第7話

α

 とろり、とした乳白色の霧が、東京湾を分厚く塗り込めている。

 停泊する船の群れが、倉庫の影が、首長竜めいて伸びたクレーンが、その乳白色に溶け出して、輪郭を曖昧にしている。

 明滅する灯りが、時折濃い霧の中を横切る。ぼう、と強まっては消えるそれは、深海魚の発光器のよう。光たちはゆっくりと、しかし滑らかに移動しながら、幾つも幾つも交錯している。墓地を漂う人魂のようでもある。

 やがてーーそのうちのひとつが、コンクリートで塗り固められた岸へと近づいていく。

 近づくにつれ、光は灰色の影を従えているのが分かる。小山のような巨大な船影。外国からの貨物船だ。岸の手前で、船は船首を回頭させた。大儀そうに身体を揺すり、横腹を陸へと向ける。そのままじりじりと寄せていく……。

 ……貨物船は無事、接岸に成功したようだった。タラップが渡され、甲板に人影が現れた。

 船員と思しき男たちは、聞き取りにくい言葉で声高に捲くし立てあっている。誰かが下卑た声を出し、笑いが弾けた。男たちは、ぞろぞろと連れ立ってタラップを降り始める。微細な水の粒子が、影たちの周りをゆるゆると流れる。人の形もまたぼんやりと霞んでしまう。

 今日は荷物の積み下ろしはないのだろう。街の灯りを目指して、男たちの姿が、倉庫の影へひとつまたひとつと飲み込まれていった。話し声が次第に遠ざかる。ほどなく人の気配は消え、辺りは波が堤防を洗う音と、そこここで瞬く赤や黄色や青の光だけになる。

 人工物たちの世界で、生あるモノは、陰鬱に口を閉ざす海鳥、海中の魚、建物の間を這い回る溝鼠たちーー。

 ……いや、そうではない。無人の船上、潮風に弄られ、錆びついた機械たちの隙間から、黒い影がひとつ躍り出た。

 船員たちより幾分か小さなその影は、物陰から周りを見回し、ひと気のないのを確認すると、掛けられたままのタラップへ、いっさんに走り寄った。俊敏な動きは、人というよりもましらのよう。

 影はタラップに足を掛け、慎重に降り始める。音を立てない、しなやかな身ごなしは、やはり野生のそれに近い。

 あっという間に、影は陸地に降り立った。二度三度足を踏みならした。馴染めない硬い地面に、戸惑っているようにもみえる。

 空気が流れ、霧がわずかに薄まった。影が長い棒状のものを手にしていることが、はじめて分かる。褐色の肌が、鯨面げいめん文身ぶんしんが瞬間、あらわになった。

 影ーーテトは鼻をうごめかせた。初めての土地のにおいを感じ取っていた。獣のように。

 やがて左見右見とみこうみすると少年は、思い定めた方向へと去っていった。

 音もなく。


***

K書店文庫『本当に本当にあった! 奇妙な話 その二』より抜粋


 その日、タクシー運転手のSは、車を品川区の波止場近くの路上へ停めて居眠りをしていた。前夜、仲間たちと楽しんだ徹夜マージャンのおかげで、ひどい寝不足だったのだ。

 気持ちよく夢うつつのあわいをさ迷っていると、コツコツという音がする。

 普段の習性でぱっちりと目を覚ましたSは、反射的の後部座席のドアを開けた。

 さあっ、と冷たい夜気が流れ込んできた。いつのまにか深い霧が出ていた。客が乗り込む気配。Sが振り返るより先に、にゅっと腕が後ろから突き出された。

 Sはそれを見てぎょっとなった。手には小さな紙片が握られており、そこにはとある住所が記されていた。だが、Sが驚いたのはそのせいではなかった。突き出された褐色の腕に、絡みつくような刺青が彫られていたからだ。腕は無言のまま、車を出すように促す。

 Sはごくりとつばを飲み込むと、紙片の住所を確認した。

 車を走らせながらも、Sはどうにも居心地の悪い思いをしていた。Sはどちらかというと、普段、客に話しかけるタイプのドライバーなのだが、その日ばかりはなぜか、口が開けないでいたからだ。信号待ちの際に、ちらりとバックミラーを覗き込むと、やけに小柄な影が、ちょこんと後部座席に腰掛けている。しかもその影ときたら、車内に槍のような銛のような、細長い棒を持ち込んでいるのだ。

