第24話

α

 八咫坊たちからわずか数十メートルの近傍、時刻にすると死闘が始まる少し前のことである。

 〈それ〉は唐突にやってきた。

 ざわざわとはだえ粟立あわだつような不穏な気配が、猛り狂った激浪げきろうめいて一気に押し寄せ、少年を呑み込んだのだった。それまでとは比べ物にならないレベルの、吐き気をもよおすおぞましい瘴気に一瞬、意識が押し流されそうになる。奔流のような衝撃を寸でのところでなんとかこらえる。

 少年のいる給水塔からわずかでも踏み誤れば、三十階下の道路まで真っ逆さまに吸い込まれてしまう。間違いなく即死だ。少年は両の脚を踏ん張った。

 〈大口〉が顕現しようとしているのを少年は、まざまざと感じとった。

 やはり、と言うべきか彼奴は、ただ衰弱して〈巣〉に戻って来ようとしているわけではなさそうだった。

 むしろーー。

 〈巣〉に還る素振りによって、己れを狩ろうとする者どもをおびきだす算段であろう。そう考えるならば、ここへ来て彼奴が、あからさまに〈界面下〉から姿をあらわそうとしているのにも得心がいく。

(ーー罠にかけられたのは、自分の方なのだ。)

 いつの間にか周囲から、生き物の息吹が消えていた。だけでなく、あらゆる音が死に絶えていた。風の音すらない世界は、耳が痛くなるほどの無音。

 少年は頭をひとつ振って正気を取り戻す。慌てるな、まだ想定の範囲内のはずだ。

 右手に持った銛を頭上に掲げ、二、三度まわす。次にそれを下へと振り下ろした。

 ビル群を照らし出していた灯りが、いっせいに落ちた。惣一郎老人の手下てかの者が、少年の合図を捉えたのだ。あとには月陰だけが残った。

 この地区の停電は、計画の上のことだ。人口の照明は、〈大口〉の微細な気配を掻き消してしまう可能性があった。

 まじりけのない月の光だけが〈魔〉を照らし出す。

 電気の消えた墓標じみた建物群からは、人のしわぶきすら漏れては来なかった。人も動物も、ありとあらゆるモノたちが固唾を飲んでいるのだ。誰も、何かを感じていない者はいない。ただならぬ空気に全てのモノが口を噤み、息をひそめている。

 とーー。

 折り重なったビルの手前が不意に、かげったように暗闇に包まれた。天を仰ぐ。月に雲は掛かっていなかった。影はーー下から湧いてきているのだ。

 どろどろとコールタールを流したような、夜よりも暗い闇が静かに、しかし確実に道路や車や街灯や建物たちを侵蝕し始めていた。染みのように広がっていくそれがついに、地表に姿を見せる。玄海たちの車が破壊されたのは、このときである。

 〈それ〉は影そのものだった。

 とてつもなく巨大な、目には見えない何かの影が地に映っているのだ。黒々とした影は、周囲の光さえも吸い込む底なしの深淵めいている。輪郭は絶え間なく変化し、円を描いたかと思えば一転、奇怪な禍禍しい形状に変じている。

 少年は銛を構えると、普段、島で漁を行っているときのように狙いを定めた。

 その態勢で少年は幾らでも待つことが出来た。海底の岩陰や、砂の中に隠れた魚などが動く一瞬を狙って、銛を放つのだ。歴戦の狙撃手は、標的を捉えるまで何時間も何日も、じっと待つことが出来るという。少年は一流のそれに匹敵した。

 チャンスはおそらく一度しかないだろう。〈白粉〉によって染められた〈大口〉の心臓が、鏡のように磨かれた魂に映った瞬間、あやまたず打たなければならない。しかしそれは、長距離から針の穴を通すような難事に他ならなかった。

