第10話

α

「もう、よい。さがりなさい」

 白い法衣をまとった信徒が、一礼をして、部屋を辞した。御厨天鳳が威厳を保てたのも、そこまでだった。

 扉が閉まったと同時に、ソファに座り込んだ。

 掻き集めたお布施であがなわれた北欧製のソファは、いつもならウットリするほど優しく身体を抱きとめてくれるはずなのに、今日はなんだか酷くよそよそしく感じられた。無理もないかもしれない。ここのところ眠れない日々が続いていたのだ。心身ともに草臥れ切っていた。

 脅迫が始まったのは、先週の土曜日だった。いつものように、修行の名のもと、女性信者に夜の相手を勤めさせてから、天鳳はこの自室でブランデーを舐めていた。

 最近、お布施の入りが下がり気味だった。信者の数も頭打ち。大きなイベントを催すなりして、どかんと集金出来ないものか。ハルマゲドンにしようか、コミンテルンの陰謀にしようか、と頭をめぐらせていたとき、ナイトテーブルの上でスマホが鳴った。愛人専用の、側近はおろか、家族ですら存在を知らない秘密の番号。とっさに取り上げて通話ボタンを押した。

《ーー長岡ながおか美津夫みつおだな。》

 飛び上がった。久しく捨てていた本名で呼ばれた。聞いたことのない声だった。声は低い、感情のこもらない調子で続けた。

《ーーお前はこれから、私の言うことを実行することになる。拒否権はない。上手くやりおおせれば、今しばらくは、お前のやっていることを黙認しよう。》

 問答無用に、一方的に告げられた。男だということだけは分かる、淡々とした、年配とも若者ともとれる不思議な声。天鳳は唖然としながらも、耳を離せない。

《ーー詳細は追って連絡する。もしお前が要求を無視したり、言われたとおりに実行できなければ……。》

 声は、効果を推し量るようにそこで沈黙し、プレゼントを見てよく考えることだ、と言った。

(ーープレゼントだと?)

 ぷつり、と唐突に電話が切れた。不通をあらわす電子音が、虚しく耳朶じだの奥で響いた。

(ーー一体なんだったんだ)

 訝りながらも、スマホをテーブルに置いた。その瞬間、またも飛び上がった。インターホンがけたたましく吠え立てたのだった。心臓が恥ずかしいくらいに脈打った。信者の前では鷹揚な態度を見せているが、実のところ、小心翼々たる性質なのだ。恐る恐るインターホンを取る。

 連絡は守衛からのものだった。天鳳宛にバイク便が届いているが、いつものように明日、幹部に手渡してよいかという確認だった。深夜に近い時間のため幹部は居らず、急いで届けるべきか通常の手順でよいか、判断に迷ったのだという。

(ーーまさか)

 今しがたの電話の声が甦る。幾らなんでもタイミングが良すぎる。だがしかし。

 不気味な心持ちを必死に押し隠しながら、部屋に運ばせることにした。

 それは、パンパンに中身が詰まってはいるものの、モノ自体はありふれた、角一サイズの茶封筒だった。表に送り状が貼ってあるが、送り主の名前にも、住所にも、覚えはなかった。守衛を下がらせ、ためらいながらも封を破る。

 日頃、米軍だのコミンテルンだのが教団を狙っているなどと、荒唐無稽な陰謀を仄めかして信者たちを煙に巻いているが、天鳳自身は陰謀論など微塵も信じてはいなかった。

 適当な嘘八百を並べるだけで、被害者意識に凝り固まった信者たちは、面白いように食いついてくる。内部の結束を固めるために、外部に仮想敵国を作る。子どもでもわかる組織運営の基本だ。

 カッターで端を切り、押し込まれているものを引っ張り出した。プリントアウトされた書類と写真の束だった。ベッドの上で広げ、目を通した。今度こそ心臓が止まるかと思った。みるみる血の気が引いていく。冷たい汗が背中を伝う。

 中に詰まっていたのは天鳳がーーいや、長岡美津夫がこれまでに犯してきた、ありとあらゆる罪科だった。傷害、強盗、強姦、詐欺、それに殺人。天鳳を名乗ってから、信者獲得のためにやったインチキの数々。脱税。ひそかに進めている麻薬の製造。小児性愛。それら天鳳を三度は死刑台に送り込める、写真や資料といった証拠たちが、ふんだんにそろっているのだった。