 すっかり気味の悪くなったSは、できるだけ後ろを見ないようにしながら、紙に書いてあった住所に急行した。

 車を停め、ドアを開けた。Sが恐る恐る振り返ると、そこにはすでに誰もいなかった。

 シートの上には一万円札が二枚置いてあった。しかもそれは聖徳太子の旧札だった。


Ω

《ーー今月二十七日に起きました、タレントの辻まりあさんを狙った爆弾事件ですが、捜査は難航している模様ですーー》

 最近、民放に引き抜かれたばかりの女性キャスターが、深刻そうな表情で原稿を読み上げた。

 佐伯健吾は、びんビールをグラスに注ぎながら、映りの悪いテレビに目を向けた。

 墨田区錦糸町、会社近くの中華料理屋のテーブルは油染みて、行儀悪くついた肘がべたついているが、今さらスーツの汚れなど、気にもならなかった。

 キャスターの顔が浮かないのは、事件の現場が、ニュース番組を放送している当のテレビ局だからだろう。いま現在、自分のいる建物の中で惨事が起こったのだ。さぞや気味が悪いに違いない。佐伯はぼんやりとそんなことを考えた。

 午後十一時過ぎ。店内は、倦怠と疲労がいたるところにこびりつき、小狭い空間をいっそう薄暗くみせている。

 客は他に二人だけ。学生らしきぼろぼろのジーンズの青年と、あか抜けない中年の派手な化粧の女。それぞれ、マンガを読み、あるいはスマホの画面を睨みながら、気のない様子で料理を口に運んでいる。

 佐伯はラーメン丼の底に沈んでいる麺の切れ端を、未練たらしく摘み上げた。

《ーー芸能人を狙った爆弾事件としては、九十四年にタレントの安達祐美さん宛に封筒入りの爆弾が送りつけられたのが思い起こされますが、今回はどういった事件なんでしょうか……》

 女性キャスターの質問に、取材に当たった記者が答えた。

《ーー事件の詳しい経緯はいまだに発表されておりません。被害に遭った辻まりあさんは現在も入院中です。命に別状はないということですが、精神的なショックが強いため、警察当局も事情を聞くことが出来ないということです》

 名前だけは聞いたことがあったものの、画面に映された辻まりあの顔を見ても、まったくピンとこなかった。もっとも近頃のテレビに出ている女の子の区別など、はなから出来ないのだが。

(年取ったな)

 ため息をついてビールを呷る。

 十年前ならいざ知らず、連日の残業が身体にこたえるようになってきた。年功序列の残る古い体質の会社で、遅まきながら課長にはなったものの、残業代もつかないのではやっていけない。

 好きな酒も飲めず、少ない小遣いをやりくりして、こうしてラーメンを啜るのが関の山だった。埼玉のマンションで、とっくに寝ている女房子どもの顔を見るに、ため息ばかりがついて出る……。

 瞬く画面の奥で、ニュースはすでに動物園の人気者へと話題を移している。しかし、酒精で濁った頭は先ほどのニュースを反芻していた。

(ざまあみろ)

 吐き捨てるように呟く。

 別にまりあに恨みなどない。彼女の若さと、芸能界というおよそ自分には縁のない、華やかな世界のイメージに、にわかに反発を覚えたのだ。ニュースによれば、まりあは両手の指を失ったのだという。

(指がなんだってんだ。こっちは首を切られる寸前だっての)

 秋の人事で、大々的な人員削減が実施されることが分かっている。入社して二十年。真面目だけが取り柄でやってきたが、そんなものは何の足しにならないことは、嫌というほど知っている。自分がリストラの対象に入っているか否かは、神様と社長のみぞ知る。

 にわかにどす黒い不安が沸き起こった。

 なんでーー何で俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ。

 前触れもなく噴き出たそれは渦巻き、凝縮して、すべてをぶち壊したいという衝動に凝り固まった。コントロールの利かない激情。テーブルの上の両手がぶるぶると震える。頭の中が白熱し、視界が赤く染まった。自分でも理解できない、突然の感情の爆発だった。

 思い切り歯を食いしばった。ぎりぎりと痛みを覚えるほど顎が緊張する。見下したような態度の若い上司が、佐伯の何倍も要領の良い部下が、冷ややかな態度の妻が、汚いものを見るような娘の眼が、脳裡を高速でフラッシュバックした。

 お前ら。

 脳髄が泡立った。

 お前らみんなぶち殺してやる。

 ……ふと我に返った。視線を上げた。

 青年が、女が、店主が訝しげな目を佐伯に向けていた。どうやら唸り声を洩らしていたらしい。軽いパニック。身じろぎした拍子に、テーブルと椅子がぶつかり、音を立てた。

 女が、怯えの入り混じった表情で佐伯を見た。いたたまれなくなった。ちがうんだ。意味のない言い訳を、もごもごと口の中で唱える。千円札をテーブルに置いて、そそくさと店を後にした。

