第3話

Ω

 まるでーー光のシャワーだ。

 徳永雄太は、柄にもなくそうひとりごちた。

 溢れんばかりにふりそそぐ熱帯の陽射しが、目に映るもの全ての輪郭をくっきりと際立たせている。遠く弧を描いて続く砂浜は、眩いほど白く浮き立っている。

 左は珊瑚礁の海。透きとおった淡いブルーから深いエメラルドグリーンまで、幾重にも複雑な色彩を重ねる。

 濡れた土の匂いとともに右に迫るジャングルは、濃い緑。時折、はっとするほど鮮やかな赤や黄やオレンジが混じるのは、名前も分からない極彩色の鳥や花のせいだ。

 空気はたっぷりとマイナスイオンを含んでいるが、不快な感じはしなかった。水と植物の放つ芳香が甘く、かぐわしい。東京の、あの何もかもが薄ぼんやりとした世界とは、まるきり違っている……。

「ちょっとぉ。もっとしっかり持ってよね」

 幸福な気分は、シャボン玉みたいに、あっさりと破られた。気どった鼻にかかった声が、甘ったるい。焼けた砂に横たわって媚態を演じていた辻まりあが、上半身を起こして睨みつけている。

 プロデューサーの久我山、監督の田中、カメラマンの柴も、雄太を見ていた。雄太は慌てて丸レフを持ち直すと、角度を改めた。

 日本を離れて十数時間。

 グアムなりサイパンなりと、いくらでも便のいい場所があるにもかかわらず、こんな南太平洋の辺鄙な小島で、グラビアアイドルDVDの撮影をするはめになったのは、ひとえに久我山の「飽きたから」というわがままのせいだった。

 そもそもが、プロデューサーが撮影に同道する必要などない。現地での制作業務を委託されている責任者は、監督の田中のはずだ。しかし親の会社で、プロデュースという名目で遊び呆けているこの男は、お気に入りのアイドルが撮影するとなると、くちばしを突っ込んでくるのだった。

 不景気な世の中だ。グラビア撮影も予算の制約が厳しくなって、それこそグアム程度ならば一泊二日の強行スケジュールもめずらしくない。しかしこのボンボンは、意に介していないらしい。カネがない、という事態が想像できないようなのだ。

 とはいえ、飛行機のエコノミーシートにも、その後の長い船旅にも雄太は、うんざりさせられていた。ようやく着いたと思ったら、ひと休みする間もなく撮影だ。少し風景に見惚れるくらい、大目にみてくれてもいいじゃないか。

 そんな不満が顔に出ていたのだろう、文句あるの、とまりあが息巻いた。

「それでもプロ? そんなんだから、いつまでたっても終わらないんじゃない」

(ーーそれにこのガキだ。)

 雄太は胸の内で毒づく。

 辻まりあは、所属事務所が今年度、力を入れている新人のひとりだ。

 お約束のスカウトの後、青年向け漫画雑誌のオーディションで、準グランプリを獲ってデヴュー。同誌のグラビアページで着実に人気を上げてきた。

 あどけなさの残るロリータフェイスと、アンバランスに成長した肢体。話す人間の頭に「?」を飛ばす不思議キャラという、外向けの「設定」とは裏腹に、まりあは大人を舐め切ったところのある少女だった。自分がうん、と言わなければ何事も進まないことを熟知していて、本当に力のある人間以外、例えば雄太のようなスタッフには、完璧に見下した態度をとる。

「まままま、まりあちゃーん。そんなに怒んないで。ね。ね。かわいー顔が台無しよ」

 久我山がとりなすように猫なで声を出した。一転、雄太の方を振り返り、トク! と、尊大な金切り声を上げた。

「まりあちゃんの言う通りだ。お前、プロとしての自覚が足らないんじゃないか。日本に帰ったら、クビだ、クビ」

 クビ、クビと、馬鹿でかいサングラスに派手なアロハの久我山が、後退した額に汗をにじませて言い募る。

(クソ、いきがりやがって。)

 一応、神妙そうに頭を下げながら、内心で雄太は舌を出した。女王サマに従う臣下みたいな久我山の卑屈な態度は、情けないのを通り越してギャグに近い。それもかなり流行遅れの。

