第12話
卍
車は第一京浜を大森方面に向かっていた。追跡をはじめて六日目。ついに八咫坊は光点を捉えた。
矢印と光点が近づくにつれ、モニターの地図の縮尺は連動して変化していった。
時刻は深夜に近い。車どおりは少なく、八咫坊はRⅤを快調に駆った。モニターを確認する。光点はすぐある区画にとどまったままだ。倉庫が立ち並ぶ、ひと気のない区画のはずだった。
いつの間にか、また雨が降り出していた。音もなく降りてきて、気づくとぐっしょりと身体を濡らしてしまう雨だ。
八咫坊はバックミラーを覗き込んだ。狭い視界には、特に不審な様子はない。
が、そこにいる何者かの存在を、八咫坊は感じ取っていた。彼奴の跡を追い始めたのと同時に、八咫坊の背後に、得体の知れない追跡者が張りつくようになった。相当の手練で、八咫坊にさえも容易に尻尾をつかませないが、着実についてきている。
初めは警戒していたものの、今ではすっかり知らん顔を決め込んでいる。刺客につきものの、剣呑な気配が一切感じられないからだ。目的がわからないのが気に入らないが、こちらに危害を加えるつもりがないのなら、放っておくことにする。少なくとも、八咫坊の仕事に変わりはないのだ。
小さな交差点を幾つか曲がり、適当な場所で、車を脇に寄せた。蒲田の北のはずれといった辺りだ。
街灯が、雨滴を反射して、白い光の輪を形作っている。
アスファルトに降り立った八咫坊の
〈
土地は、建物があったりなかったりの歯抜け状態で、合い間の空き地には、セイタカアワダチソウが繁茂している。連日の熱波にもかかわらず、外国からやって来たそのたくましい種は、いっこうに萎れる様子も見せない。
思い出したように、ぽつぽつと立ち尽くす街灯以外は、遠くのビルの明りだけが、世界を照らし出している。
一階が駐車場になっているビルの隣りは、小暗い路地だ。金剛杖を向け、路地を素早く覗き込む。じっと闇に目を凝らす。濃淡のない、のっぺりとした闇は、墨で塗り潰したようで、遠近の感覚が狂ってくる。全身の神経を集中した。
何も感じなかった。生き物も、そうでないものの気配も、何ひとつ。
巨体にもかかわらず、音を立てない動きで、八咫坊は先を急ぐ。軽装の八咫坊は、たちまち濡れそぼる。
海から生暖かい風が届いた。汐に混じって、わずかにオイルが臭う。八咫坊の周囲で、空気がゆっくりと渦巻いている。ざざざ、とセイタカアワダチソウが騒いだ。
八咫坊は、根本印を結んで
それは、高速の〈
たちまち四肢に力がみなぎり、己の肉体が、内側からの圧力で膨れ上がったように感じる。〈
歩く八咫坊の耳朶を、風のざわめきに乗って微かな声が、掠めた。
細く断続的に発生するそれは、女のもののようだった。うなじの毛が逆立った。
さらにスピードを上げた。
止まったのは、とある建物の前だった。三階建てほどの高さのあるそれは、どうやら何かの工場らしかった。手前が砂利敷きの駐車場で、隅の方にぽつん、と米国製のセダンが止まっている。
〈鏡〉に変化はない。辺りに存分に気を配りつつ、駐車場を横切る。車に近づいた。
水音が近くでした。車両の向こう、工場の裏手には運河が迫り、堤防が見えていた。女の声は工場の中から漏れてきているようだった。
ためらいはなかった。鋼鉄製の肉厚な引き戸に手を掛ける。
ずりっ。ずりっ。ずりっ。
重いものを引き摺るとき特有の、耳障りな音を立てて扉が開かれた。
流れ込む薄明かりに、埃が白く舞う。
八咫坊の巨体がするり、と扉をすり抜ける。靴の裏が砂を噛んだ。
入るなり異臭が鼻を突いた。堆積した埃と錆びた鉄のにおいに混じって、金気のある、生臭いにおいがあたりに充満していた。馴染みのある臭い。血の臭いだ。
すでに〈
奥へと踏み出した。雨音が遠ざかる。どこかから漏れた水が、した、した、した、と単調なリズムを刻み、ここが外界とはまったく別の空間であるような非現実感を、八咫坊に抱かせる。
その閉ざされた暗闇の中で、ふつふつと人の声が湧いている。女の声。すすり泣くような、そうかと思えば痙攣的に笑うような、調子の外れた、どこか聞く者の神経を逆撫でする声。
近づくにつれ、声の主がほの白く浮かび上がってきた。
建物の奥、何かの機械らしき鉄の塊の陰に、女がいた。まだ若い女だ。どう見ても二十歳そこそこ。ひょっとしたら、それより若いのかもしれない。
それにしても、女の様子は酷いものだった。
肩まである茶色い髪は、ざんばらに乱れている。ピンクのキャミソールは、右のストラップが千切れ、乳房が露になっていた。カモフラージュ柄のミニスカートは、脚のつけ根まで捲くれあがっている。下着は剥ぎ取られているようだった。
擦り傷だらけの剥き出しの生足が、痛々しい。レイプされたか、その寸前なのか。いずれにせよ、無残な姿だった。
しかし、八咫坊の関心は女にない。なんとなれば、女の周りには、さらに異様な光景が広がっていたからだ。
床に倒れ伏す数名の男ーー。それと人間だったと思しきものが、そこらじゅうに散らばっていた。
どうして人間だと断言できないのか。ある者は完全に頭部を失い、首のあった場所に血溜まりを作っていた。また別の者は横腹を抉られ、はらわたがはみ出していた。
いまだ死に切れず、絶え間なく呻き声を挙げている者。身体の前面が、挽き肉のように変わっている者。
