第8話

α

 渋谷区南平台、山の手の古い街並みの中にあって、その屋敷は他を圧する偉容を誇っていた。

 敷地をぐるりと囲む高いコンクリートの塀はどこまでも続き、重厚な鉄の門扉は倣岸にも客を拒絶する。塀の上の忍び返し越しに、鬱蒼と茂るブナやクスノキが見て取れた。

 珍しく霧の濃い夜だった。ぽってりと質量をもった霧は、壁のように行く手を阻むようだった。通り過ぎる影は、車であれ人であれ、等しくその容をぼんやりと拡散させていた。

 乳白色の襞をかき分けるように、タクシーが一台、屋敷に近づいた。ためらうような素振りを見せた後、静かに車は停まった。

 後部座席のドアが開いた。黄色い明りが漏れた。中から人影が霧の海へと落ちた。長い棒状の物体を握った、ほっそりとした影。

 タクシーは慌しくその場をあとにした。赤いテールランプが霧に紛れて見えなくなると、辺りはまた白・白・白の世界。

 影はしばし立ち尽くした。息を吸い込めば、肺まで白く満たされそうな霧。それは影にとってあまり馴染みのないものだ。

 やがて影は壁沿いに歩き出す。

 両開きの門の前に辿り着く。水滴のびっしりと貼りついたそれは、能吏めいた厳格さで冷たく影を見下ろしている。実際、影は知らないことだが、塀の上の監視カメラは、門前の影の一挙手一投足をじっと窺っているのだ。

 腰を被う布以外は剥き出しの、褐色の肌。その表面には蔦のような紋様が絡まる。野生動物を思わせる佇まい。南の島の少年テトだった。

「オロゴの子トペトの子の、そのまた子テトと言います。ーー惣一郎さんにお会いしたく参りました」

 テトが口上を述べるように言った。外見とは裏腹の、流暢な日本語だった。幼い頃、祖父が少年に教え込んだのだった。

 そして遠い昔、その祖父に日本語を伝えた人物が、屋敷の中に居る筈だった。しかし屋敷から反応はなかった。

 少年の上に霧が無音で積もっていった。黒髪や睫毛が白い微細な水滴で覆われていく。

 少年はじっと動かない。まるで、一体の彫像が出現したかのようだった。

 かちり、という金属音がしたのは、少年がおとないを入れてからしばらく経ってからだった。次いで、か細い悲鳴のような軋み。水の粒子を撹拌させながら、片方の扉だけが奥へと向かって開いていく。

 隙間が、人が通れるほどになった頃、扉が止まり、中から出迎えが現れた。ぴん、と背筋を伸ばした初老の男は、黒いスーツを着こなしていた。

「お待たせいたしまして申し訳御座いません。どうぞこちらへ」

 恭しく頭を下げ、男は少年を招き入れた。

 門の向こうには、艶やかに濡れた石畳が奥へと続いていた。石畳は大型車がゆうに通れるほどの幅を持っている。等間隔で並んだ、石灯籠を模した常夜灯が、闇と光を交互に作り出している。左右の木々が枝葉を張り出して天蓋然と頭上を覆う中を、二人は歩いていく。

 男の規則正しい足音が先に立ち、少年の密やかなそれが後に続く。

 道は勿体つけるように蛇行している。都内の、それも一等地にこれほどの敷地を持つことが、どれほどの財力と権力を必要とするか、少年は知らない。

 やがて木立の間に唐突に屋敷が現れた。和洋折衷というのだろうか、二階建ての外観は年数を感じさせるものだった。手前の、車が数台は停まれる駐車場を横切って、促されるままに、少年は中に通された。

 木製の扉の奥は、玄関ホールになっている。空調の利いた邸内は、快適な温度に保たれている。天井には趣味のよいシャンデリア。緋色の絨毯は、少年の裸足を柔らかく受け止める。少年は初めての感触を不思議そうに味わう。

 階段を上り、奥へ奥へと進んだ。

 所々に置かれた上品で高価な調度たちに少年の目が奪われることは、勿論ない。とあるドアの前で、男は立ち止まった。強すぎず弱すぎない絶妙の加減で、男はノックする。

「入りなさい」

 中から年配の、しかし張りのある声が聞こえた。男が慎重にドアを開けた。

「お連れ致しました」

 完璧な角度に身体を折って、男が礼をする。ここで初めて少年は、部屋の様子に目を奪われた。四方の壁は天井まである書架になっていて、どれにもびっしりと書物が並んでいた。