 闇溜まりは広がりつづけている。一体いま〈大口〉がどれほどの大きさに成長しているのか、見当もつかない。

 〈大口〉の心臓を、少年は探った。


Ω

 少年のいるガラス張りのビルディングに〈闇〉が這い上る。そのさまを、人知れず間近で目撃している者がいた。

 屋外避難階段の踊場で若水徹は、鉄製の手すりから身を乗り出すようにして、シャッターを切り続けた。やはり自分は、〈これ〉を撮るために選ばれた人間だったのだ、と若水は確信した。

 ファインダー越しに覗いているモノーー〈闇〉が何であるのか、もはやそれは問題ではなかった。これを撮りつくしてやる。ただひたすらに指先を押し続けながら、若水の口で哄笑こうしょうが弾けた。

 

Δ

 カーン、という甲高い金属音で、颯太はそれに気づいた。

(ーー???)

 はからずも抱き合う格好になった颯太とマリアの横を、自動車のホイールカバーがコロコロと転がっていく。そいつはしばらくジャイロ効果を見せつけたあと、不安定になってついに倒れた。ガシャンと耳障りな音が響いた。

(ーー何? どっから出てきた?)

 ガチッ、と今度は重く鈍い音が続いた。恐る恐る覗くと、剣呑な音の正体は鉄骨のはみ出たコンクリート片である。それが二人から五メートルほど近くに落ちてきたのだった。頭の中で、危険信号がビカビカと点滅した。左右を見渡し顔を上に向けたとたんに、それが見えた。

(ーー雨、なわけないよな?)

 雨じゃなかった。

「ーーのわっぁぁぁ!?」

 上方から落下してきているのは雑多な品々だった。バケツにテレビに冷蔵庫に洗濯機にキャリーケースに自転車に半透明ゴミ袋にーー大小様々な粗大ゴミが、文字通り雨あられと降り注ぐ。颯太の一部は目にしたものを拒絶しようとしたが、別の一部はCG動画でも見るようにそれを、はっきりと認識していた。

「おおううっ!?」

 咄嗟にマリアを、お姫様抱っこに持ち上げた。抱き抱えた体勢のまま、目についたビルのアーケードに向け走り出す。インドア派で細腕の颯太にしては、かなりの壮挙である。火事場の馬鹿力というやつだ。

 土砂降りのようなゴミたちが、背後でいっせいに地面を叩いた。物凄い地鳴りが轟いた。もうもうと黒煙が立ち、一瞬にして颯太を追い抜く。視界が暗転した。盛大に埃を吸いこんでしまい、涙が出るほどむせた。ほんの少し遅ければ潰され、ゴミの山に埋もれてしまっていただろう。

 何とかアーケード下に滑り込んだとき、すぐ傍で大型トラック用のタイヤが跳ねた。反射的にマリアを庇った。

 始まったときと同様に、地鳴りは唐突に止んだ。

 颯太は知らぬことだが、バラバはゴーレムを造るため、夢の島の新江東清掃工場から焼却灰を失敬した。そしてその〈のゴーレム〉を強化するのに、多摩川河川敷に不法投棄されていた粗大ゴミを混ぜ込んだのだ。ゴミの雨は、ゴーレムが崩壊した成れの果てなのだった。

(ーー最後のはヤバかった。危ないところだった……。)

 胸を撫で下ろしていると、ゴホン、と咳払いが聞こえた。

「盛り上がってるとこ、悪いんだけど、さ」

 いつの間にかバラバが、傍らに立って見おろしていた。そしてーー自分がマリアを押し倒した格好になっているのに気づく。

 身体の下のマリアが、真っ赤な顔を両手で覆っていた。

「いやいやいやいやいや……」

 吃驚するような勢いで飛び退いた颯太もまた、顔の熱が爆上がりになる。

 そんな二人の動揺など意に介さずバラバは、油断なく周囲に目を配っていた。囁くような掠れ声で呟いた。

「あの男ーーしくじったみたいだ」

 闇がまた、増殖し始めていた。

 

