第23話

Δ

(いったいなにがどうなってるんだ!?)

 颯太は、前方の光景に呆然となった。

 バラバに呼び出されて、りんかい線の東京テレポート駅を降りてみればそこは、思い描いていたような大人向けの遊び場とは程遠いありさまだった。

 辺りは生臭く黄色味がかったような靄で満ちている。それどころか、街のそこここ、歩道やビルの壁や街灯にドロドロとした黒い物体が貼りつき、わだかまり、蠢いている。地獄のような光景だった。

 さらにーー。

 首都高速湾岸線を含む何本もの道路を跨いだ大型歩道橋、そのお台場側に、巨大な人型のモノが見えた。

(あれっ? 巨大ガンダムって、撤去されたんじゃ……)

 マンガの〈巨人〉をひどく不恰好にしたようなそれは、到底、見馴れた形状のものではあり得ず、颯太は度胆を抜かれた。だが同時に颯太は直感で、それがマリアの窮状に関係があるだろうと悟ってもいた。巨人のいる方角には、くねくねと身をよじらせる光の柱が幾つも立ち上ぼりーーとてもサーチライトとは思えないーーそれが、先の黒い物体に取りついているようである。

 どう考えてもまともな状況じゃなかった。

 想像を絶する怪異に、颯太の足がすくむ。尻込みする。帰りたくなる。

 だがーー。

「う、ううっ……」

 ひとつ容易に推測できることは、通知の通り、マリアがピンチだということだ。

「ううううぉぉぉー!!」

 颯太は腹をくくってーーというよりもやけくそになって、無我夢中で巨人めがけて走りだした。


 腹をくくった八咫坊の心は、これまでになく、凪いだ水面みなものように清澄せいちょうだった。

 玄海と八咫坊は、歩道橋の上に着地した。玄海が、もうもたなかった。ガックリと膝を折って、その場に崩れる。その玄海から無理やり目を引き剥がして八咫坊は、〈敵〉に対峙した。

 八咫坊は懐に手を入れ、古ぼけた細い巻物を取り出す。そしてそれを無造作に宙に放った。同時に素早く手印を結ぶと、「オン・アモキャ・ビジャヤ・ウン・ハッタ」と唱え始めた。

 最後の賭けだった。

 巻物は宙から落ちてこなかったーーどころか、あろうことか、スルスルとひとりでにほどけながら、天へと駆け上っていった。しかもそれは、バネのような螺旋を描き、どこまでもどこまでも延びていく。

「『不空羂索ふくうけんじゃく神咒秘経しんじゅひきょう』! いかん!」

 意図に気づいた玄海が制止しかけ、痛みにうずくまる。もはや八咫坊を止めることはかなわない。

 慈悲の羂(網)と救済の索(綱)で、一つの失敗もなく(不空)、衆生を救済するのがこの尊格である。その真言は、二十種の功徳(現世利益)と八種の利益(死後成仏)が得られるとされるが、特に往生の功徳が重要であった。死者に対してこの真言で供養すれば、阿弥陀仏が迎えにきて必ず極楽浄土に導くという。

 しかし、ヤマに秘蔵されている『神咒』の強力すぎる呪力は、死者のみならず、生者すら往生させてしまうことを玄海は知っていた。

 元来、もれなく衆生を救うとされる〈しゅ〉ーーそれを八咫坊は、〈神〉をあるべき次元へ送り返すのに用いようとしているのだ。

 だがしかしーー。

 強力極まりない〈呪〉の使用は、八咫坊の身をも危うくする可能性があった。玄海の危惧はそこにある。『神咒』はあまりに強大無比であり、八咫坊自身ーー髑髏鬼に定着させた、かりそめの魂ーーも往生させてしまうかもしれぬ。

 まるで柱のように、『神咒秘経しんじゅひきょう』が天空へ向け屹立する。ただの物体、有限の巻物であるはずの『神咒秘経しんじゅひきょう』が、合わせ鏡の像のように、無限に夜闇に続いている。

