直る。


「そう、夢だよぉ」マイちゃんはいつにも増してゆったりした口調で言う。「どこに行きたいとか、何をしたいとか、どんな大人になりたいか、とか」


 それを聞いて、わたしはうーんと悩んでしまう。小さいころ、お花屋さんになりたいと言っていた自分を思い出すけれど、こうして成長してから考えると、また違った内容のことが見えてくる。お母さんは看護師になって人の役に立ちなさいと言うし、一方でお父さんは公務員になって定時で帰る生活を送れとやたらうるさい。

 けれどたぶん、いまマイちゃんがわたしに訊いているのは、そういうことではないのだろう。すると俄然こたえられなくなる。


 わたしが黙っていると、マイちゃんは「見つかるといいわねぇ」とやさしく言った。


 それから家を出るまで、わたしとマイちゃんは打って変わってくだらない話をして過ごした。言葉にするのも馬鹿らしいほどくだらない話だ。住むなら南極と北極のどちらがいいかとか、おジャ魔女どれみごっこでどのキャラクターがいちばん人気なのかとか、カラムーチョを食べたあとに歯磨きをするとおえってなることとか。そういった互いの話だ。

 この世に存在する全てのくだらない話を語りつくそうと意気込んだところで、一階から母の「そろそろ行かなくていいのー?」という声が聞こえてくる。


「じゃあマイちゃん、わたし、もう行くね。ちゃんと男子見ておくから」


「あたしがいないからって、泣き出さないでねぇ。あたしじゃなくても、きっとやさしい女の子がいたら、友だちになって、一緒に恋バナしてくれるわよ。本当に、これから頑張ってよぉ。プラトニズムな恋をしてねぇ」


 マイちゃんは嬉しいのか、ドレスの裾をひらひらと揺らしながら言った。プラトニズムという言葉の意味は分からなかったけれど訊いている時間はなく、わたしは鞄を背負い、鏡で少しだぼだぼの制服を着た自分の姿を見てから部屋を出る。


「じゃあ、行ってくる。帰ったら、またおしゃべりしようね。それから、あとで本番の結婚式も」


 わたしはドアを閉めて、階段を降りていった。またねー、と、笑いの混じったマイちゃんの声が聞こえた。


 それからあと、マイちゃんが言っていたのは、プラトニズムではなくて、プラトニックだったということをわたしが知るのは、もっとずっと後のことであり、そしてそのころにはもう「マイちゃんってば知ったかぶってプラトニズムとか言ってたよね」と、二人でくだらない話をすることはできなくなっていた。


 中学に入学してから数日も経たないうちに、わたしは、ぬいぐるみと話すことができなくなった。自分でも、なんだか理解できないくらいの唐突さで。さよならも聞こえないくらいの静かさで。




 その日が入学式の当日だったのか、それともその二、三日後のことだったのか、今のわたしでは見当もつかない。ただ、入学式を終えて帰宅したわたしは、マイちゃんと話すことなく一階のソファーで眠ってしまった。きっと、疲れていたのだろうと思う。


 おぼろげな意識で一日を終え、入学後初めての登校日が来る。疲れて準備をしていなかったわたしはその日の朝もマイちゃんと話す暇もなく、あるいは、マイちゃんのことを思い出す余裕もなく、大急ぎで家を出た。登校中、自転車に乗りながら、そういえばマイちゃんと話していないことに気付く。小学生のころは寝坊して大急ぎで家を出ても、マイちゃんはランドセルの横に付いていたからいつでも話すことができたのに。


 わたしは自転車を漕ぎながら「ねぇ」と声をかけて、けれど一向にあのゆったりした声は返って来ず、マイちゃんは家にいるのだったと思い出した。


 その日、授業を終えて昨日よりももっと疲れたわたしは、何とか二階の自室にまで行き、マイちゃんに話しかけた。マイちゃん、中学校ってやばいよ。遠いし広いし、男子を見る暇もないくらい疲れちゃう。ごめんね、まだカッコよくてやさしい男子、見つけられてないの。あ、でもね、部活っていうのがあってね、わたしは文芸部に入ったんだけど、マイちゃんの言ったとおり恋バナしてくれそうな子がいたよ。すごいよね。