Ψ

 夢を見ているに違いない、と和泉は思った。夢であって欲しい、と願った。

 ひと気のない改札を抜けーーさっき少年が一人駆け出していったーー歩道橋の階段を降りかけたときに、その光景に出くわしたのだった。

 和泉の立つ位置から、闇に飲み込まれるビル群が、はっきりと見えた。およそこの世のものとは思えない、ぶよぶよと蠕動する軟体動物めいたそれが、あきらかに意志を持って、ビルを、いや世界を捕食している。その一端はやがて、津波のように和泉のもとまで押し寄せるだろう。

 恐怖で身体が動かない。視線だけが辺りを彷徨さまよう。

 と、視界の隅に、ほの白く浮かび上がるものを捉えた。目をみはる。

 少年が。

 あのときの少年が、はす向かいの建物の屋上に立っているのだ。それは通常の意味での視力で目撃できる距離ではなかった。ましてやこの暗闇ではなおのこと。しかし和泉の中にそのことを不審に思う心は働かなかった。意識は相変わらず夢の中にいるみたいに曖昧である。

 少年の全身は和泉の眼に、半ば輝き、かつ半ば透明に映っている。いつかの夜のように長い得物を持ち、構えている。

 和泉はギョッとなった。ふるふると震える闇の触手が、少年の背後から、いましも足元に伸びようとしていた。しかし闇闇あんあんのうちに忍び寄った脅威に、少年が気づいた様子はない。

 本能に押され、和泉は思い切り叫んでいた。

 闇を祓い、邪を退ける〈砂女カンヌプ〉の叫びを。


α

 銛を放った瞬間、少年は何も考えていなかった。どこからか聞こえてきた叫び声に空っぽのまま反応し、無意識のうちに振りかぶり、振り下ろしていた。叫び声が、千分の一秒単位で、少年の射出を助けた。

 ひゅう、と風を切って銛がーー〈漏斗〉がーー飛ぶ。単純な運動エネルギーであったはずのそれは、中空を進みながら次第に加速。瞬く間に光の矢に変じた。

 雷挺らいていが避雷針に落ちるように、まっしぐらに光の矢が〈闇〉に吸い込まれた。

 人の手で放たれたとは思えない威力で、銛が向かいのビルの壁面に突き刺さる。

 閃光/轟音。

 一拍を置いてのち、落下地点から蒼白い煌めきが同心円を画いて波紋のように広がる。水面みなもを揺らすようにそれがビル全体を覆っていった。それきり反応はなかった。全てが沈黙。

 外したのかーー少年が身を乗り出した時、耳にした者の魂を削る咆哮が、地の底から沸きあがった。


 ご・お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・お・お……。


 ベイエリアを揺るがすほどの大音声が、轟然と響いた。見る間に〈闇〉の表面がふつふつと泡立った。


 ず。

 ず。

 ずず。


 〈闇〉が、マグマの河のような、固体と液体の中間めいたものに変じた。流動し始めた。地響きを伴った流れが渦を捲く。銛の刺さった箇所へ向かって集まり始めた。水盤の底に穴が開いたように、一点に漏斗状に吸い込まれていく。

 その流れに抵抗するように、渦の表面に稲光いなびかりが走った。鬼火をまとった〈闇〉の一部が、ギュルギュルギュル……と捻れ、螺類まきがいのように鋭く突き出た。兇悪な尖端が、少年に狙いを定めた。ビルごと貫かんと、鬼出電入きしゅつでんにゅうに殺到した。

 〈漏斗〉を手放した少年は、いまや徒手空拳である。少年の優れた動体視力は、尖端がビルの外壁に衝突し食い込んでくる速度を見てとる。かわすことなどできない。逃げる場所などない。が、すでにして使命を果たしたゆえ、胸のうちは穏やかだった。

 

 ビルの屋上が砕けーー。

 貫穿かんせんした螺類まきがいの尖端がーー。

 飛び出して給水塔に達しーー。

 目を瞑ればおじいの顔が浮かびーー。

 

「跳べっ!!」

 耳朶を打った言葉に反射的に従った。

 少年は背中から宙に躍り出た。

 

