第4話
Ω
月のある晩で本当に良かった、と一行の誰もが感じたに違いなかった。夕方の分厚い雲は、いつの間にかどこかへ流れてしまっていた。
村長宅を抜け出した時点では、誰もがちょっとしたハイキング気分だった。南洋の月は、不思議と日本より近く、大きく見えた。冴え冴えとした青白い光も、また常にはないほど強く感じられた。
結局、メンバーはまりあを中心に、宮部、久我山、田中、柴、雄太の六人全員になった。
念のため、ひとつきりの懐中電灯を雄太が持たされていたが、それを使う間もないほど、道行はスムーズだった。道は一本道で、特に迷うこともなく、先頭を行く雄太の背後では笑い声すら上がっていた。笑っていないのは雄太だけだった。
くだんの場所に近づくにつれ、背中がスースーし始めていた。風邪の悪寒とも違うそれは、昼間感じたのと同じ、不気味な感覚だ。
さっきまでの反動だろう、一番怖がっていたはずの久我山が、ぎゃはぎゃはと、下品な笑いを飛ばしている。頭が痛くなるほど能天気だ。
こめかみがずくずくと疼いた。疼きは次第に強まっていく。本当に頭痛がしてきたようだ。だがそんな馬鹿騒ぎも、ジャングルの入り口に立つまでだった。その場所に着くなり、全員、身体が縫いつけられたみたいに動かなくなった。
ひっ、と背後で久我山が息を飲んだ。
(ーーこりゃあ、尋常じゃないぜ。)
夜のジャングルは明りのないトンネルだった。いや、それ以上だ。得体の知れない巨大な生き物が開けたあぎとの前にいるのと変わらなかった。
木々の下の
躊躇する雄太の前で、闇溜まりが動いたーーように見えた。ゆるゆると液体めいて流動するそれが、凝り固まり、何かを形作っていくーー。
何だあれはーー。
潮騒のような轟きが押し寄せてきた。それが自分の拍動だと気づく。恐ろしいのに顔を逸らすことが出来ない。目だけが、それがなんなのかを見極めようと、勝手に吸いつけられる。ざざざざ、と潮騒が高まっていくーー。
キィエ、キィエ、キィエエエーー。
ふいに、ジャングルのどこかから奇声が上がった。呪縛が解けたように、全員がその場で飛び上がった。
動物だ、動物が咆えているに決まっている。そうだ。まりあが言っていたように、猿がいるのだろう……。
「……ねえ、ちっとも進んでないじゃないの」
自分も怖がっているだろうに、まりあが人を小馬鹿にした口調で言う。
(くそっ。)
怖気を振り払うように、懐中電灯をかざし、勢いよく足を踏み出した。
どぶん、と墨の中に放り込まれたみたいだった。一瞬にして、視界が奪われた。とろり、と微かに果実の甘い匂いの混じる、濃密な夜気が辺りに充満している。
ライトの光は、もどかしいほど狭い範囲しか照らさない。とりあえず、足下にだけは細心の注意を払って、そろそろと進みだした。
さいわいなことに、目が慣れてくるにつれ、ジャングルの中は真の闇ではないことが分かった。分厚く折り重なった枝越しに月陰が差して、暗闇に辛うじて濃淡を作っていた。
頭上から降ってくる動物の鳴き声や葉ずれの音が周囲にこだまして、思いの外、かまびすしい。緊張が緩みはじめ、それらの声々も気にならなくなってくる一方、また別の不安が雄太を捕らえ始めた。
(本当にーーこの先に広場とやらがあるか?)