 わたしは今日あったことを一気にしゃべった。


 辛かったことから情けなかったこと、それから、嬉しかったことや楽しかったこと。一通りのことを話し終えてからわたしは、自分が一方的に喋っていることに気付く。あ、ごめん、いっぱいしゃべり過ぎた? そう訊いてから、さっきのはわたしが一方的にしゃべり続けたのではなく、マイちゃんが一度も相槌や反応を返さなかっただけなのだと気付く。


「マイちゃん?」わたしはマイちゃんの顔を覗き込むようにして訊く。


 マイちゃんは相変わらずまん丸の大きな瞳でウエディングドレスを着ているけれど、ピクリとも動くことはない。眠っているのかなと思った。わたしがいないから退屈で、昼寝でもしているのかと思った。わたしはそんなマイちゃんを手に持ち、そのまま一緒にベッドへ飛び込んだ。春の暖かな日差しに照らされたシーツが、ほんのりとわたしとマイちゃんを包む。


 このときマイちゃんは本当に眠っていたのか、それともただ単純にわたしのことを悪戯で無視していたのか、今では分からない。この時点でわたしは、マイちゃんと話せなくなったなんてことを微塵たりとも想像していなかった。考えなかったというより、思いつきもしなかった。小学一年生から、ずっといるのだ。


 わたしが本格的にそのことに気付いたのは翌日、授業中にお腹が痛くなって、保健室に行ったときのことだった。

 保健室にはベッドが三つ備えられていたのだけれど、そのうちの一つは物置のように本や段ボールが積まれて雑居スペースと化していた。見栄えのためなのか、段ボールの上には雛段のように人形やぬいぐるみが置いてある。保健室の先生が出ていき部屋全体が静かになったとき、わたしはその違和感に気付いた。


 どうして誰もしゃべらないのだろうか。


 わたしはひやりと嫌な予感がして、腹痛も忘れて仕切りのカーテンを開き、そこに鎮座する数々の人形やぬいぐるみに向かい合った。

 誰も何も言わない。試しに手前に置かれていたピカチュウのぬいぐるみに目を合わせ、「ねぇ、聞こえてる?」と声をかけてみるが部屋にはわたしの声だけが残響し、だんだんと消えていくだけだった。どこかの教室から聞こえてくる男子の騒ぎ声だけが、やけに大きく感じる。ドラえもんもプーさんも、リボンの欠けたハローキティーも、よそよそしく黙っていたからだ。


 そう、黙っているのだと、そのときのわたしは思っていた。

 けれど、そうじゃないと気付かせてくれたのは、やはりマイちゃんだった。


 放課後、文芸部の活動を早々にしてサボり、わたしは家に自転車を走らせた。マイちゃんはベッドの上にいた。昨日のように陽光が差し込み、日向ぼっこを楽しんでいるようだった。


「ずるいよ、一人で勝手に日向ぼっこなんかして。わたしは学校行ってきたのに。あ、それよりさ、結婚式って結局いつしたい?」


 わたしは勉強机の上に鞄を置いて、給食セットや体育着を取り出しながら訊いた。マイちゃんは黙ったままだ。


「照れていたって、いつかはするんだからね。春にしたいんでしょう? なら、もうすぐ準備しなくちゃね。だって、春はすごく短いもの。桜なんて、気付けば散ってるし。あ、でも、あれは言いたいかも。桜の桃色がそよ風を美しく染め上げる季節になりました、みたいなやつ。入学式でね、賢そうな子が言ってたの。結婚式でも、きっとするでしょう? まあそんなことより、ねぇマイちゃん、結婚式は……」