 プレゼントーー明白な脅迫のネタ。裁判になれば無論、極刑は免れないだろう。彼の築いたささやかな王国もまた。天鳳は慄然となった。だが真の恐怖が訪れたのはその後だった。

 ぶちまけられた汚わいの中に、新聞の切抜きが一枚、あった。彼が小学生の少女を組み敷いている写真の下から覗くそれを、美津夫は震える手で取り上げた。

 ぎゃあ、と悲鳴を上げていた。記事を放り投げ、顔を覆った。それは三十年前の、とある殺人事件を報じる地方紙の記事だった。寡婦ながら、女手ひとつで息子を育てていた女性を襲った強姦殺人。犯人は逃走し依然行方知れず……。封印していた記憶が溢れ出した。

 初めて人を手に掛けた時の禍禍しい感触。実の母を犯し、首を絞めたときの、ぞくぞくするような快感。それらが生々しく甦り、暴風雨となって天鳳を揺さぶった。おこりのように震えながら、電話の主の要求を呑まねばならないと感じていた……。


***

 天鳳が眠れなくなったのは、その日からである。

 同封されていた小さな封筒には、実に奇妙な「指令」が記されていた。天鳳の信者を使い、都内各所に、あの不気味な「壁」を立てること。天鳳はそれが、環状線のように東京を半円に囲む連なりであることに気づいていた。それも、半円はひとつではなく、二重三重に張り巡らされているのだ。

 包囲網めいたそれは、誰かが何かを守っているーーあるいは封じ込めている罠のようだった。だがいったい誰が、何のために? 正直、好奇心が動かないではない。しかしそれが犬を殺すどころか、自分の首を絞めるものであることを、天鳳は確信していた。

 気をつけろ。天鳳は自分に言い聞かせた。

 

Ω

 マンションのベランダ越しに差し込む西日を、小堺有希はぼんやりと眺めている。

 オレンジ色の陽は、燃え尽きる前の炎にも似て、有希の目を刺す。

 部屋の半分がかげっているのは、ベランダの洗濯物をとりこんでいないからだ。冷たい夜気が忍び寄る前に、片付けてしまわなければ、とは分かっている。今日は夕食の支度もしていない。買い物にすら行っていないのだ。でも。

 ゆるゆると有希は、頭を廻らす。

 しばらく前から、隣りの貴志が泣き声をあげていない。

 小さな赤ちゃん用の布団に横たわって、毛布に包まれている貴志は、気持ちよくお昼寝しているようにみえる。

 有希は、ツルツルとした頬に指を当てた。

 ずっと陽が落ちていたせいか、まだ温もりがある。しかし、それも時間の問題だった。

 貴志が動くことはもうない。生まれてたった一年余りの命。その小さな灯火は唐突に消えてしまった。吹き消したのは有希。貴志は有希が殺したのだ。

 伏せられた長い睫毛は、もう開かない。白い歯の覗く唇は、もう喋らない。柔らかい髪が額にかかっている。有希に似た色の薄い髪だ。

 ベビー服に覆われてわからないが、貴志の身体中には赤や青の痣が斑に貼りついている。殴りつけ、叩きつけられた痕。小さな赤黒い点は、煙草を押しつけたときのものだ。

 夫の忠幸は気づいていない。いや、気づかない振りをしているだけかもしれない。仕事にかまけて、貴志をお風呂に入れたことすらないのだから。

 いつから始まったのか……気がついたときには、「その行為」を止めることが出来なくなってしまっていた。

 涙を流しながら腕をつねった。笑いながら脚を蹴った。「その行為」をやってしまった後、ふと我に返って、泣きじゃくる貴志を抱き締める。毎日がそれの繰り返し。

 それでも貴志は有希に手を伸ばしてきた。恐々とした様子ではあったけれど、やはり有希は世界にたった一人の母親なのだ。その愛くるしい仕草も、もう見ることはないのだ。

 そう考えて有希は不意に可笑しくなった。

 貴志の表情を、愛くるしいと思うことはあった。しかしそれは、人が、道端で犬や猫を見たときに感じるのと大差のない感情だ。無責任な、その場だけの関係。それ以上に、自分の子どもとして貴志を可愛いと思ったことなどないし、お世辞にも愛していたとは呼べないだろう。いや、どう愛せばよいか分からなかったというべきか。

