第5話
α
少年は虚空に浮かんでいる。母なる存在の胎内に包まれている。光の乏しい薄明の世界。脈拍数は極端に下がり、生命活動は停滞している。
だがそこは死の世界ではない。
それはむしろ大いなる安らぎだ。そこは彼が生まれ、やがて還る場所なのだ。その証拠にほら。自身は意識してはいないが、自然に両の膝は折られ、両の手は顔の前で握られている。少年の格好は胎児のそれに似ている。
彼はしばしその状態でたゆとう。恐ろしいまでの無音の世界。なのに、同時にまた彼の耳朶を等間隔に心地よい響きが打つ。あるいはそれは彼自身の心音であるかもしれない。
やがてーー。
全てが満たされた至福の世界に終わりが訪れようとしている。皮膚が、身体が包まれているものが生温かい海水だと認識する。耳は鼓膜を圧する水の気配を呼び覚ます。
意識した途端、浮力がたちまち彼を捉えた。身体が自ずと上昇していく、抗いがたい引力だ。光がーー次第にその領域を広げていく。静謐な蒼穹の中のような世界から、生命の活気溢れる透明な世界へ。
そしてーー赤がねと黄金の入り混じった中に少年はいた。
ごぼごぼと泡が立ち、少年は水面に顔を出した。巨大なオレンジみたいな陽が水平線に沈むところだった。遥かな海の彼方から、金の針を並べたような、きらきらと輝く黄金色の道が、少年の元まで続いている。
そのまま動けなかった。
幼いころから何百、何千と見慣れた光景であるのに、その美しさに少年は今また息を飲んだのだった。太古から連綿と繰り返されてきた宇宙の姿。慣れた動作で器用に姿勢を保ちながらしばし見惚れた後、少年は方向転換した。
抜き手を切って泳ぎだす。そこは小さな入り江の口だ。陸地へ向かって泳ぎ続ける少年の目に、砂浜に佇む人影が映る。影は次第に大きくなっていく。
汀で少年は足をついた。珊瑚質の砂が、ざらざらと足の裏を刺激する感触が少年は好きだった。
少年の肩が、腰が、脚が徐々に姿を表わす。褐色の肌。ほっそりとしていながら、しなやかな野生を秘めた肉体。夕陽を浴びて艶やかに煌く黒髪。少年が身に付けているものは水着兼用のショートパンツ。あるいは意志の強そうな眉。あるいは混じりけのない光を湛えた、黒い瞳のみだった。
いや、いや、いや。
それだけではない。腕に脚に全身に、
出迎えてくれたのは小柄な老人だった。
長年、潮風に晒された髪は白く広がり、ごわごわと硬い。赤黒い肌には深い皺が刻まれている。時代がかった腰布。全身の刺青は、少年のそれと同じもののようだった。痩せてはいるが、衰えた印象はない。年輪を重ねただけだ。
「テト」
しわがれた声で老人が言った。老人は少年の祖父だった。
「あれが、〈
〈守人〉の務め。それが時には死を意味することは、この島の人間なら誰でも知っていた。しかし少年は、静かにそれを受け止めている。まるで、日々の漁をまかされたのと同じように。
少年の父母は、随分前に海で亡くなっていた。祖父は少年にたくさんの事を教えてくれた。魚の捕り方。風や星の読み方。そして〈守人〉の果たすべきつとめについても。
祖父は温かい親代わりであり、厳しい師であり、少年の全てだった。海と同じように。その祖父の言いつけを違えることなど、少年は考えもしない。
「あれを解き放たせてはならん。必ず持ち帰るのだ。もし放たれてしまえば……」
祖父はそこで口を噤んだ。海風が唸りを上げて二人を嬲る。西から吹く不吉な風だった。少年が初めて口を開いた。
「もし、すでに解き放たれてしまっていたら」
凛、とした気高い声だった。
祖父は無言で踵を返した。ジャングルに向かって歩き出す。少年は後を追った。
老人は深い森の中をためらうことなく進んでいった。生命に満ち溢れた豊饒の世界。
繁茂する植物にさえぎられた道なき道を掻き分けいってくうちに、地面は次第に、つま先上がりに傾斜していく。おばあのところだ、と行き先が知れる。
島のやや小高い丘の懐に、その洞穴はある。鬱蒼と生い茂る木々に隠されるように、あるいは守られるように、ひっそりと岩山に穿たれたその洞穴には、入り口を塞ぐ扉があった。