 すかさず、メイク兼スタイリストの宮部、マネージャーの中井が、かしずく侍女たちのように駆け寄ったが、時すでに遅し。

 不貞腐れて木陰に引っ込んでしまったまりあを、なだめすかしながら、最後の夕焼けのシーンまでこぎつけたときには、一同ぐったりと疲れ果てていた。


***

 機材を仕舞うと、見透かしたようにスコールがやってきた。

 本場のスコールは、日本の夕立の比ではない。まさにバケツをひっくり返したような水が、どどど、と降りそそぐ。皆が、悲鳴をあげながら木陰にすべりこんだ。そしてスコールが唐突に止むと、夜がやってきた。

 街灯などない島では、当たり前だが太陽が水平線に沈むと、あっという間に暗闇が訪れた。まるで誰かがスウィッチをオフにしたみたいに。暦の上では満月の夜のはずだが、スコールの名残で厚い雲が空を覆っている。

 久我山のヒステリックな指示など待つまでもなく、慌しく機材を撤収する。そそくさと引き上げることにした。

 ホテルのような宿泊施設のない島で、一行が今夜泊まるのは、島の村長の自宅だった。

 ビーチに村長の息子だという若者が迎えに来てくれていた。彼が今回の撮影の現地コーディネーターである。

 島の道は当然、舗装などされていなく、自動車などの移動手段もない。ないないづくしの中、スタッフは、自分の荷物以外にも撮影用の機材を抱えながら、珊瑚質の砂が剥き出しの小道を、今夜の宿へと辿らねばならなかった。

 久我山は自分の手荷物だけで悠々と先導し、まりあに至っては、およそ不必要と思われるほど大きなトランクまで雄太に牽かせている。四輪のキャスターが付いているとはいえ、ゴツゴツした道では動かしづらいことこの上ない。いきおい、遅れがちの雄太は、しんがりを務めることになった。

 両側から圧し掛かるように迫り出したジャングルは、ところどころに罠を張り、自ら飛び込んでくる間抜けな獲物を待っているかのようだった。なんとなく不気味な雰囲気に気圧されて、雄太は押し黙った。

 ところどころ道がぬかるみ、思うように進まない。だが、違和感はそれだけではなかった。さっきから、ちりりと、首筋の毛が逆立つような感覚に襲われていた。

 ……小さいころからそうだった。自分では、幽霊や怪奇現象といったたぐいは一切信じていないつもりなのに、何かを感じてしまうのだ。

 子どもの頃、友達と近所の廃屋に探検に入ったときもそうだった。

 突然の吐き気と眩暈に襲われ、泣きながらひとり、ほうほうのていで逃げ帰った。友達はみな、雄太を弱虫と笑ったが、一ヵ月後、その廃屋の床下から白骨死体が発見されると、誰も笑わなくなった。

 夜目が利くのか、案内人の若者は、暗闇をものともせずに進んでいく。だがそれに比例して、雄太の足取りは次第に重くなっていった。

 ひい、ふう、ひい。息が上がり、胸が苦しくなってきたのは、疲労のためばかりではあるまい。どうしてかはわからないが、これ以上先に進みたくないのだ。

 とある角に差し掛かったとき、それは起こった。前方で閃光が瞬いた。カメラのフラッシュだ、と思う間もなく、隊列が止まった。

 久我山の甲高い声がしじまをつんざく。ようやく追いついてみれば、カーブのところで久我山と若者が言い争っていた。スタッフたちは棒立ちに二人を囲んでいる。

「何かあったんすか」

 輪の後ろから、肉付きのいい背中に声をかけた。

「んー」

 間延びした緊張感のない声で、監督の田中が答えた。色白・ぽっちゃり・ダサ眼鏡に、微妙なセンスのシャツという、芸人がコントで演じるときの扮装みたいなオタク・スタイルの田中は、一行の中では雄太が一番話しやすい相手だ。