 詳細は知らねどバラバ/マリアは、少年を救わねばなぬと判断した。咄嗟に叫び声で少年に警告すると、二人は〈飛行魔術〉を唱えた。

 

α

 落ちていく。落ちていく。

 あお向けに落下する少年の眼に、一緒に落ちてくるコンクリートやガラスの破片が映る。不思議な感覚だ。まるでスローモーションの中にいるよう。落ちながら少年は、銛の刺さったビルの壁面を見る余裕すらある。少年を見舞った攻撃は、窮余の一策、最後の悪あがきだったようだ。鬼火をまとった〈闇〉は本体に引っ込んでいった。無気味な煌めきごと渦巻きに吸い込まれていく。眩暈が少年を襲う。少年の意識も渦に捲き込まれる……。

 ……。

 ……。

 ……。

 ……。

 ……待ち受けているはずの痛みはなかった。代わりに少年は、身体に強力な制動を感じた。父親が子どもをゆっくりと下ろすように、滑らかに裸足の足の裏がアスファルトに着地した。傷ひとつなく自分が地面に降り立ったことに、呆然となった。強力な呪力が護ってくれたのだった。

 少年は〈大口〉の末期を目撃する。ヴォリュームを絞ったように無気味な叫喚がすぼまりミュートされた。砂漠が最後の一滴を吸い切ったようだった。

 闇色の影が完全に拭い去られると、銛が力尽きたように壁から剥がれた。

 瓦礫のばら蒔かれた道路越し、建屋の足元に、ぽつねんと銛が落ちているのが分かる。少年は、ガラス片に気をつけながら銛に近づいた。乱雑に散らかった周囲を見回す。あった。

 数メートル先の植え込みの根元に〈卵〉が落ちていた。寄っていって取り上げる。黒く艶めいた歪な球形。ごつごつした禍禍しい表面のそれは、〈大口〉が収斂した姿だった。

 腰にさげた守り袋にそれをしまうと、少年は上方を見上げた。

 歩道橋に立ち尽くす人影に向かい、日本式のお辞儀をする。少年を救った、この島の〈砂女カンヌプ〉に敬意を表わす。それからこちらへ向かって駆けつけて来る、二人の〈砂女カンヌプ〉たちにも。

 顔を上げ方向転換をすると、少年は振り返らずに瓦礫の山を縫って立ち去った。

 心はすでに故郷の海へと飛んでいた。


 瓦礫を避けながらようようたどり着いたバラバとマリアは、走り去る少年をそのまま見送った。

 少年が何者なのかは分からなかった。だが確実なことが一つあった。

 〈魔〉は祓われたのだ。


Ω

 その日の深夜、中野のとあるアパートでボヤ騒ぎが起こった。出火元は二階の角部屋に住む学生、若水徹の部屋である。幸い、臭いでいち早く気づいた隣人によって火は消し止められたが、発見当時若水は、フライパンの中で燃える火を前にして、呆然と立ち尽くしていたという。

 彼の口からは譫言うわごとのように言葉が漏れていて、前髪も睫毛も完全に焦げていた。火脹れで痛々しい顔面の若水は、全くの錯乱状態だった。

「おれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮ったおれは撮った」

 ひたすら呟きながら、若水は自らが燃やした、写真らしきものを見つめていたという。

 彼が何を燃やしたのか分かる術はなかった。


 一週間後のお台場。

 立ち入り禁止のテープがいまだ生々しい積み上げられた瓦礫の前で、静かに読経する老人がいた。

 老人の掠れた声は、ビルの谷間をうねり、人々の耳にいつまでも残ったという。


Δ

 マリアは言った。きっとまた会いに来る、と。今度はわたしが声をかけます、と。颯太はその言葉を信じる。

 たとえ運命が、二度と颯太をマリアに会わせなかったとしても、彼女を忘れることはないだろう。

 日なたぼっこをするジイサンになっても。

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