 擦り切れた革の表紙から和綴じの冊子まで、様々な大きさ、内容、年代の書物たち。それらは、そこここで書架から溢れ出し、木製の椅子や、丸テーブルや、床にまでうずたかく積まれている。少年は、今までこれほど沢山の書物を見たことがなかった。少年の教師は言葉ではなく、祖父や海や島の自然だった。

 案内の男が、一礼して席を外した。部屋の突き当たり、古びた地球儀の乗った大きなマホガニーのデスクに、老人が一人座っていた。仕立てのよいチャコールグレイのスーツ姿。ネクタイはしていない。銀髪は短く刈られている。

 老人が顔を上げ、老眼鏡を外した。目を細める。鷲鼻、えらの張った意志の強そうな顎。相手によっては幾らでも威圧感を与えることが出来る風貌だが、今その双眸は、過去を懐かしむような優しげな光を放っている。

「君がトペトのお孫さんだね」

 古い友人をいとおしむ声。

「はい」

 少年が頷く。なるほど、と老人は手に持った眼鏡のツルを口に咥えた。若い頃からの癖だ。

「あの頃のトペトにうりふたつだ。顔も声も。あれからもう、七十年以上かーー」

 老人の瞳が、しばし過ぎ去った日々を追った。その表情は、まるでつい昨日のことのようだと物語っている。だが老人は、すぐに力強い眼差しを取り戻した。

「それで、トペトは私に何をして欲しいのかね」

 それは遠い昔の約束。

 あの悲惨な戦争の最中、彼は怪我と餓えに苦しむ将校だった。瀕死の彼を救ったのはトペト少年だった。見ず知らずの異邦人を温かく迎えてくれた村人たち。たとえこの身を投げ打ってでも、友情に報いると誓ったのだった。あのときの気持ちは今も生々しく胸に刻まれている。

 少年はわずかの間、逡巡した。かつて祖父は禁忌を犯して、目の前の老人に〈大口〉のことを語ったのだといった。仲良くなった日本の若者にうっかり喋ってしまって、親父に頭の形が変わるほどぶん殴られたもんさ、と祖父は苦笑した。

 とすれば老人は、口にするのも憚られる「世界の秘密」の一端に、すでに触れていることになる。すこし考えてから、少年は話し始めた。

 ーー島に伝わる〈大口〉の捕り方について。


***

「……分かった」

 話し終えてから数分の後、老人はようやく、といった風に口を開いた。

 もしその場に、普段の彼を知る者がいたならば、驚愕したに違いない。常にはないことであるが、老人の声は微かに震え、目は血走り、顔は色を失っていた。その相貌に落ちた影はまぎれもなくーー怯えだった。

「至急、手を打とう」

 老人は卓上の電話機を取り上げた。

 少年は無意識に、銛を握り締めた。


 少年たちが、そのRV車に目をつけたのは、東池袋の、ごみごみとした裏路地に違法駐車されたそれが、ひどく場違いで目立ったからだった。

 うだるような熱帯夜だった。暑さは、日が落ちてからも一向に衰えず、空気は昼間の熱を残して粘るように生温い。

 いつものように、夜を待って三々五々集まってきた三人は、溜まり場の公園に向かう道すがら、件のRV車の脇を通りかかった。新しい車種なのに、やけに汚れているのが目についた。

