第9話

Ψ

「本城!」

 名前を呼ばれて振り向くと、加藤はすでに歩き始めていた。

 慌てて後に従いかけて、思い止まった。病室のベッドに横たわっている男がまだ、クドクドと同じ内容を繰り返していたからだ。

 家族があまり面倒を見ていないらしく、水色のパジャマはよれ、袖口に食べ物の染みがこびりついている。

 そうしている間にも、加藤の姿は部屋から見えなくなってしまった。話を無理やり切り上げるしかなさそうだ。

「ご協力、ありがとうございました。今日のところはこれで失礼致します。また改めて、お話を伺いに参るかもしれませんが、よろしくお願い致します」

 和泉がひと息に言い切ると、男はーー名前は川端武と言ったーー一瞬、虚を突かれたような表情になった。どうして自分の話が中断されたのか、理解出来ないというような。

(この人、家でもこんな調子なのかしら)

 男が放って置かれる理由が、なんとなくわかった気がして、和泉は眉根を寄せた。

 川端のベッドは、六人部屋の一番奥、中庭に面した窓際にある。横になったまま、まったく動かない向かいの患者にちらり、と視線をくれてから、部屋を後にした。エレベーターホールで追いついた。

 加藤は、二基ずつ向かい合ったエレベーターの間をウロウロしている。どうやら、煙草が吸いたくて仕方ないらしい。でっぷりとした、太り肉の加藤が歩き回っている様は、動物園の檻に閉じ込められた熊みたいだった。

 当然のことながら病院は、基本的に禁煙だ。喫煙所に行くには広い建物を横断せねばならず、ならば外へ出たほうがまし、ということなのだろう。

 今日は珍しく事情聴取を任されたが、それは和泉に仕事をさせてくれたというよりも、はじめからやる気がないだけのことらしかった。

「まだ、すんでいませんが」

 加藤は答えない。完全無視だ。胸の内で溜息をつく。最初は腹も立ったが、今はもう諦めている。

 加藤と組んでひと月。最初の一週間は、まったく相手にされなかった。口を開けば「女の癖に」「女は黙ってろ」。和泉に何ひとつやらせないクセに、ちょっとでも分からないことを訊くと「だから女は使えねえ」と罵られる。差別的な発言が課長に咎められると、今度は無視ときた。

(まるで、子どもだ)

 だがその子どもが、和泉のパートナーなのだ。

 本庁と所轄が合同捜査をする場合、大抵、土地鑑のある所轄や隣接署の応援捜査員と、本庁の捜査員がペアになる。エリート意識の強い本庁の刑事の中には、所轄の人間を道案内程度にしか見ない人間もいるとは聞いていたが、加藤はその典型のようだった。

 加えて、完璧な男社会である警察組織にあって、和泉のような女性刑事は、いまだに時代錯誤の扱いを受けることがある。たとえコンプライアンスがどのようになっていたとしても。加藤にとって和泉は、二重の意味で蔑視されるべき対象なのだ。

 エレベーターのドアが開き、乗り込む。無言のままケージが下っていく。外来の受付を過ぎて、病院の外に出た瞬間、加藤はもう煙草に火を点けていた。

 後ろを一顧だにせずに、駐車場へ足を向ける。仕方なくついていく。

 ようするに加藤は気に食わないのだ。新米の、しかも女を押しつけられたことも、この事件そのものも。

 警視庁蔵前警察署に捜査本部が設置されたのは、三日前のことだ。奇妙な事件だった。今月に入ってから立て続けに三件、通行人の足首が切断されるという、連続傷害事件がおきていた。

 初動捜査の結果、被害者同士のつながりは見つからなかった。サラリーマン、専門学校生、隠居した金物屋の老人。年齢・職業・生活範囲、どれをとっても三者に共通点はない。従って犯行は通り魔的なものと考えられたが、問題は動機よりもその犯行方法だ。被害者たちの証言は一様だった。「気がついたら足がなくなっていた。道を歩いていたら、突然痛みを感じ、転倒した」と。