奥へ奥へと進むほど木々は重なり、森はどんどん深くなっていく。足下に絡みつく下草の群れ。その中に見え隠れする踏み分け道を辿るのは、ひと苦労だ。
目印になりそうな岩や木を見つけては形を記憶しようと思うのだが、しばらくして振り返ると、あっという間に紛れてわからなくなってしまう。
(道にーー迷ったりはしないだろうな。)
それもあながち杞憂ではなくなりそうな気配がしてきたとき、唐突に視界が開けた。
我知らず、驚嘆の声を上げていた。
そこは樹木がはらわれ、地面が剥き出しになった広場だった。
大きさは、五〇メートルプールを二つ並べたくらいだろうか。中天から降り注ぐ月陰で、広場は明るい水の中のようだった。その青褪めた世界の中、歪な円形をなした空間の中央に、黒々とした影がそびえていた。
一行は中央へと歩みだす。近づくにつれ、影はかなりの大きさであることが分かる。人の背丈をゆうに越える岩を組み合わせてあるそれは、巨石のオブジェだった。
「すごい……まるでストーンヘンジだ」
興奮しているのか、上ずった声の久我山が、雄太を押しのけて石に駆け寄った。
やめろっ、と手を伸ばしかけて思い止まった。ひどく自分が臆病になった気がした。ただならぬ雰囲気に気圧された自分を鼓舞するように、雄太もまた石組みへと近づく。
***
オブジェは、五つの黒石で組み上げられていた。
地面に三角形を描いて、頂点の位置に三つ、縦長の石が立っている。高さは二・五メーターくらいだろうか、縦長とはいっても、どれもややずんぐりむっくりで、大人が三、四人で手をつながないと抱えきれないくらいの大きさだ。そして、三つの石に蓋をするように、上に平たい石が乗っている。
三角形の重心辺りに、周りのものよりやや小ぶりなーーとはいえ、一メーター六、七〇くらいはあるだろうーー石が据え置かれている。台形になったそれは、どこか祭壇めいている。
「この島は本当に変わっているね」
横で田中が、宮部に話し掛けている。
「変わってるって、何がですか」
いかにもお義理といった調子で、宮部が聞き返す。例えば、と田中は奇怪なオブジェをさして言う。
「ここいら南太平洋の地質は、ベースが玄武岩でそれに珊瑚質の白い砂浜ってのが定番なんだが……」そういって、オブジェをコツコツと叩く。「どうやらこいつは別物みたいだ」
雄太はライトで岩を照らした。確かに島中にある他の石とは、同じ黒とはいえ色合いも質感もまったく違う。まして白い珊瑚質の石とは似ても似つかない、不気味なほど黒々とした石だった。
「それに島の言葉。いわゆるオーストロネシア語も使っているみたいだけど……どうも聞いたことのない単語が混じってるんだよな」
意外に博学な田中が薀蓄を披瀝している一方、石の前では久我山がストーンヘンジについてとうとうと捲くし立てている。どうやら奴が住んでいたのは、イギリスらしい。
ストーンヘンジは、ロンドンからバスで二時間、ソールズベリ平原に忽然と出現する巨石群だ。古代の墳墓とも、太陽崇拝と関係する祭祀場とも言われている。
まりあが気のない相槌を打っている。あからさまに興味がないのだと分かる。
雄太はそんな外国の遺跡などは知らないが、やはり古い遺物を連想していた。
学生の頃、ツーリングで立ち寄った京都の木島神社だ。同行したガールフレンドが歴史好きで、仕方なくついて行ったのだが、そこで見た三つ鳥居が鮮明に記憶に残っていた。石組みの印象は、鳥居を前にしたときに感じた、あの不思議な、深淵に臨むような感覚とよく似ているのだ。
雄太は石柱の間から中を覗き込んだ。〈祭壇〉は雄太の首の高さほどもある。石屋根の下の空間は、そこだけひんやりとしている。雄太は冷凍庫を思い浮かべた。
実際そこは、カチコチに凍った魚のぎっしりと詰まった業務用冷凍庫のように、強烈ではないが、どこか生臭さの残滓が漂っているのだ。
(ーーん?)
ふと目が止まった。〈祭壇〉の上、暗闇の中に何かが煌めいたような。
もっとよく見ようと足を踏み入れかけて、ぴたりと足が止まった。ぞろり、と背中を何かが這っていった。おぞましくも厭らしい感触。犯さざるべき禁忌を犯すような。慌てて後ずさった。ここに近づいてはいけない。本能が全力でそう告げていた。早くここを離れなければ。
「お、何かあるぞ」
巨石の向こう側で声があがった。柴が同じように石組みを覗いているようだった。思い思いに石組みに取りついていた一行が、柴のところに集まった。
雄太は首をひとつ振り、みんなと一緒に柴の元へ向かった。
反対側では柴が、雄太が感じたモノになどまったく頓着がない様子で、石組みの中に入ろうとしているところだった。柴は〈祭壇〉に足を掛けると、片手を伸ばして、上辺を探る。長身の柴は、それだけで手が届くようだ。何も見つからなかったのか、さらに奥へと体を突っ込んでいく。
柴の上半身が暗がりへ消えるのを、雄太は息を呑んで凝視する。
(ーーやめろ。それだけはまずい。)
やがて何かを見つけたと見えて、満足そうに下りてきた。柴は一同の注目を浴びていることが分かると、得意げに皆の前に手を差し出した。
(ーー!!)