 どこを移動してきたのか、タイヤどころか側面にも、ミラーにまで泥が跳ねている。なのに、それにまったく頓着していない鷹揚さが、気に入らない。

 すれ違いざま、目ざとく一人が、サイドウィンドウから中を覗き込む。助手席には、アタッシュケースがある。すぐに仲間たちを呼び止めた。

 少年たちは慣れた動きを見せた。

 小太りの一人が見張りに立ち、緑のキャップを被った少年と、ハリネズミみたいな頭の二人が、車に取りつく。

 キャップを被った方が、懐にのんだ道具を取り出す。ちらり、と後部座席に目を走らす。眉をひそめる。

 奇妙だった。そこには黒い布の掛けられた、かなり大きなものが置かれている。シートはすべて取り払われ、それしかモノが置けないように改造されている。いやーー。

 車こそがそれを運ぶ器なのだ。

 そんな考えにとり憑かれ、キャップは道具を使うのをためらった。ハリネズミが苛立ったように急かす。気を取り直して道具を持ち直した時ーーにわかに手元が翳った。

 振り向いた二人は、ぎょっとなって固まった。

 見たこともない巨漢が、彼らの背後に立っていた。陽炎めいたものが、そいつの周りを取り巻いている。

 弾かれたように飛びすさった。自然に身構えた。

 巨漢、と見たのは目の錯覚だったようだ。黒々とした男のシルエットは確かに大きかったが、肝を潰すほどではなかった。一八〇くらい、とキャップは判断した。

 ただし、身体の厚みが尋常ではない。生地を押し上げる、はちきれんばかりの筋肉が、上着ごしにもありありと見て取れる。まるで岩だ。次に目を引くのは、綺麗に剃られアタマ。そして、顔の左側にある、大きな傷痕だ。何が、というわけではないが、どことなく落ち着かなくさせられる。

 こいつは何者だろう。カーゴパンツ、ワークブーツといったいでたちで、一見して何の職業なのか判別しづらい。少なくとも筋者ではなさそうだが……。

「車から離れな」

 野太い声だった。

 自分が、埒もないことで頭を使っていることに気づいて、キャップは我に返った。今するべきことは想像ではなく、行動だった。

 どたどたと足音がして、男の背後に小太りの仲間が駆けつけた。信じられない、といった表情で男と仲間を見比べている。

 ちっ、ウスノロめ。キャップは毒づく。なんだってこんなデカイのに、気づかなかったんだ。

 周りを取り囲まれても、男に緊張した様子は見られない。ハリネズミが、素早い動作でバタフライナイフを開いた。

「顔を見られた」

 震える声でハリネズミが言った。

「ーーっ」

 やめろ、と手が伸びた。無意識の反応だった。

 ビビッてんのか。嘲弄し、振り向いたハリネズミの顔が、引き攣っている。

「けっ」

 白刃が閃いた。奇声を発して、ハリネズミがナイフを突き出した。迫り来る凶器を、男は虫でも相手にするかのように無造作にはらった。ハリネズミの身体が、枯葉のように吹っ飛ぶ。ごつり、と鈍い音を立ててビルの外壁に叩きつけられた。ナイフを持っていた腕が、ありえない方向に捻じ曲がっている。

 不細工な悲鳴が上がったと同時に、キャップの脚は地を蹴っていた。キックボクシングの道場で身につけた、回し蹴りだ。軸足のばねを利かせた必殺の一撃が、男の横っ面を捉えたと見えた瞬間、ナイキのスニーカーは空を切っていた。

 信じられないほど素早い体移動で、男は小太りの傍に立っていた。右手が小太りの顔の中心にぶち当たった。棍棒のような掌底だ。鼻血を派手に撒き散らしながら、小太りがくず折れた。

 振り向きざま、男が拳を繰り出してきた。恐ろしく重いジャブだ。ブロックごと弾き飛ばされた。反撃する余裕がない。矢つぎばやの二撃目がキャップを捉える。鼻に凄まじい衝撃。ぐわん、と世界が揺れた。キャップの意識はそこで途絶えた。

 少年たちをそのまま路上に放置して、巨漢ーー八咫坊は車に乗り込んだ。

 今しがたの立ち回りはすでに頭にない。いや、あの程度は、八咫坊にとって立ち回りと呼ぶような出来事ですらない。

 八咫坊が座ると、ゆったりとしているはずの車内が、窮屈に感じられる。エンジンに火を入れ、車を出した。

 湾岸方面にハンドルを操作しながら、八咫坊は助手席に据え付けられた機械のスイッチを入れた。

 窮屈なのは、八咫坊の体格のせいばかりではない。サイドボードから運転席の方にまで、奇怪な機械が張り出しているのだ。基盤や配線が剥き出しのそれは、ごてごてとジャンクめいて、いかがわしい。ブウウウウン、という羽虫の立てるような音が、車内を満たしていく。

 一見、カーナビのようなモニターは、通常の倍の大きさがある。その液晶画面に光が入った。縮尺された東京都に、マウスポインターのような矢印が現れる。どうやらそれは、この車の現在位置を表しているようだ。