「どうやら、久我山さんのデジカメが原因みたいよ」

 きっかけはまりあのひと言だった。森の中に動物だか鳥だかの影を見つけたまりあがーー彼女はそれを「お猿さん」だと言い張ったーー久我山に指図してデジカメに撮らせようとしたのだ。ところが、村長の息子がそれを制したものだから、デジカメが地面に落ち、それで二人が揉みあいになったということだった。

「へえ、なんで写真くらいで、そんなに怒ったのかな」

 よくわからないけど、と二人の間に入った柴を横目に、田中がかったるそうに答える。

「彼が言うには……ここは島の人間にとって特別な森ということになってるみたいだね。だからカメラなんか向けてはダメだって」

「何しゃべってるか、わかるんすか」

「かなり訛りが強いけど、一応、英語みたいだし」

 事も無げに答える。ちなみに、久我山も英語がしゃべれる。帰国子女というのが自慢だから、お笑いだ。

「ねえ、もうどうでもいいから早く行きましょうよ」

 自分で種をまいておいて、他人事のように、まりあが催促した。だがすっかり興奮した久我山は、駄々をこねる子どもみたいに地団駄を踏んでいる。

 嫌な予感がしたが、そのとおりになった。

「あっ」

 スタイリストの宮部が、両手で口を覆った。

 止める間もなく、久我山が森へ足を踏み入れた。全員が凍りついた。

 カメラを向けただけでこの騒動だ。まして中に入るなんて。周りが右といえば、わざわざ左を選ぶ。まるで小学生レベルだ。久我山が森の中で勝ち誇ったように足踏みをする。

 恐ろしく滑稽だが、笑えない。さすがのまりあも、若者が激昂するとみて、息をのんだ。

 がーー。

 そうはならなかった。

「ーー」

 若者がやにわに、その場に膝をついた。何が始まるんだ、と一同が見守る。

 すると若者が両手を胸の前で組み、一転して憐れっぽい声を出しはじめた。英語が理解できなくてもこれは分かった。どうやら、森から出るよう久我山に懇願しているのだ。自分の無礼を詫び、ついには地面に頭を擦りつけ始めた。呆気にとられる一同。久我山ですら、ぽかんと口を開けている。

 気まずい空気が流れた。全員の視線が久我山に注がれる。いい加減にしろよ、という無言のプレッシャー。さすがの久我山も毒気を抜かれたようだった。しぶしぶといったていで、森から離れた。

 平身低頭した若者がようやく顔を上げた。若者の表情に、雄太はぎょっとなった。目が血走り、鼻孔は膨らんでいる。額には玉のような汗。口元は無残に引き攣っている。

 恐怖だ。

 ただ事ではない恐怖が、若者をそうさせたのだ。

 ちりり、とまた首筋が逆立った。

 

 

***

「それは、それはーー大変失礼致しましたな」

 島の村長を務めるモナという男は、たいして申し訳なくもなさそうに眉を下げた。

 村長の家は島で唯一の近代建築らしく、あてがわれた部屋は、ホテル並、とまではいかないまでも、武蔵境の四畳半に住んでいる雄太からすれば、十分満足できるつくりだった。

 何より安心したのは、電灯があることだ。近隣の大きな島から持ち込んだ発電機をフル稼働させて、村長は一行をもてなしてくれた。

 アメリカへ留学した経験があるという村長は、口髭を生やした恰幅のいい人物で、一同に食後のコーヒーを勧めながら、息子の非礼を詫びた。

「あそこは奥に、祭り以外では使われない広場がありましてな。島の者たちは精霊がいるところだと信じております」

「精霊ねえ」

 久我山がぴんとこない様子で、頭髪の乏しい頭を撫でる。どうやら額の日焼けが気になるらしい。

「普段、島民にとっては禁忌の場所でして。まだまだ、迷信深い者たちがおおうございます。面白いものがあるわけでもないですから、近寄らないでいてください」

 やんわりとだが、きっぱりした口調で釘をさされた。久我山は、見るからにまだ根に持っている様子ではあったが、ささやかながらもプライドがあるのだろう、鷹揚に頷いている。