 そんな馬鹿な、と一笑に伏していた捜査員たちだったが、被害者と各事件の目撃者の証言が一致するに従って、そうもいっていられなくなった。

 最初の被害者・佐伯健吾(会社員)と二番目の児島麻里子(学生)が目撃されたのは、別々の場所とはいえ、ともに繁華街のど真ん中でーー児島事案に至っては、平日の昼間だったーー周囲には通行人をはじめ、大勢の人間がいた。確認できた誰もが、怪しい人物は見かけなかった、と話した。にもかかわらず、被害者の足は、無残にも切断された。

 三番目の戸田幸一郎老人は、隅田川べりを、自転車で走っているときに襲われた。老人が転倒したときに、近くで遊んでいた子どもたちは、はっきりとこう述べた。自転車を漕いでいる老人の足から突然、血が噴き出した、と。

 加えて、捜査本部を悩ましたのが、切断された足首が、現場から消えうせているという事実だった。

 捜査本部が次に考えたのが、現場に一種の罠のような装置が仕掛けられていたのでは、というものだ。いわゆる蟹バサミやピアノ線の類にやられたと考えれば、犯人の姿が目撃されなかった説明はつく。

 だがそうだとしても疑問点は残る。目撃証言は罠の存在とも矛盾するのだ。事実、入念な現場検証にも関わらず、罠の痕跡は何一つ発見されなかった。仮に犯人が罠や切断した足首を回収したのだとして、それはいつどのようになされたのか?

 さらに不可解なのは、被害者たちの傷痕だ。治療した医師たちは皆一様に、切断面は刃物で切られたのではなく、生き物に食い千切られたようだったと述べた。

 二番目の児島麻里子を扱った医師などは、怪我は間違いなく咬傷で、歯牙痕と思しき歯形が見られた証言した。だが現場では、動物はおろか犬すら目撃されてはおらず、今となっては足跡や毛などを探すことも難しい。

 覆面警察車両の助手席に、加藤が乗り込んだ。和泉は運転席に着き、シートベルトを締めた。

「どちらへ?」

 予定を聞かされていないので、いちいちお伺いをたてなくてはならない。加藤は不機嫌そうに、行き先を告げる。

 和泉と加藤の属する班は、一番目の、佐伯事案に関する目撃証言を集める作業に回されていた。発生時刻が深夜であること、場所が繁華街で、酔っ払いや通りすがりの人間が多いこともあって、今のところ、はかばかしい成果は得られていない。

 目の前で被害者の足を見て腰を抜かしその際に頭を打って病院に運ばれた川端などは、有力な目撃情報が期待されたが、いざ蓋を開けてみれば、まったく役には立たなかった。

 となれば、それ以外の目撃者から有用な情報が得られる可能性は低い。加藤がクサルのには、その辺の事情もあるのだろう。

(だからって、私にあたらないでよ)

 努めて無表情を保ちながら、和泉はアクセルを踏み込んだ。

 気が滅入るような天気だった。陰鬱な曇天は低く、不快指数ばかりが高い。隣で、ばかばかと、加藤が吐き出す煙が鬱陶しかった。

 ここひと月ばかり、頭が重く、気分のすぐれない日々が続いている。

 体調不良ではない。生理痛でもない。原因は分からないが、正体は分かっていた。馴染みの感覚だったからだ。

 時々、和泉には、思いもかけない何かを「受信」してしまう癖があるのだ。

 それは喩えて言うなら、自分以外の誰かが開け閉めしている窓のようなものだった。和泉の中のどこかにその窓はあって、開いているあいだ、好むと好まざるとに関わらず、色々なものが飛び込んでくる。太陽の光や、そよ風のときは良いが、嵐が吹き込み、苦手な虫が迷い込むこともある。