 その柱の中心部が、〈呪〉に呼応するかのように、ぼうっと燐光を放ち始めた。辺りの空気が動き出した。

 柱を軸にして、ゆるゆると世界が回転を始める。街の塵埃が、並木の葉が、柱に吸い寄せられ巻き上げられていく。

 巨大な渦が生まれていた。

 それは空に穿たれた貪欲なあぎとめいて、中心に閃光を伴いながら、周囲を飲み込み始めた。


 ごおあおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお。


 天地を震わせて、耳を覆いたくなるような、聞く者の精神を狂わすような咆哮が頭蓋をつんざく。彼奴の悲鳴だ。安穏とした世界から引き剥がされそうになった、彼奴の叫び声。八咫坊はそれを断末魔と見てとった。事実、地面でのたうっていた闇の一部は千切れ、竜巻に捲き込まれたみたいに、柱に吸い込まれていった。

 しかし変化は、八咫坊にも現れ始めていた。

 逞しい腕が、傷だらけの頭部が、波に崩れる砂の城のように揺らぎ、ぼやけ、かたちを失っていく。

「やめい! やめるんじゃ、八咫!!」

 玄海の悲鳴をよそに、八咫坊はさらに〈呪〉を加速させていった。

 玄海の視界が、すうっと溶暗した。血を失いすぎたのだ。グニャリとした眩暈が玄海の意識を奪い去った。


 聞き慣れぬ男の詠唱が、恐るべき影響を及ぼしているのは明白だった。

(ーー強力な解呪の魔術だ。)

 バラバはすぐさま察した。

 無気味で異質な音律の効果は凄まじかった。バラバたちの足元に拡がっていた暗黒淵やみわだが、洗剤で分解された油分みたく泡立ち、瞬く間に溶け出している。

(行ける! このまま上手くいけばマリアを捉えている触手もーー。)

 見上げたバラバの顔面が、蒼白になる。

 バラバを掴んでいるマリアの細い手が、必死の表情を浮かべる顔の輪郭が、アイスクリームが溶けるように、とろり、と溶け出しているーーように見えた。

 人造人間ホムンクルスを形作っている魔術が、強制的に解かれているのだ。戦慄がバラバの背中を駆け抜ける。それはアブラメリン魔術で召喚した〈神的存在ダイモニオン〉も同じだった。急速に後光ヘイローが弱まり、かがやく翼が、身体が、半透明になっている。

 にわかにマリアが、バラバの手を振りほどこうともがく。意図を察してバラバは、逆にしがみついた。バラバのみならば〈飛行魔術〉で離脱できる。マリアは彼女を逃がそうとしていた。しかし未だ〈闇〉の触手に掴まれているマリアは逃げられない。〈呪〉の範囲外に出なければ、このまま消滅してしまう。

 だからバラバは抵抗した。マリアだけ逝かせるわけにはいかない。

「ちょっとアンタ、さっきと言ってることが違うじゃん!!」

 マリアはとりあわない。バラバを救うことに必死なのだ。

 バラバはもうマリアの顔を見ていられなかった。愛しいあの笑顔が、すでに崩れつつあるのかと思うと無念の泪が零れた。

 できなかった。

 マリアを守ることが。

 自分が死ぬのはかまわない。

 でも。

 マリアだけは救いたかった。

 悔恨と虚無感が一瞬にして胸に渦巻く。

 その時ーー。

 バラバの視界の隅に、待ち望んでいたものが見えた。咄嗟に叫んだ。

「マリア! 下を見ろ! あの子を助けろっ!! まだ諦めるな!!」

 マリアがバラバの視線を辿る。

 その先にはーー。

「ソウタさん!?」

 マリアが叫んだとき、三つのことが同時に起こった。

 〈闇〉の触手が溶けきって、拘束がほどけた。

 〈神的存在ダイモニオン〉が力尽き、二人が落下した。

 バラバが〈飛行魔術〉を唱えたが、地面に衝突するまでに発動するかは賭けだった。


Δ

 反射的に飛び出していた。颯太は力の限り走った。間に合う。絶対に。

 道路の〈闇〉は、融雪みたくすでに消えている。だが、あの高さから落ちれば、怪我は必須だろう。もつれる脚を精一杯動かすが、自分が進んでいる気がしない。クソッ、あとちょっと。