 今日、貴志は朝からむずかった。有希は昨夜から頭が痛く、熱っぽい頭蓋に、子どもの高い声はずきずきと響いた。ひたすら無視した。

 昼過ぎ、お腹がすいているのだろう、泣き声は次第に大きくなっていった。食欲のない有希は、昼食の用意もせずに、漫然とテレビを眺めていた。勿論、貴志の分の食事も作ってはいない。

 番組はちょうど、有希の好きな俳優がゲストだった。誠実そうな俳優の声は、ややこもりがちで、貴志が大きな声を出すとほとんど聞き取れない。有希は苛立った。画面の中で、若手お笑いタレントが何か喋り、スタジオが笑いに包まれた。それに呼応するように貴志の泣き声も、有希の頭痛も頂点に達した。

 無意識のうちに立ち上がっていた。有希は貴志の傍に立ち、見下ろした。右手を振り上げ、掌で叩いた。ひとつふたつみっつ。叩くたびに力が込められていく。エスカレートしていく。目の前が真っ赤に染まっていた。ついには、貴志を頭上に持ち上げ、フローリングの床に落とした。何度も何度も何度も。

 ふと気づくと、息は上がり、殴ったほうの手は赤く腫れていた。貴志は床で、ぐったりと動かなくなっていた。とてつもない不安が有希を鷲掴みした。しゃがみ込み、揺すってみる。弱弱しい息。でもそれだけで反応がない。どうしようどうしようどうしよう。

 おろおろと部屋中を歩きまわる。意味があるのかないのか、とりあえず布団を敷いて寝かせてみる。そうしていると単にお昼寝をしているようにも見えて、まるで日常の一場面に戻ったようで、少し安心した。愛しいみどりごを守るように寄り添った。顔を撫でる。凍りついた。

 貴志はーーもはや息をしていなかった。

 ……あれからどれくらい経ったのだろう。冷たくなっていく貴志の隣りで、有希はぼんやりと窓の外を眺めつづけていたのだった。

 あかがね色の世界が、グラデーションを描いて、徐々に群青色の帳に変化していく。

 このまま夜になって、忠幸が帰ってきたらどうなるのだろう。

 不思議と不安や恐怖感はなかった。明日からそのままいつもの毎日が始まるような。

 それにそんなことより、有希は洗濯物のほうが気になって仕方がなかった。風が出てきて、タオルが下着がシャツがゆらゆら揺れる。はやく取り込まなくちゃ、しめっぽくなってしまう。でも、ああ、なんだかだるくて動きたくないわーー。

 それを感じたのは、ひと際強い風が、靴下を捲れあがらせた時だった。

 窓越しの視界がゆらり、と揺らいだ。何だろう。じっとそれを見ていると、次第に目が離せなくなった。

 何だろう。まるで幽霊でもいるみたい。やがて季節外れの陽炎みたく空気を歪ませて、それはゆっくりと左から右へと移動していった。有希は固唾を飲んでそれを見送った。回遊魚のいる大水槽の前みたいに。

 窓の右端へ隠れきる寸前でそれは身を翻した。無色透明なはずのそれが、遠ざかっていったのが何故かはっきりと分かった。立ち上がり、窓に近寄る。クレセント錠を外す。ひと息にサッシを開いた。

 ひんやりとした、夕方の空気が流れ込んできた。サンダルを突っ掛けるのもそこそこに、手摺にかじりついて左見右見とみこうみする。低い屋根の住宅街。遠くの高層ビル群。港区芝にあるこのマンションからは、右手奥の東京タワーもかなり大きい。

 いつもと同じ風景。特におかしなものは見当たらなかった。有希はそっと息をつく。きっとーー何かの見間違いだ。あるいは気のせいか。夕凪が首筋をくすぐる。洗ったばかりのタオルが、なぜか酷く汚らしく感じられる。意を決して手を伸ばした。

 ーーママ。

 反射的に振り返っていた。貴志の声が聞こえたーーような気がした。かはたれ刻、明りを点けていない室内は、薄闇が漂い始めている。もののかたちがはっきりしなくなってきている。