先ほどの比ではなかった。雄太の体表全体を悪寒が走った。ごう、と耳鳴りがした。突風に巻かれたと思った。見えない力が雄太の周りを逆巻き、通り抜けていった。たまらずよろめく。腕で顔を覆う。
悲鳴を上げていたかもしれない。恐る恐る顔を上げ、左右を見回した。
何だ、今のは。
周囲はーー何ごともなかったように、柴の掌を覗き込んでいる。いや、そもそも異変を感じている者などはいないのだ。
(俺だけーーなのか。)
震える手を擦り合わせる。一瞬で、身体が氷のように冷えていた。
(きっとーー気のせいだ。)
自分に言い聞かせる。だがもはや雄太自身が、その言葉を信じていなかった。
柴の掌のそれは、スーパーで売っているLサイズの玉子くらいの大きさだった。実際、何かの卵のように見えた。柴が雄太の手からライトをもぎ取った。光を当て、しげしげと観察する。
ゴリゴリと凹凸のある表面は、元からあった表面が罅割れたというより、幾つもの切片を貼り合せたような感じに近い。ひょっとしたら人の手によって作られたものかもしれない。だが仮にこれが人工物だとすれば、恐ろしく歪な心から生まれたものに違いない。
いや、しかし。
雄太は首を捻る。
月の光を鈍く輝映する卵は、雄太に何かを思い起こさせた。何だろう。
「石の上に窪みがあって、そこにきちんと置かれてた。ご神体って奴かな」
柴が首を捻る。
「これって……骨じゃないのかな」
宮部が誰にともなく呟いた。
そうか、と雄太は思い当たった。卵の殻を形成している切片は、黒光りする素材で出来ているのだが、その質感が、子どもの頃、博物館で見た恐竜の骨の化石に驚くほど似ているのだ。
「骨?」
田中が柴の手から卵を取り上げた。柴が一瞬、玩具を奪われた子どものような表情になった。
「あっ」久我山と柴が同時に声を上げた。田中が、手に取ったそれを、雑巾を絞る要領で、やにわに捻ったのだ。
「石に見えるけどなぁ。ふん、結構、硬いな。割ってみようか」
「ば、馬鹿! お前なんてことするんだ」
久我山が慌てて田中から〈卵〉を引っ手繰る。
「こんなもん壊して祟られたらどうするんだ」
「祟りぃ?」
田中が軽蔑したような視線を久我山に送る。だが雄太には笑う気は起こらなかった。祟りがあるかどうかは分からない。だが、あれはーー。
あれは忌まわしいものだ。
今やそれは確信に近かった。
「いやーん、こわーい」
まりあがこれみよがしに、我が身をかき抱いた。馬鹿馬鹿しい、と口に出しては言わなかったが、それで田中は明らかに興味を失ったようだった。卵を柴に放り投げると、もう、帰りましょうや、と言った。
「明日も早いし」
誰からも異論は出なかった。柴だけがなおも未練を見せていたが、久我山に元の場所に戻すよう厳命されて、しぶしぶと〈祭壇〉へと昇った。
帰り道は誰も口をきかなかった。
***
「遅いなー、まりあは」
さっきから苛立たしげな甲高い声が、久我山の口から吐き出され続けている。
「ちょっと待ってろって、何様のつもりだ」
本人がいないと、たちまち呼び捨てになる。
島の船着場。木製の危なっかしい桟橋には、機材や荷物の積まれた、小さなボートが係留されている。二日間のスケジュールを終え、ようやく日本へと帰れる日だった。
舳先に立つ、褐色の肌の若者が、田中に何か言った。頷いて田中が久我山に報告する。
「もうそろそろ出港しないと、飛行機に間に合わないみたいですよ」
話の内容とは裏腹に、船頭の若者はのんびりした動作で準備を進めている。
なにせ辺鄙な島だ。飛行場のある島まで辿り着くのもひと苦労で、まかり間違ってその飛行機に乗り遅れでもしたら、まるまる一日無駄にすることになる。そしてそんな余分な予算はおそらくない。腕時計に目を落として久我山は舌打ちした。
「おいトク、お前ひとっ走りして見てこい!」
荷物を積み終えたばかりの雄太は、天を仰いだ。あのガキャー。ウンザリしながらも動きかけたとき、「まってー」と声がした。ジャングルからまりあが駆けて来た。
馬鹿馬鹿しく大きな麦藁帽子。フリルのついたノースリーブの下で、豊かな胸が揺れている。まりあは小走りのまま近寄ると、エイッとボートに飛び乗った。
「あーよかった間に合って。久しぶりに走っちゃった」
さあ、早く帰りましょう、と久我山に絡みついた。送れてすまないという態度は微塵もない。一瞬、問い詰める素振りを見せた久我山だったが、すぐにいつもの、へらへらとした笑いを浮かべた。
若者に合図を送る。ボートがゆっくりと桟橋を離れた。
若者は器用にボートを半回転させた。煌めく海に向かって、ボートが徐々にスピードを上げていく。島がたちまち小さくなっていく。
島影が水平線に沈むまで眺めていたのは、いつになく感傷的な気分になっていたからだろう。
バタバタとうるさいエンジン音。それに混じって、田中がまりあに話し掛けているのが聞こえてきた。
「ねえねえ、まりあちゃん。どうしておそくなったのさ」
エヘヘ、とまりあが笑った。
「ナイショでーす」
(なんじゃそら。人を散々待たせておいて。)
振り返り、まりあの顔を見た雄太は、ぎょっとなった。コケティッシュな笑みを浮かべるまりあ、その顔を一瞬、禍禍しい影が過ぎったーーように見えた。
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