「だぁっっ!!」

 両手を伸ばして、ヘッドスライディングのようにジャンプした。

 まるでスローモーションのシーンのように感じた。彼女の身体が、伸ばした両手にゆっくりと収まった。

 重みを感じた瞬間、体をひねった。咄嗟に彼女を抱きしめた。どう、と背中から落ちる。衝撃。だが覚悟したほどではない。

 気がつくと颯太を下に、マリアが重なって倒れ伏していた。颯太は知らないことだが、彼らの身体は〈飛行魔術〉でわずかに地表から浮き、水面の木葉のように漂っているのだった。

「大丈夫!? ねえ!?」

 颯太は下から、上に乗っているマリアの肩をつかんだ。マリアは応えなかった。が、青ざめた顔が眉をひそめたところを見ると、命に別状はなさそうだった。

 気を失っているマリアの全身から、シュウシュウと煙のようなものが立ち昇っているが、きっと気のせいだろう。

 颯太はひとりごちる。

 だって。

 マリアはこんなにもキレイなんだから。


 それは言うなれば、生死存亡をかけたチキンレースだった。

 八咫坊の誦持じゅじにあわせて、柱の光がひときわ強く明滅し、〈闇〉を駆逐していく。が、同じ誦持じゅじによって八咫坊の身体は崩壊していくのだった。

(俺がぶっ壊れるが早いか、オマエが修祓しゅばつされるが早いかーー)

 八咫坊はさらに陀羅尼を加速させる。だが不思議と悲愴な感覚は身内に湧いてこない。不可解ではあるがそれは、八咫坊の頭の中で妙なる音声おんじょう御詠歌うたが鳴り響いているからだった。口に昇っているのは『神咒』だのにーー。

 

《これはこの世のことならず……》

《二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが……》

《一重組んでは父のため 二重組んでは母のため……》

 

 嗚呼、これは地蔵和讃だ、と朧になりつつある八咫坊の意識がとらえる。心安らぐ真言が繰り返される。意識がゆるゆるとほどけていく……。

 

《オン カ カ カ ビ サンマエイソワカ……》

《オン カ カ カ ビ サンマエイソワカ……》

《オン カ カ カ ビ サンマエイソワカ……》

 

 道路が裂け、アスファルトの隙間から泥水が噴き出したのはそのときである。いや、泥水とみえたのは漆黒の影そのものだ。影が大地から立ち昇り、その一部が中空の柱を薙ぎ払った。巨大な海獣ケートス尾鰭おびれが、海面を叩いたようだった。

 叩かれた巻物にまだらな鬼火が飛び散る。鬼火になぶられた『神咒秘経しんじゅひきょう』が発火した。星火せいか燎原りょうげんの勢いとはこのこと、たちまちのうちに、ゴウッと全体がオレンジの炎に包まれた。

 『神咒秘経しんじゅひきょう』が燃え尽きるまでは、ほんの一瞬だった。

 焔が見えなくなった瞬間、歩道橋は奇妙にび返った。

 玄海は目を開けた。甲高い耳鳴りが頭蓋骨を揺らす。出ていかない耳鳴りを抱えたまま、顔を起こした。歩道橋の手すりに体重をあずけて、何とか立ち上がった。

 渺漠びょうばくたる荒野にいるようだった。

 八咫坊が作り上げた〈不動金縛り〉の結界は、とうに破られていた。〈外法頭〉の姿は影も形もない。

 白い灰になった『不空羂索ふくうけんじゃく神咒秘経しんじゅひきょう』の巻物だけが、飛散し、雪片のように辺りに降りそそいでいる。

 歩道橋の下で海面で身を翻す巨鯨めいた影が、嘲笑うように悠々と地面に還っていった。

 そしてーー。

 八咫坊もまた、消えていた。

 この世界から、跡形もなく。

「八咫よ……」

 玄海の慟哭が、虚ろに響いた。

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