 そのほか、画面にはもうひとつ光点が見える。紅く点滅するそれは、東京の南東部に留まっている。画面右下に二つの数値。上段は、光点と矢印の「距離」。下段は、光点の「深度」を表している。

 彼奴きゃつと、こちらの距離を測定しているのは、布を被せられ、車の後部座席に陣取っている機器だ。ヤマの宝物殿奥に納められていたそれを、八咫坊は一度だけ垣間見たことがある。いつとも知れぬ時代、どこともとれぬ場所で作られた、古い、古い、からくりだ。

 古代中国に指南車しなんしゃと呼ばれる道具があった。字面じづらどおり南の方角を指す車のことで、左右に車輪のついた箱の上に、片手を伸ばした仙人像(指南人形)が乗っている。磁石ではなく、歯車によるからくりで、車がどの方向を向いても、人形は南を指し示すようになっている。

 晋のさいひょうの著した『古今註ここんぢゅう』によれば、伝説の帝王・黄帝こうてい軒轅けんえんは、仇敵・蚩尤しゆうと、たく鹿ろくの野で戦った際にこれを用い、蚩尤の放った濃い霧の中でも、敵軍を捕らえることが出来たのだという。

 くだんのからくりの外観は、玄海によると、中国渡りのそれに似ているということだった。

 ただし、このからくりが指すのは方角ではない。ある特定のモノーー彼奴きゃつだ。言わばからくりは、彼奴専用のセンサーなのだ。からくりが弾き出した数値は、連動してモニターに映し出される。センサーに機動性を加味したのが、この特注の特務車両だ。

 現在、彼奴は比較的浅い深度を保ったまま、都内南東部の〈界面下〉を、ゆっくりと回遊している。推定年齢は一週間以内。幼生レベルのいまならば、通常の霊的攻撃でも仕留めることができるかもしれない。

 八咫坊は、唇の端に皮肉な笑みを浮かべた。

 かもしれない。

 すべては、古臭い記録からの推測に過ぎない。いまだかつて彼奴と対峙した者などいないのだから。

 からくりとともに蔵されていた『餓鬼がきこん縁起えんぎ』と呼ばれる古文書には、彼奴の宇宙的恐怖に関する記述が散見された。記述が真実なら、成長した彼奴は、とても人の手に負える相手ではない。唯一、彼奴を屠ることが出来る神器じんぎーー〈漏斗〉と記されたそれーーが、いかなるもので、一体どこにあるのか、いや、実在するのかすら、ヤマの長年の探索にも関わらず判然としないのだ。

 八咫坊は、すっと笑みをしまう。

 『縁起』が本物だろうと、偽書だろうと、所詮は同じ事だった。また、〈漏斗〉が手元にあろうが、なかろうがそれも同じ事。いずれにせよ、八咫坊に選択権はない。結局のところ八咫坊は、ヤマの手駒に過ぎない。そしてそれ以外の生き方を八咫坊は知らぬ。

 あるいは。

 あれが、自分を自由にしてくれるだろうか。

 八咫坊は、アタッシュケースにしまわれた例の文書を思い浮かべる。

 漢字とも、仮名とも異なる不思議な文字で書かれている経典だ。文字は、阿比留あひるくさ文字もじ。修験者が秘文を伝えるために用いてきた古代文字だ。


 『不空羂索ふくうけんじゃく神咒秘経しんじゅひきょう』。


 玄海が、ヤマからなくなったといい、何者かによる盗みをほのめかした最重要機密文書だ。その強力極まる呪文は、毘沙門天の統率よりかの四大鬼将を密かに脱出せしめ召喚することで、蓄財ちくざい息災そくさい延命えんめいといった現世利益、はては降魔ごうま調伏ちょうぶくなど、ありとあらゆる願いを叶えさせるという。

 ありとあらゆる願いを。

 命を奪い、命を与えることすらも。

 そしてーー。

 玄海は、八咫坊が『神咒秘経しんじゅひきょう』を持ち出したことに気づいている。

 おそらく、なぜ持ち出したのかも。

 それを追及しなかったのは、八咫坊を想う優しさかもしれない。少なくとも、自分に対する負い目であって欲しくない、と八咫坊は思っている。

 いずれ分かる事だ。

 それより今は目の前の探索に集中しなければならない。

 ーー待ってろ。すぐにとっ捕まえてやる。

 モニターを睨みながら、八咫坊は夜の街を疾走した。

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