それは街の人間がうっかり屠殺場を見たときの、あのグロテスクな感じに似ている。いや、屠殺場の方がまだしも秩序があるのではないか。
なんにせよ間違いないのは、この男たちは、何者かに食い散らかされている、ということだ。
まだ湯気を立てていそうな血溜まりを避け、八咫坊は女に近寄った。
どこからか漏れた光で、女の顔が辛うじて判別できる。肌の色がどす黒く見えるのは、日焼けをしているからだけではあるまい。女の眼は虚ろで、何も見てはいない。アイラインは涙で流れ、マスカラが剥がれ落ちている。鼻と口からは血が垂れている。
その口から、絶え間なく声が漏れている。
女は正気なのだろうか。とてもそうは思えない。
この場所で何があったのかは明白のようだ。女は拉致され建物に連れ込まれた。おそらくはレイプされるために。そこに彼奴が現れた。楽しいディナータイム。女は一部始終を目撃したのだろう。
彼女が助かったのは偶然か、何か理由があるのかーー。
そのときふいに、辺りに光が差した。胸元を見る。〈鏡〉が自ら輝きだし、なおも急速に照度を増していた。
近い。
全身が総毛だった。反射的にとんぼを切った。
回転しながら、後にさがる。そうしながらも同時に、気配だけをその場に残すことは忘れなかった。
〈
何かが、八咫坊のいた空間を横切った。着地。体勢を立て直した八咫坊の目前で、ぱん、と〈それ〉が弾けた。
女の頭が
八咫坊は胸元の〈鏡〉を引きちぎる。ライトのように正面にかざした。蒼白い光の中で、何かが、夜よりも暗い何かが、目にも止まらぬ速さで動き回り、八咫坊へ向かってきた。
「ちいいいっ!」
背後に飛び退りながら、金剛杖を打ち下ろす。
ぎいいん。
硬いものにぶち当たり、金剛杖が弾かれた。そのわずか
身を翻す。そのまま五メートルほど一気に横へ走った。
壁に向かって床を蹴った。壁面を踏み台にさらに飛ぶ。空中で身体を捻り、直感であたりをつけた方向に、
おおおおおおおおん。
声でない声が、ビリビリと建物を震わせた。宙の八咫坊が、バランスを崩すほどの凄まじい
どう、と地面に背中を打ちつけた。息が止まるほどの衝撃。が、身体のバネを使って瞬時に起き上がった。前方で陽炎のようにゆらり、と空間が歪んだ。
「歪み」からは見えない波動がーー憎悪か?ーーが、激しく噴き出している。それは、狙いを定めるように一旦静止した後、いっさんに八咫坊、目掛けて殺到してきた。
「けえっ!」
第二弾の護摩刀を放つ。今度は空を切った。それは悠々と攻撃をかわしたようだった。
八咫坊は瞬時に身をかがめる。かろうじて遣り過ごしたようだが、掠めたそれによって、肩口に火がともった。少しだけ抉られた。
「ぬぐっ!」
痛みをこらえながら、八咫坊は
八咫坊の左右の肩の上に、緑の火が出現。二つの火球は、見えない敵にむかって襲い掛かった。〈
「やれっ!!」
乱舞する蛍のように、激しく火球が動き回る。中空で、たちまち火花が散った。
にやり、と勝利の笑みを浮かべた八咫坊が、次の瞬間、凍りついた。
グワッと立て続けに二本、火柱が噴き上がり、護法の気配が消滅。
「まさか……」
俺の護法を破りやがったのか?
間髪入れず、身体を捻った。
だが体勢を立て直す前に、それは容赦なく襲い掛かってきた。
めくらめっぽうに、折れた金剛杖を振り回す。かすりもしない。とても捕捉できるようなスピードではない。
わき腹が熱くなった。また腕。今度は尻だ。
服が破れ、抉られた肉からは、血が滴り落ちる。分厚い筋肉と術で覆われてはいるものの、防戦にも限界がある。
脚に灼熱を感じたとき、八咫坊はついに背中から倒れこんだ。さっきのように跳ね起きることは出来なかった。体全体がボロ切れになったみたいだった。
見上げた天井で、闇が揺れた。まるで八咫坊を嘲弄しているかのように、それは空間の一点に留まっている。
ーーへっ、いっちょ前にいたぶっていやがる。
大の字のまま、八咫坊は口の端に、不敵な笑みを浮かべた。その闇が急降下してきた。
速やかに八咫坊は諦めた。防御する暇もない。とても避けられる速度/タイミングではなかった。それが分かったから、八咫坊は無駄な動きを取らなかった。目も閉じなかった。がーー。
ざん。
八咫坊の目の前で火花が散った。空間がたわみ、そこに波紋が広がった。
何かが彼奴とぶつかったのだ。だが何が? 頭を巡らす。
いつの間にか傍らに、男が出現していた。いや、少年か。戦闘に気を取られていたとはいえ、八咫坊ほどの手練に気づかれない、手妻のように鮮やかな、まさに「出現」だった。
呆気にとられる八咫坊の前で、少年は、手にした銛のような槍のような得物を、部屋の隅へ向ける。投擲の構えで得物を引き絞る。いましもそれが放たれんとした瞬間、八咫坊の胸元で〈鏡〉の光が急速に失われていった。
それが遠ざかっているのだ。少年はしばらくの間、油断なく身構えていた。が、完全にそれの気配が霧散すると、ゆっくりと得物をおろした。八咫坊を見下ろした。
「ダイジョウブですか」
凛とした、涼やかな声だった。八咫坊の目の光を見て取ったのだろう、少年は安心したように微笑むと、元来た時の鮮やかさで消え去った。
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