 自分の力ではどうしようもないため、いつからか和泉は、そうなったとき、なるたけ大人しくして、飛び込んでくるものをそのまま受け入れるようにしていた。しかし。

 近頃、和泉を悩ませている不吉な予感は、今までに経験したことのないものだった。

 ひと言で表わすなら「凶兆」とでも呼ぶべきそれは、次第に、ただならぬ様相を呈し始めていた。前触れもなく、冷や汗とともに嘔吐が襲い、眩暈に包まれることが多くなった。どうして。どうして誰も気がつかないのだ。街を覆う、澱んだ腐臭に……。

 ハンドルを強く握る。焦燥感ばかりがつのる。いつの間にか漏れ出し、人知れず濃度を増していく有毒ガスのように、気づいたときには、事態は決定的な事態に陥っているのではないか。

 あるいはーーどこかで開かれてしまったパンドラボックスから流れ出る罪悪に、世界は覆い尽くされてしまうのではないか……。

 駐車場を出て、機械的にハンドルを切った。

 表通りに出るには、病院の敷地をぐるりと半周しなければならない。角を曲がり、救急の搬送口に差し掛かったとき、それは起こった。突然、車の前に男が立ち塞がった。咄嗟にブレーキを踏み込む。身体が前のめりになる。男の身体と車のフロントが交錯した。シートベルトが身体に食い込んだ。身を震わせて、車は急停止した。

「ーーっくう」

 助手席で加藤がうめいた。頭をひとつ振ると、和泉を向いて噛みついた。

「バカヤロウ! オレを殺す気か!」

 汚いだみ声で罵られたが、和泉は聞いていなかった。全身が冷えていた。

 男がーーまだそこに立っていた。

 黒いつなぎを着た男の顔は、半ばひしゃげ、灰色の脳がはみ出している。左腕があり得ない方向に曲がり、プラプラと揺れている。

 男は、虚ろな目で和泉を見た。

 あれはーー。

 あれは死人だ。

「何だって急ブレーキなんぞ踏みやがった? ん? 野良猫でも通ったか?」

 加藤が喚きつづけている。そう、男は加藤には見えていないのだ……。

 パンドラの箱。

「……おい、いい加減にしろ」

 苛立った加藤が、肩を掴み揺さぶった。

 和泉の口から、悲鳴とも歌声ともとれる絶叫が迸った。

 男が不意に掻き消えた。

 濃い瘴気が、男の姿を顕在化させたのだ。

 がくがくと魂のない人形のように揺れながらーー和泉の意識は、すうっ、と遠退いた。



α

 望月美佐枝は、朝の「御勤おつとめ」を終えると、身も心も洗われたような、清々しい気持ちになった。

 導師どうしの御言葉に従って癒しのことばを唱え、癒しの座禅を組む。たとえどれほど、夫や子どもや両親が反対しようとも、この日課だけは欠かすことが出来ない。

 朝まだき、夫も、十六になる息子も眠りの中にいて、家の中は静まり返っている。彼らはそうやって、人生の貴重な一秒一秒を無駄にしているのだ。

 導師の教えによれば、人は生きて呼吸をしているだけで、悪しき業を重ねつづけている。

 人間に出来るのは、ひたすら心と身体を修練し、瞑想し、邪気を祓うことだけだと。だのに、夫と息子は導師の御言葉に耳を貸さないばかりか、敵対勢力の弁護士に騙されて、美佐枝を教団から取り戻そうなどと、見当違いの活動を始めている。

 美佐枝はため息をつくと、リビングからキッチンに移った。シンクの下から、洗濯用洗剤に似た紙箱を取り出す。箱の中には、白い粉末が半分ほど入っている。

 スプーンで山盛り三杯、グラスに落とす。朝食の「御真飯ごしんぱん」だ。朝だけではない。美佐枝の食事は一日二回、この「御真飯」を、これまた教団から“分けて”頂いた「御真水ごしんすい」で溶かし、コップ二杯飲むだけである。

 最初は「御真飯」の強烈な臭いに何度も噎せ、空腹感に苦しんだものだが、今となっては毎日食事の時間が楽しみですらある。

 なんとなれば、あれだけあった脂肪も落ち、結婚した当時の体重に戻ったのだ。どころか、そこからさらに体重が落ちている。これもすべて御厨みくりや天鳳てんほう様のお導きに違いない。