 ーーママ。

 貴志が喋った? そんなはずはない。まだ口が利けるはずはない。だが。でも。まさか。慄きながら、目を凝らした。暗闇の中で、小さな貴志が立ち上がって見えた。

「ーーった」

 予告もなく、巨大な腕で薙ぎ倒されたみたいだった。

 突き飛ばされたように部屋の中へ転がり込んだ。灼熱が腕を駆け抜けた。倒れこんだ先、有希の目の前にーー貴志のあどけない寝顔があった。青褪めた肌。まだ残っていると信じたい温もりを求めて、頬に手を伸ばしかけたーー。

 ぷひゅっ。

 貴志の顔が朱に染まった。金属臭が鼻をつく。

 びゅるっ。びゅるっ。びゅるっ。

 どこからか飛び出してきた液体が、子どもの顔に、布団に、床に降りかかる。ぼたぼたと滴が垂れる。夢でもみるような心地で、有希は液体の現れた方を見た。

 自分の右腕の肘から先が見当たらない。貴志に伸ばしたはずの右腕がない。薄暗がりの中、赤黒い血の滴る切断面に、やけに白く骨が覗く。

 ーーママ。

 意識を失う直前、有希は確かに貴志の笑い声を聞いた。



 踏み込んですぐ、バラバは遅きに失したことを悟った。犬並みに敏感なバラバの鼻は、玄関にまで溢れ出ているヘモグロビン成分ーー血臭を嗅ぎ取っていた。

 ブーツのまま、土足で室内に上がり込む。右手にはすでに、聖別された銀弾のホローポイントを装填した、H&Kの短機関銃サブマシンガンを構えている。折り畳み式の銃床にバーチカル・グリップの付いたモデルだ。

 背中を守るのは、十字架をかざし、聖水の瓶を握りしめるマリア。見た目にも心もとないこと、はなはだしい。

 しかしバラバは、臆することなく進んでいった。

 リヴィングに女と赤ん坊が倒れていた。フローリングには血だまり。女の右腕は、肘から先がなくなっていた。マリアが泡を食ってふたりに駆け寄った。バラバはその間も、周囲に油断なく警戒の目を走らせる。

 何が起こったのか。はっきりとしたことは分からないが、何かしらの〈魔〉が、ここにいたことは間違いなかった。聖母像の血涙が予言した〈魔〉が。

「マリア、聖水を」

 マリアは動かなかった。怪我人を看るのに忙しいのだ。催促すると、聖水の瓶だけが飛んできた。その慈悲。それでこそ、マリア。

 バラバは左手でそれをキャッチすると、親指で栓を抜いた。躊躇いなく聖水を口に含む。霧吹きの要領で、すぼめた口から聖水を噴き出した。

 細かい水滴となった聖水が、キラキラと広がり、そのまま宙に貼りついた。磁力が砂鉄を引きつけたように、波のような紋様が浮かび上がる。

 背後でマリアが、救急車を手配しているのを尻目に、聖水の描く軌道を、バラバの眼は追った。窓から侵入した〈魔〉は、ベランダで女の腕を食いちぎった。そしてしばらく部屋の中を旋回したあと、玄関方面へ向かっている。