 食事が済むと各自、三々五々部屋に引き上げた。これといった娯楽もない場所だし、明日も撮影がある。雄太は田中との相部屋に戻るなり、すぐさまベッドに倒れこんだ。


***

 ……少しまどろんだようだった。重苦しい夢を見ているところを、誰かに揺すられた。

 うっすらと目を開ける。見慣れない天井。と、田中の、のっぺりとした凹凸のない顔がフレームインしてきた。喋っているようだがよく聞こえない。田中の腕が伸びて、ヘッドホンを剥がした。ようやく記憶がつながった。音楽を聞きながら、眠ってしまっていたらしい。

「目、覚めた? 久我山さんの部屋に集合だってさ」

 田中が不機嫌そうに言った。彼もまた、眠っているところを無理やり起こされたのだろう。

「なんなんすか」

 上半身だけを持ち上げる。声が擦れて上手く喋れない。体中がほてったようにだるいのは、日に焼けたせいだろうか。

「お姫様がお呼びだそうだ」

 顔をしかめて、田中が答えた。


***

「だって、妖精さんがいるんですよぅ。お友達になれるかもしれないじゃないですかぁ」

 久我山の部屋にはスタッフ全員が集まっていた。ベッドに久我山とまりあが向かい合って腰掛け、その前に、もやしみたいに縦長のカメラマン柴が腕を組み、宮部、中井の女性陣が、ボウリングのピンみたいに並んで立っている。

 いちいち説明を聞かなくても分かった。部屋にいるのに飽きたまりあが、久我山に詰め寄っているのだ。まりあは時々、こういった突飛なことを言い出しては周囲を困惑させるのだ。それも確信犯的に。

「ねえ、行きましょうよお」

「で、でもなあ、別にあそこには面白いものはないって、村長さんも言ってたし」

 珍しく久我山が異を唱える。何の事はない。久我山が超のつくビビリであることは、スタッフの誰もが知っている。要するに暗い中を出歩くのが怖いのだ。

「えー、いいじゃないですかぁ。面白いかどうかぁ、行ってみないと分からないですしぃ」

 久我山の腕に絡まって、まりあが上目遣いに迫る。口元には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。久我山のビビリを知っていて、わざとやっているのだ。

「でもね、まりあちゃん、今日はもう暗いし、遅いし、明日にしない?」

「えー、でもー絵本とかだとー、妖精さんて夜のほうが出てくるんじゃない?」

 ねえ、久我山さん、とまりあが微笑む。アイドル好きには、天使のように見えるかもしれないが、雄太には悪魔が舌なめずりしているように映った。第一、村長が言っていたのは精霊であって、妖精じゃない。もっともまりあにとっては、どっちでもよいことなのだろう。

「まりあちゃん、寝不足はお肌に悪いわよ。明日、明るくなったら行ってみましょうよ」

 宮部が、メイク担当らしい助け舟を出す。

「そうよ、何かあったら危ないもの」

 マネージャーの中井も、うんざりした顔で同意する。タレントを心配してというよりも、純粋に面倒くさいのがミエミエな態度だった。

「大丈夫ですよー。まだ遅くないし。そんなに心配なら中井さんも一緒に来ればいいじゃん」

 暖簾に腕押しとはこのことだ。口篭もってしまった中井を見て、雄太はため息をつく。

 タレントの言いなりじゃ、何のためのマネージャーなのか分からないじゃないか。

 うーん、と唸った久我山の目が、途方にくれたようにせわしなく動き、雄太を捉えた。慌てて目をそらしたが遅かった。

「おい、トク!」

 うへっ。雄太は首を竦めた。厄介なことになりそうだった。

「お前、まりあちゃんと一緒にさっきの所へ言ってこい」

(ーー何で俺が……。)

 雄太が言いかける前に、まりあが遮った。

「えー、嫌ですぅ。こんな人と二人きりでいったらぁ、何されるか分からないものぉ」

 こっちこそお断りだ、とは口には出さなかったものの、自然と仏頂面になる。

「それもそうだなあ」

 久我山が弱りきった顔で頷いている。タイミングよく、屋外から聞きなれない鳥の声が届いた。まるで手招きして誘っているかのように。

 それじゃあー、と、まりあがにっこり微笑んで両手を叩いた。

「みんなで行きましょう」

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