 そこでわたしは唐突に言葉を失う。

 わたしが話している間、マイちゃんは一言も話さず、わたしが一方的に話しているというよりも、わたしがただ独り言をしているだけのように思えた。


 そこで、保健室と同じデジャブ感に襲われる。マイちゃんは、黙っているわけじゃない。わたしがぬいぐるみの、マイちゃんの言葉を聞き取れなくなったのだと、自分でも驚くほどにすんなりと理解する。


「どうしよう、マイちゃん。悪戯だったら返事してよ。わたし、怒らないから」


 ベッドの上のマイちゃんを抱き上げるように持ち上げ、勉強机の上にのせる。それだけの動作だったのに、わたしの足はがくがく震えていた。鼻の奥がツーンとして、まぶたの奥がじわっと反応する。上を向いて何度かまばたきをし、鼻水をすする。

 昔からマイちゃんはわたしが泣き出すと、「いたいのいたいの、あたしのものぉ」と意味の分からない台詞でわたしを慰めようとしてくれていたのを思い出す。きっと、今も言っているのだろう。いたいのいたいの、あたしのものぉ。けれどわたしには、その声が聞こえない。


「ごめんね、どうしてだろう。結婚式の予定、わたし聞いてあげられないみたい」


 マイちゃんは、カメのぬいぐるみは何もこたえない。気にしないでねぇ。その丸くて大きなひとみを見つめると、あのゆったりとした口調がそう言っているように感じられた。わたしはたまらずマイちゃんに触れる。撫でるようにして、ゆっくりと。マイちゃんの大きな瞳はまばたきもせずにわたしを見据えていた。中学校は楽しいの? うん、そこそこね。お友達はできたー? うん、恋バナもしてくれそうだよ。やさしくてカッコいい男子はいたぁ? ううんダメ、みんな石川くんよりカッコよくなかった。えー、そうなのー。


 そうやって、わたしはマイちゃんと話しているような素振りをした。


 傍から見れば、いつもと何ら変わりない光景だろうと思う。わたしがぬいぐるみに話しかけて、返事もないのにうんうんとうなずいたり、いきなり笑いだしたり。

 けれどそれはわたしにとって、大きな違いだった。しばらくもしない間に、わたしは自分の胸に去来する感情の大きさにたじろぐ。


 気付けば、栓が抜けたように、わたしはぼろぼろと泣いていた。


 けれど潜在的なわたしは心の一歩外側のようなところから、同時にまったく違うものを見ていた。どこだろうと思う。わたしの知らない場所だ。いや、知るはずだった場所なのかもしれない。小さな教会だ。丘の上に立っていて、小さな鐘があって、遠くを眺めれば海が見えて。マイちゃんは春の陽気に照らされ、ウエディングドレスは平日の午後に差し込む木漏れ日みたいにキラキラと美しく輝いている。隣にいるのは知らない男の子だけど、きっとやさしくてカッコいい人なのだろうなと思う。


 世界でいちばんきれいな結婚式だった。

 マイちゃんは青い空に向かってブーケを投げる。それは羽ばたく鳥のようにして空へ上がった。花束が散り、紙吹雪のように二人を彩る。カーテンでできたドレスも、やっぱりとてもきれいに彩を見せる。


 わたしは何も言わず、ただ側からそれを見ていた。

 けれど、それだけでも、わたしは心の底から嬉しかったし、楽しかった。夢みたいだった。いいや、それは本当に夢だったのだろう。


 夢だと意識した途端、ぼんやりと現実に戻される。丘の上の教会、ウエディングドレス、やさしくてカッコいい誰か、青い空とブーケ。それらは次第に線を薄めて輪郭を失い、やがて輪郭があったことすら忘れてしまう。

 ただ、とても嬉しい夢だったと覚えている。


 いつの間にか寝てしまっていたらしい。

 マイちゃんは机の上で静かだ。わたしは子守歌でも聞かせるように、ゆっくりと話し出す。


「中学校はね、いっぱい人がいるの。三つの小学校から来てるから、単純に考えて学年の人数は小学校の三倍だよ? すごいよね。あの三倍だもの。それからね、部活っていうのがあってね、わたしは、文芸部に入ったの。ほんとうは手芸部に入りたかったんだけど、なかったんだよね。でも、結果的に友だちもできたからいいかなって思ってる。恋バナはまだしていないけど。でもたぶん、これから先いつかするよ。マイちゃんともしたいな、恋バナ」