「バラバ……」

 マリアのただならぬ響きを感じ取って、振り向いた。

 通報を終えたマリアが、ひどくつらそうな顔つきをしている。

「救急車を呼んだんだろ。あとは医者の領分さね」

「そうじゃなくて……」

 何だか煮えきらない。それもまた、マリア。

「ハッキリ言いなよ」

 意を決したように、マリアが口を開く。

「この子、〈魔〉に襲われたんじゃないわ」

「?」

 マリアは仕方なしに、赤ん坊の衣服をめくった。

 そこには、おぞましい傷痕。

 バラバにとって見慣れたそれは、同時に思い出したくない、悪夢めいた記憶と分かちがたく結びついている。

「お前……?」

 反射的に体が動く。サブマシンガンを女の頭に向ける。

「お前、子どもを殺したな?」

「ダメっっ!!」

 火線にマリアが割って入る。引き鉄トリガーはすでに引かれている。瞬時にそらしたが、数発が被弾。マリアが吹っ飛ぶ。

「あうっっっ!!」

 悲鳴とともに、視界いっぱいに、惨劇が広がる。

 血が。

 肉が。

 火が。

 煙が。

 匂が。

 そして。

 死が。

 …………。 ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。

 ほんの十秒ほど、意識がホワイトアウトし、また戻ってきた。

「ーーーーっ」

 バラバは、硬直した手からサブマシンガンを引き剥がした。

 マリアに駆け寄った。

「マリア!!」

 傷を見ることも忘れ、うつ伏せに倒れ伏していたマリアを、抱きかかえる。

「なんで、こんなこと……」

 ううっ、と腕の中で声がした。慌てて傷を確かめる。銀弾は、左腕を貫通しているようだった。銃創から煙が、しゅうしゅうと、不気味な泡とともに立ち上る。

「大丈夫か?」

 マリアの顔を両手で挟み込むと、マリアが弱々しくまぶたを持ち上げた。そして……。

 ばちんっ、と音がして、頬をはられた。

「~~~~っ!」

「大・丈・夫、なわけないでしょ!!  ていうか、人様にそんなもん向けるなーー!!」

 さらに、二度、三度、平手打ちされる。

「な、なんだよ」

 大丈夫じゃないか、という言葉をバラバは飲み込んだ。

 それはマリアの顔を見たから。

 マリアの二つの瞳から、涙があふれてこぼれていたからだ。

 マリアは、泣いていた。

 でもそれが、己の痛みのためでないことを、バラバは悟っていた。マリアは、その程度で壊れるように造られてはいない。

 マリアは、バラバのために泣いているのだ。

 自分を虐待して捨てた親を憎み続けるバラバを。

 そういう大人を容赦なく撃ててしまうバラバを。

 憐みからでなく、心から思いやって。

 それでこそ、マリア。なぜならーー。

 そういう設定でマリアは造られているからだ。

 わずかのあいだに、マリアの傷は、ほぼ自己修復を終えていた。

「ーー追跡を開始する」

 いたたまれなくなって、バラバはその場を離脱した。

 聖水の痕をたどると、玄関ではなく、横手のバスルームに続いているのが見て取れた。しかしすぐに中には入らず、脇の壁にもたれかかった。バラバは目を瞑った。

 せつなかった。

 マリアは、実験によって、バラバをもとに造られた。その心ですら、バラバの一部分を抽出している。ならば……。

 マリアはバラバの中にもいるはずなのだ。

 自分の中に、マリアのような慈しみがあるのだろうか。

 時折、バラバは、自分の方が造られた人間ホムンクルスなのではないかと考えるときがある。

 ヒトよりも人間らしいホムンクルス。

 機械のように殺戮をするヒト。

 果たしてどちらが人間なのだ。

 バラバは、拡散する想念を振り払うように、目標に集中した。

 バスルームに侵入、再び聖水を噴きつける。

 〈魔〉は、バスタブの排水溝をつたって出ていったようだった。

 水……。

 ピン、ときた。「〈魔〉ですらも、五元素の本質から逸脱することは難しい」と書いたのは、中世の博士偽アルボナウトだ。

 すぐさま端末で、聖庁を呼び出す。

「ハイ、クリス。ちょっと検索して欲しいんだけど。うん。いい? まず【水】、次は、【眼には見えない幻獣ア・バオ・ア・クゥー】、最後は……【肉食】」

 遥か地球の反対で、クリスがキーボードを叩く音が聞こえる。

「ん? 出た? そう。あんまり聞かないヤツね。【ギガントの水眇すいびょうじゅう】? わかった。あんがと。あ、ちょっと待った。テキスト送ってよね。うーん、『教皇ホノリウスの奥義書ザ・グリモワール・オブ・ポープ・ホノリウス』かぁ。ちょっと、アブナイかも。もっと強力なのない? そう、そっちがいい。『ウィチグス呪法典』。ブーレ手写本てしゃほんの奴ね。うん。愛してるわ」

 またたく間に、端末にテキストが送られてきた。ざっと要点を読み上げる。

 【水眇獣すいびょうじゅう】は、〈負〉の気を好む。第四容積フォースディメンションーーつまり立体積中で霊質のみが存在しうる空隙くうげきに棲み、三次元に展開して、〈負〉を喰らうのだ。

 敵の姿がおぼろげに見えた。

 数瞬前の感傷も忘れ、バラバは、凶暴な笑みを浮かべた。

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