マングローブの枝を編んで作られた扉は、鮮やかな色の鳥の羽の織り込まれたまじない紐や、動物の毛皮、穴のあけられた骨などがちりばめられ、異様な近寄りがたい雰囲気をまとっている。
森に阻まれ、陽はすでに見えなかったが、西の方角では、まだ空にしがみつく残光が雲を
「オボ」
祖父が静かに声を掛ける。
「……トペトかい」
洞穴の中から低い声が返ってきた。不気味に飾られた扉が開いた。
老婆がいったいいくつなのか、少年は知らなかった。村長が子どものころから、いまと同じ見た目だったと聞いたことがある。深く刻まれた皺。ざんばらに広がった白髪頭。首には、貝と木で作られた首飾りが二重、三重に掛かっている。
老婆は島の〈
「あれが〈忌所〉から持ち出された」
「ほ」
老婆オボが、首飾りをジャラジャラと鳴らして、短いまじないを呟く。
「ではーー狩りにゆくのかえ」
祖父は頷き、オボをまっすぐ見据えて言う。
「オボの力を借りねばならぬ。〈
〈白粉〉とは、祭りで男が化粧に使う染料のことだ。普通は島の女が、木の樹液から作る。どうしてそんなものを、わざわざオボの頼むのだろう。少年の疑問を察したように、祖父が答える。
「オボにこしらえてもらうのは特別な〈白粉〉だ。それを使って化粧をしてもらう。お前にではない。あれにだ」
そう言って祖父は、〈白粉〉の使い方を少年に伝えた。少年はそれを心に刻み込む。いつものように。
狩りの手順を覚えることは、少年にとっては造作もないことだ。
***
日はすっかり沈み、島には夜が訪れていた。くだんの広場の入り口で、村長が待っていた。
「申し訳ありません。ワシが外国人なぞを招いたばかりに」
村長が、苦渋と恐怖の入り混じった顔で低頭した。
彼は短慮ではあったが悪意はなかった。こんな辺鄙な島でも、幾ばくかの現金収入が必要なのだ。彼は島のために、なすべきことをしたまでだった。いささか軽率だったとしても。
祖父は軽く頷いて、広場の中央に進む。村長はついては来なかった。そこは島人にとって、決して足を踏み入れることのない場所なのだ。
村長は頭を下げると、そそくさとその場を後にした。それを見送ってから、老人は少年を巨石の傍に呼び寄せた。
歪な月が弱弱しい明かりを辺りに投げかけていたが、巨石の麓には周囲の薄闇とは異なる、黒々とした夜より暗い影が落ちていた。
祖父が、日本人が祭壇を連想した岩に、無造作に脚を掛ける。と、思いのほか身軽に岩の上によじ登っていった。
祭壇の上に立った祖父は、さらに上を目指す。天蓋然と塞ぐ岩の下にもぐりこむ。
老人の姿が闇に溶けるように見えなくなった。見上げていた少年は、なんとはなしに不安に駆られて下から覗き込んだ。祖父がこのまま消えて無くなってはしないかと。
幸いにもそれは杞憂に終わった。しばらくして祖父が降り始めた。ほっと胸を撫で下ろしたとき、少年は地上に降り立った祖父の手に、何かが握られているのに気がついた。
長い棒状のそれは、島の漁師が使う
「生まれ落ちてしまった〈
差し出されたそれを手に取った。
少年の見立て通り、なるほどそれは銛のようだったが、島の漁師が使うものとは異なり、柄は木製ではなく、銛全体が金属製だった。
しかしなんと不思議な金属か。
表面は
それに軽い。少年はそれを二、三度振り回してみる。まるで自分の身体の一部になったようだ。穂先にあたる部分には、また別の金属が取りつけられている。先端を下げて観察してみる。
刃の両側は、柄に向かってギザギザに飛び出している。月光を吸って冴え冴えと煌くそれから、魅入られたように目が離せない。表面に浮いているのは波紋だろうか。それとも見知らぬ文字だろうか。刻一刻と姿を変えていく様は、宇宙そのものを写し取っているかのようだった。
「その道具は凄まじい力を秘めているが、威力を存分に発揮するには、過たず、〈大口〉の心の臓に中てなければならん」
祖父の声が、少年の意識を引き戻した。
「やれるな」
少年の答えは簡潔だった。わずかの逡巡もなく頷いた。
「おじいに教わった通りにやる」
一点の曇りもない眼差しに、祖父の眼光が初めて和んだ。
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