 汚れた赤い暖簾をくぐって裏路地を抜けると、たちまち音と光が、佐伯に押し寄せた。

 パチンコ屋から流れる電子音。車のクラクション。深夜だというのに街は明るく、発熱しているようだった。妙に現実感の乏しいまま、足を踏み出す。

(さっきのは何だったのか……)

 突然の破壊衝動。奔流のようなそれに抗えず、巻き込まれた自分がいた。

 佐伯は自分を、平和を愛する、つまりは気の小さい人間だと思っている。カッとなることもないではないが、基本的には、暴力沙汰や喧嘩には縁のない生活を送ってきたのだ。それが……。

 自分の中に、あれほど負のエネルギーがあったことが、意外でもあり、不気味でもあった。

(疲れて過ぎて、どうかしちまったのか)

 自問自答する。通りには眠りを知らない人々が溢れ、淀んだ川のように、だらだらと流れている。競うように大声を張り上げている若者たちは、発情期の野良猫の鳴声のように不快だった。確かにおかしかった。さほど呑んだつもりもないのに、足取りが覚束ないのだ。視界も心なしかいびつに見える。

「……?」

 ふらふらと歩く佐伯の前方に、ゆらめきが見える。地面に近いところにあるそれは、陽炎のよう。でも、こんな夜に? なおも目を凝らす。そのまま近づいていく。つい、と見えないそれが身を翻したーーようだった。

「!」

 踏み出した足が不意にガクンと流れた。ぐらり、と視界が歪み、身体が傾いだ。慌てて手足をばたつかせる。上手くバランスが取れない。力が入らない。片足を高く上げる格好は、珍妙なダンスを踊っているみたいだ。だが佐伯は真剣そのものだった。

 駄目だ。前を行く人が、地面が、急激に近づいていく。誰かと激しくぶつかったようだった。尻に硬い衝撃があった。背中と頭に柔らかい感触。

「ーーっつう!」

 しばらく目を瞑った。じいん、とどこかが痺れた。薄目を開けた。

 目の前は通行人とビニール袋の山。どうやらーー道路わきのゴミ捨て場に尻餅をついているようだった。

 つん、と生ゴミの腐敗臭が鼻を打った。通行人がちらちらと視線を向ける。いかん。起き上がらねば。

 上半身を持ち上げかけた佐伯の前に、人影が立ち塞がった。見上げて息を飲んだ。

 ガムでも噛んでいるのか、クチャクチャと口を動かした若者が、物凄い目で佐伯を睨んでいた。

 娘と同じくらいの歳の若者は、頭部の毛をすべて金色に染めているため、いっけん眉毛がないように見えた。顔面のあちこちに、虫ピンみたいなピアスが光っている。斜めに被ったキャップの下も金髪の坊主頭で、バスケットボールのユニフォームのようなシャツの真ん中に、でっかく52という数字が踊っている。

 若者が、腰まで下げただぶだぶのズボンを揺らして、上半身だけ屈み込んだ。

「んだコラ、テメエはぁ!」

 怒気を漲らせて凄む。たちまち竦みあがった。どうやら自分が若者を突き飛ばしたことになっていると気づいて、一気に血の気が引いた。いや、あの、その。声にならない声をあげて立ち上がろうとする。

「ーー?」

 再び転倒。どうして上手く立てないんだ? 焦燥感で頭の中がちりちりと焼ける。

「ふざけてんのか、おっさん、アア?」

 若者が、佐伯を上から下までねめ回す。

(勘弁してくれ。金なんかないよ)

 混乱し、焦った頭の隅で呟きながらも、別の声が響いている。

 何かがおかしい。それどころではない。

 と、佐伯を睨みつけていた若者の目が一点で止まった。訝しげな表情。それが次第に驚愕へと変わった。凍りついた若者の視線を、佐伯は追った。

 よれたスーツ。くたびれたネクタイ。いつもと同じ服装。皺くちゃのズボン。底の擦り切れた靴……。

 おや。おかしいな。靴がない。

 佐伯の右足には、靴がはまっていなかった。いや靴ではない。足首から先がみあたらないのだ。

 ズボンの裾から黒い靴下が覗き、くるぶしのあるはずのあたりから、ぴゅううと血が滴っている。

若者が、怯えた犬のような声をあげて、あとずさった。

 灼熱の感覚が徐々に脚を焼き、下半身を這い登ってきた。何処かで誰かが悲鳴を上げている。いや。叫んでいるのは俺だ。

 自分の身体が横倒しになるのを、スローモーションのように感じた。気を失う寸前、佐伯は視界の隅に透明ななにかが横切るのを、確かに見た。

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