 もっとも、夫と息子は、痩せたのは単に栄養を摂取していないだけで、このままだと餓死してしまうなどと罰当たりな暴言を吐き、美佐枝に穢れた食物を無理やり食べさせようとする。あまつさえ、「御真飯」をゴミ箱に捨てるとは。

 その時の、夫の鬼のような形相を思い出して、美佐江は身震いした。

 どろどろとしたクリーム色の液体を、勢いよく嚥下する。グラスを丁寧に洗う。紙箱をシンクの下に戻した。

 屈んで立ち上がったとき、強烈な立ち眩みに襲われた。膝から力が抜ける。片手をシンクの縁について、身体を支えた。目蓋の裏に赤や緑の模様が踊った。冷たい汗が全身から吹きだした。

 しばらくそのままの体勢で荒い息をつく。恐る恐る目蓋を抉じ開ける。半透明の膜越しような薄ぼんやりとした視界。ふらふらとリビングに戻る。

 壁に掛かった鏡に、自分の顔が映っている。土気色の肌。落ち窪んだ眼。かさついた唇。

 一見、不健康そうに見えるが、それは身体の中の有毒物質が表面に出てきているからだ、と教団の幹部に教わった。始終熱に浮かされたような頭も、艶のないばさばさの髪の毛も、つまりは今が過渡期だからで、いずれ有毒物質が体外に出きったとき、自分は二十代の肉体に戻れるのだ。

 生まれ変わった自分を思い浮かべて、美佐枝は陶然となった。すぐに我に返った。そのためにも、自分に課せられた「御勤め」を完璧にこなさなければならない。

 美佐江は、まだふらつく脚で、庭に面したガラス戸に近づいた。ガラガラと音を立てて開く。サンダルを突っ掛け、雑草もまばらな小さな庭に下りる。

 夫の実家である、荒川区東日暮里のこの家は、古くからの下町の一角にあって、隣家との境もわずかしかない。従って庭は、陽がいつも遮られているため、じめじめと薄暗く、美佐江の一番嫌いな場所なのだ。しかし今、この庭に影が落ちているのは、隣家のせいだけではなかった。

 猫の額ほどのスペースに、巨大な壁がそびえ立っていた。木の板を並べて作られたと思しきそれは、軽く二階建ての家の屋根を越えるほどで、幅は、大人五人分はあろう。

 その大きな壁一面に、奇怪な紋様が描かれていた。赤黄青緑橙。極彩色に書き殴られ、踊り狂っているそれは、洗練された芸術家の筆遣いのようでもあり、無邪気な幼児の悪戯書きのようでもある。

 鮮やかな色遣いにもかかわらず、画面が妖しく暗い印象を与えるのは、鮮烈な色彩を割って、のたうつ蛇のような、黒く禍禍しい線が描かれているからだろう。

 美佐江はあずかり知らぬことだが、生き物めいた黒い軌跡は、あの南の島の少年の身体を覆っていた紋様と酷似している。

 二日前のことだった。突然、この家に教団の人間が訪れた。数人の信者を引き連れた幹部は、戸惑う美佐枝に、厳かに、これは御厨天鳳導師の「霊告れいこく」である、と伝えた。そして有無を言わさず「壁」を設置したのだ。

 口をついて溢れそうになった疑問は、幹部のひと言で封じられた。「貴女は天鳳様に選ばれたのです」そう告げられたとき、すべての疑問は霧散した。天にも昇る心地とはこのことだった。

 導師様のお役に立てる。あのお方が私をお選びになったのだ。

 理由など問うべきではない。いや、そもそも聞いたところで自分が理解できるだろうか。いずれ、美佐枝など思いも及ばない深遠な理由であるのに違いない、と思われた。

 ともあれーー。自分は、これでまたひとつ、霊的な階梯かいていを登ることが出来るのは間違いない。

 曙光に照らされた禍禍しい壁を見上げて、美佐枝は歓喜に打ち震えた。

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