 相槌を取ってくれる人がいないから、わたしの声は少しずつ小さくなっていく。相槌ができないだけで不便だなと思う。わたしの声、聞こえているのかな。もしかしたら、わたしの声もマイちゃんには聞こえていないのかもしれない。「お友達はできたの?」と、向こうは向こうで私に訊いているのかもしれない。


 玄関から母が帰ってきた音が聞こえて、わたしは立ち上がる。何も言わないマイちゃんを手にして玄関を飛び出て、庭にある物置の鍵を開ける。わたしは言い聞かせるように何度かうなずいてから、マイちゃんを静かに鉢植えの横に置いた。子どもが宝箱に大切なものをしまうような手つきで。

 部屋に戻る途中、母に「目が真っ赤だよ」と言われ、顔を洗った。鏡で自分を見るとまた泣いてしまったので、もう一度洗った。目の端は変わらず真っ赤だった。


 それ以来、わたしはマイちゃんを見ていない。部屋は静かになり、いつの間にかわたしは中学一年生から高校三年生になった。たまに冗談でぬいぐるみに話しかけることはあったが、それはどこまでいってもわたしの冗談に過ぎず、いつまでも彼らが返事をすることはなかった。


 たまに、あの時期のことを思い出すことがある。マイちゃんのこと。そもそもマイちゃんと話せたのも、キーホルダーサイズのカメのぬいぐるみも、すべてがわたしの妄想だったように思える瞬間がある。その感覚は時が進むごとに強まり、あれから五年が経った今ではもう彼女の声音なんて思い出せないし、どんな風にわたしの名前を呼んだのかも覚えていない。まるで、長い夢から目覚めたような気持ちだった。そして、わたしはもう、その夢の内容をほとんど思い出せない。


 窓の外から小学生のはしゃぐ声がする。いつの間にか眠ってしまったらしく、わたしはベッドから起き上がる。


 気持ち良い平日の午後だった。春の暖かな風がどこからともなく吹きつけ、揺りかごに触るようにゆっくりと、部屋のカーテンを揺らしている。カーテンは光を受け、川の水面みたいにキラキラと光っているようだった。いつもと変わらないわたしの部屋なのに、どうしてか分からないけれど、何か、とても懐かしく感じる。


 ここ最近、普通に生きているだけで、わたしにはこういう懐かしい瞬間がたくさん現れる。雀の声が聞こえる通学路を一人で歩いて登校しているとき、家具屋で鮮やかな純白をしたカーテンを見かけたとき、小さな子がひとりきりでお人形遊びをしているとき。そういう日常のふとした瞬間に、わたしは十五年間という短い人生の中で、もうすでに失ってしまったものがあるという事実に驚かされる。


 けれどわたしはその一方で、こんなの、まだ覚えているんだなと自分に驚くときもある。


「夢はある?」


 だれか、もう思い出せない誰かの言葉。あるいは口癖だった、気がする。それだけは忘れないようにしようと、わたしは呪文のようにそれを唱える。すべてを忘れてしまいそうな楽しい出来事があったとき、何もかも忘れたくなるような辛いことがあったとき、思い出せるように「夢はある?」と、口ずさんでみたりする。それから、誰かを忘れたくないと強く願う。


 忘れてもいいのよー、と声がした。風に運ばれてきたように、わたしの耳元で誰かがささやく。その声の主を、わたしは思い出せない。とてもやさしく、ゆったりと、語尾に伸ばし棒が付きそうな声音。

 忘れてもいいのよー。会えばきっと、思い出すんだもの。いつかまた話せるようになったら、きっと思い出すんだもの。

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いつか忘れるあなたの記憶 古蜂三分 @hachimi_83

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